むしろこれが、完璧
「自分が今どちらを”自分”だと思い込んで思考しているか」
ということに意識してみてください。
これは「どういう思考を、平然と”自分の思考だ”と思い込んでいるか」
の認識でもあります。
この「どっちのサイド?」と言われた時に存在する2つのサイドは
「自らの演出に没頭しているサイド」か
「演出だと理解があり、楽しんでいるサイド」か。
です。
「完璧っていわれてもなぁ、そんなおめでたいこと、ありえないだろ〜」
という思考が「自分のベース」になっていないか、確認してみてください。
もし自分のベースになっているようならば、それは
「変えようのないガチゴチの世界ゆえに自分が導き出した絶対的に正しい答え」
ではなくて、自分の意識の投影でしかない世界に対して
「”変えようのないガチゴチの世界と思い込んだ”サイドの主張」
でしかないことも思い出してみてください。
人間が人間であることや、人生、地球、喜怒哀楽、幸不幸、生死などというものが、本当に自分の思い込んだようなものであるか?
というと、確かに・・・
生まれてからこっちの数十年で「そういうものにちがいない」と「思い込んだ」だけであって「そうとは限らない」という事実もまた同じだけの確率で存在しているのもわかるはずです。
子供の頃から見てきたものや自分の外で展開しているように見えることも結局は意識体験にすぎないのだから、すべて自分の意識でつくりだした自作自演であるという視点で見てもいいわけです。
ちなみにこの
「そんなはずはない!自作自演なわけない!」
という思いと、「これは自作自演だ」という思い。
このどちらも、正当性とうさんくささは同じくらい。
ただ一つ確実に言えるのはこれまでの自分の思想が、
「信じている」というたったそれだけで、
それが「自分にとっての真実になってきた」という「信念の作用」の事実です。
そう、この「信念体系を体験する」ということは事実です。
まずはこの「どっちもさほど正当性がない」という中立で自由な視点を持ってみることで
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