教養と人格と単なる感想

 Xでこのような言説があった。

 いろいろと突っ込みたいところは多々あるが、これに対して以下の反論があった。

 別にこれは最初のポストに対しての返信でも引用リポストでもないのだが、なんと勝手にXのおすすめTLに流れててきた。意外とXのおすすめTLって高性能なんだな~、などという私の感想はいったん置いておいて、まあこの反論はごもっともな感じがする。しかしそこで終わってはただの紹介noteになってしまうので、私なりにこれらについて語っていこうではないか。これが今回の趣旨である。

 ではひとまず、二つのポストに対する私の立場を表明しておこう。前者を「無教養批判ポスト」と仮置きし、後者を「教養のある悪人格ポスト」としよう。私は無教養批判ポストにはいろいろと物申したい立場であり、教養のある悪人格ポストには共感するが、補足が必要だとする立場である。

 さて、最初は二つのポストの文脈を整理していこう。大前提として、無教養批判ポストは無教養だけを批判しているのではない。よく読むと、趣味がない人間についても言及している。なので正確には、内面の非充実さを批判するポストと呼称した方がより文意を汲んでいるだろう。しかし私は、教養のある悪人格ポストと対比させるためにあえてズレた言い方をしている。実はこれは、教養のある悪人格ポストもズレた文脈で反論していることを示唆するものでもあるのだ。

 無教養批判ポストは何が言いたいのだろうか。内面の充実していない人間は露悪的な言動によってしか快楽を得られなくなる、とまとめることができそうだ。これには何か裏付けのある証拠があったりだとか、心理学的な理屈付けがあるわけではないので、このポストはいうなれば、昔のあの人の言葉正しかったな~ポストだ。なるほど生きてきての諸々の感想と思えばそこまで拒否反応を起こすほどおかしな内容ではないが、取りこぼしはたっぷりありそうだ。
 そもそも教養のない人間が必ずパワハラやセクハラに行き着くわけではないだろう。また趣味のない云々に関しては、家庭的な事情で趣味を持てない人や、無趣味に悩む人々への当てこすりでしかなく、配慮に欠けるXしぐさと言わざるを得ない。だが、ポストに当てはまるような終わった人間も存在する気配がある。まあ、それだけだ。リアルの友だちにそんな意見を表明されたらあまりいい気持ちはしない程度の本音の発露でしかない。最後の「ますよと。」に込められた精一杯の嘲りが毒気を含みすぎている気がするが。

 では教養のある悪人格ポストは何が言いたいのだろうか。これはそのまま、無教養批判ポストで言及するような人より、無教養を笑うことでしか快楽を得られない人の方が悲惨だと言いたいのだろう。そんなことはわかっているって? そうだろう。私だってわざわざ言わなくても読む人には分かると信じている。
 だがよく考えてみてほしいのだが、このポストは無教養批判ポストと論理的に何の関係もない。無教養がセクハラパワハラに行きつきやすいという言説と、教養あるものが無教養を笑う方が悲惨だという言説には何ら論理的つながりがないのだ。そもそも無教養批判ポストはただの感想であり、教養のある悪人格ポストは感想に対する感想だ。それぞれを意見の表明とそれに対する反論だとするのであれば、前者は早まった一般化を支持する詭弁の支持者であり、後者は論点のすり替えに当たる詭弁だ。どちらも論理的に危ういことを言っている。
 そもそも教養がない人間の方は手持ちの弾の問題なのだろうか。そちらにも人格的問題がありそうなものだ。教養がなくたって、昨日の美味い夕飯の話でもしてご機嫌になっていればいい話ではないか。そうでないなら人格の問題な気もするし、過酷な環境がその人を狂わせている可能性だってある。この辺りをカバーできないのがXの文字数制限の害悪だと私は感じる。

 だが、待ってほしい。私は一つ大事なことを見落としている。この二つを論理的に解析しても何の意味もないではないか。真実はこうなのだ。前者はただの感想であり、後者はその感想を抱いた者に対しての人格批判だ。無教養さを笑う人間とはすなわち無教養批判ポストをした当人のことだ。どちらも攻撃的な言い方になっているが、教養のある悪人格ポストのねらいはきっと、いたずらに無教養や無趣味を攻撃する無教養批判ポストへの戒めだ。お前はかなり乱暴な偏見を持っているぞ。俺のポストを見ろ! こんなこと言われて腹が立たないか? これがお前のしていることだ。恥を知れ! そう叫んでいるとしか思えない。

 さて、私の言いたかったことはこれでおしまいだ。私はただ、詭弁も使いようだということが言いたかっただけなのである。今まで語ってきたこともまた、詭弁であることは間違いない。しかし、世の中は詭弁でできている。論理的に正しいことは論理的に正しいことのみを意味するのであり、それは正義でも、勝利でもない。それに、なんだか昔の私を見ているようで身につまされる思いだったのだ。偏見を人に言いふらして悦に浸っていた過去の私へのけじめ、それが今回のnoteである。

 ぜひともこのような人間にならず、優しさを大切にしていただきたい。

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