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痛い時は痛いなりに

線維筋痛症という診断がくだるような身体の不具合と向き合い始めて数年が経ちます。いじけたり、気楽になったりしながら、日々自分の身体で実験を重ねて、容赦のない紆余曲折を続けています。

全身の骨が破裂して中からエイリアンでも生まれてくるんじゃなかろうか、もしくは、全身の筋肉が張り裂けて巨人化するんではなかろうか、というような全身疼痛と、重力2万倍みたいな倦怠感があり、一切無理ができなくなったことで泣きながら諦めることも多々ありましたが、一切無理しなくなったおかげで救われることも多々あります。
そもそも、お人よしで気が弱く、しかも、おだてられると調子に乗りやすい私にとっては、病気によって「断る勇気」や「無理しない」が身についたありがたみを実感する機会も増えました。

2022年は日本の実家のお世話になり、半年ほど完全に引きこもって養生いたしておりましたが、その間に、自分に効きやすい薬の種類や、その処方量を色々と試して調整できるようになってきたこと、そして、家族が新しく赴任する国でも同様の薬を入手できることがわかりまして、「痛ぇ痛ぇ」とぼやきながらも、世界のあちこちでパヤパヤと暮らし続けることができております。

「痛い時は痛いなりに」という言葉ですが、これは試行錯誤の暮らしの中で私が見つけた、ささやかな、それでいて、健やかに確かに日々の暮らしを支えてくれる魔法の呪文です。

より詳しく書くと、
無理しない、
何とかしようとしない、
痛い時は痛いなりに、
これが呪文のフルコンボです。

身体があまりに痛い時や小指一本すら動かせない時はどうしようもない絶望感に襲われますが、それは当然の反応であり、そっとしておきます。自分の感情をどうにかしようとしない勇気、理想に逃げずに現実を粛々と受け止める勇気、こういう意外なことを学んでいます。

少しずつ身体が再起動し始めたら、この時こそ調子に乗った無理は禁物で、「痛い時は痛いなりに」とささやきながら、できる範囲で少しずつ動くことを選択します。自分への、このような寛容さや優しさも、人生で初めて学んでいます。

意外な発見なのですが、「痛い時は痛いなりに」で動いてみると、案外できることがあるもので、というより、変に意気込んで目を見開いて生きていた頃よりも、こっそりと実行力が上がっているのではないかしらん?と思われる場面にもたくさん出くわしています。

先日は背中が激痛で、でも、どうしても、居間にあるピーナッツバターが舐めたくて、可能な限りの細ぉく長ぁい息を吐いて、全神経を鎮めて、少し腰を落として、スルスルと滑らかに移動する自分の姿が窓に写り、何かの拳法の達人のようだったので見惚れました。

つまりは「痛い時は痛いなりに」とささやきながら身体を動かす地味な暮らしの中で、自分なりに打ち出している細かいグッジョブを、ちゃんと拾って自覚してあげたくて書き留めるようになった日記です。

ちの

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