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映画『英雄の証明』、SNS時代のイソップ寓話。

これはSNS時代のイソップ寓話だ。イラン社会の文化的背景とSNS、そこにアスガー・ファルハディ監督の巧みな脚本が加わった唯一無二の寓話と言えるだろう。映画表現におけるSNSの存在意義が高まる昨今、イラン社会でのその在り方は個人的には新鮮であり、これが大変面白い。

服役中の主人公ラヒムが道で金貨を拾うことから物語が始まる。そもそも服役中に金貨を拾う事自体が驚きだが、映画『英雄の証明』はきこりが囚人に、神が人間に置き換わった現代版『金の斧』とでも言うべきか。

寓話のように善悪を裁くのが全知全能の神なら良いが、不特定多数の人間が切り貼りされた情報で裁きを下すのが現代のSNSだ。この結末は嫌な予感しかしない。既にわたし達が経験している、SNSを見れば毎日繰り広げられている光景だ。都合の悪い事実が明るみになれば、瞬く間に炎上し、彼が英雄の座から力ずくで引きずり降ろされるのは目に見えている。
ラヒムが思っていた人物と違うと観客が気付く頃には、すでに彼にはたくさんの「いいね」が押されているだろう。先入観や主観は時には凶器になりうる。その感動や「いいね」は誰かを同時に傷つけているのかも知れない。

アスガー・ファルハディ監督は日常に潜む罠を見逃さない。それは悪意のない小さな嘘やつじつま合わせの為の作話など、誰しも少しは思い当たるのものだ。監督はこれらの何気ない言動のボタンの掛け違えを起こし、SNSを介す事で全く予想だにしない方向に展開させる。小さな嘘が、不特定多数の肥大した正義感や負の感情の応酬へと発展していく監督のストーリーテリングは実に見事としか言いようが無い。

そもそも神はスマホで人を裁くだろうか?
テクノロジーを手にしたわたし達は神に近付こうとしているのだろうか?そんな力などわたし達にはないと信じている。
最後にラヒムは刑務所に戻る事になるが、そこで目にする刑期を終えた夫と彼を待っていたであろう妻、この老夫婦の抱擁こそが、SNS時代の真実であるように思えてならない。

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