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松井今朝子(1953.9.28- )「一場(いちじょう)の夢と消え 夏安居[げあんご]の日々(三)」連載第五回『オール讀物』2023年8月号

『オール讀物』2023年8月号
文藝春秋 2023年7月21日発売
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CB4XTHHW
https://www.bunshun.co.jp/business/ooruyomimono/backnumber.html?itemid=973

松井今朝子(1953.9.28- )
「一場(いちじょう)の夢と消え
 夏安居[げあんご]の日々(三)」
p.344-362
連載第五回 中川学 画

「往古の恋物語や合戦や敵討ち、寺社の縁起譚、奇瑞譚を語るのが
浄瑠璃の本領で、つい先ごろ起きた情死を語るなぞ本来あり得ない
… 
[元禄十六年]四月七日[1703年5月22日]に起きた心中事件の
ほとぼりが冷めないうちに上演するには、一刻の猶予もならず
… 
先月に当地[大坂]で起きた出来事なら地名に枕詞が要らず、
故事来歴を綴らなくてもいい… 
自分の胸にふつふつと湧いてくる詞だけで自在に書ける…

五月七日[6月20日]に初日を明けた竹本座は主演目を
「日本王代記」[井上播磨掾 -1674?]という旧作にし、
付けたりで演(だ)した切り浄瑠璃はその名も
「曽根崎心中」であった。

堂島新地の茶屋天満屋の遊女お初と、
大坂一の醤油屋平野屋の手代徳兵衛が
情死を遂げた場所は
曽根崎村にある天神の杜(もり)だった。
そこを露天神(つゆのてんじん)と呼ぶのは
大宰府に配流された菅原道真が付近を通過する際に
「露と散る涙に袖は朽ちにけり……[都のことを思いいづれば]
と詠んだ歌に由来するとも、
また祭事を梅雨時に行うからともいわれるが、
「曽根崎心中」の初興行はまさにその梅雨時に始まった」
p.357

http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000007-00010171
「『摂津名所図会』[1796-1798]では道真が筑紫へ流される時に詠んだ「露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思いいづれば」から「露天神」の号があるというが、歌自体の出典も怪しいとされる。
大阪府立図書館 錦絵にみる大阪の風景 露の天神 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/摂津名所図会


「大勢の客足を小屋に引き止めたのは
二人が死地に赴く道行だ。
この世の名残り、夜も名残り、
死に行く身を喩ふれば、あだしが原の道の霜、
一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ…

と[竹本]義太夫は
格調の高い重々しい語りだしで
客の心をぐっと引き締めた。
すると今度は若い弟子の頼母が、

あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、
残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め…

と甲高い声を張り上げて客の胸を揺さぶった。
二人の声が合わさると暗いはずの死出の道行きも
仏の光明に浄められ、ついに恋が成就して
男女のめでたく結ばれるあたかも上首尾の幕切れの
ような錯覚を起こさせるのだった。

それは世知辛い今の大坂を生きる人びとに
最も身近で新たな恋物語の誕生と受け取られ、
興行もまた上首尾で、五月雨にもめげす
竹本座の暗雲を晴らす勢いの大入りが続いていた。」
p.359

www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/曽根崎心中
「文楽現行曲 道行き 本文
この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ。 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。 鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星。必ず添ふとすがり寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩も勝るべし。 心も空も影暗く、風しん/\と更くる夜半、星が飛びしか稲妻か、死に行く身に肝も冷えて、 「アヽ怖は。いまのはなんの光ぞや」 「ヲヽあれこそ人魂よ。あはれ悲しやいま見しは、二つ連れ飛ぶ人魂よ。まさしうそなたとわしの魂」 「そんなら二人の魂か。はやお互は死にし身か。死んでも二人は一緒ぞ」 と、抱き寄せ肌を寄せ、この世の名残りぞ哀れなる。初は涙を押しぬぐひ、 「ほんに思へば昨日まで、今年の心中善し悪しを余所にいひしが、今日よりはお前もわしも噂の数。まことに今年はこなさんも二十五の厄の年、わしも十九の厄年とて、思ひ合ふたる厄祟り、縁の深さの印かや。未来は一つ蓮ぞ」 と、うちもたれてぞ泣きゐたる。 徳兵衛、初が手を取りて、 「いつはさもあれこの夜半は、せめてしばしば長からで、心も夏の短夜の、明けなばそなたともろともに浮名の種の草双紙。笑はゞ笑へ口さがを、なに憎まうぞ悔やまうぞ。人には知らじわが心。望みの通りそなたとともに一緒に死ぬるこのうれしさ。冥途にござる父母にそなたを逢はせ嫁姑、必ず添ふ」 と、抱きしむれば、初はうれしさ限りなく、 「エヽありがたい忝い。でもこなさんは羨ましい。わしが父さん母さんはまめでこの世の人なれば、いつ逢ふことの情けなや、初が心中取沙汰を明日は定めて聞くであろ、せめて心が通ふなら夢になりとも見て下され。これからこの世の暇乞ひ、懐しの母さまや、名残り惜しやの父さまや」 と、声も惜しまずむせび泣き。 「いつまでかくてあるべきぞ。死におくれては恥の恥。いまが最期ぞ。観念」 と、脇差するりと抜放つ、馴染み重ねて幾年月、いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃と 思へば弱る切先に、女は目を閉ぢ悪びれず、 「はやう殺して/\」 と、覚悟の顔の美しさ。哀れをさそふ晨朝の、寺の念仏の切回向。 『南無阿弥陀仏、/\/\』 南無阿弥陀仏を迎へにて、哀れこの世の暇乞。長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけり。」


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