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ひとりってなんだろね

数日前の昼休みのこと。
よくお話をするIさんとの会話。
「今度、〇〇で友達と映画を見に行くんだけど、その前に時間を潰せるような遊びとかお店を知らない?というか、そういう時何する?」
という質問を受け、いつものように自分なりに考えて答える。
その考える前に、質問に対して、質問返し。
「その相手はどういう関係なのか。異性か、同性か。共通の趣味はあるのか。どこで知り合った人なのか」などなど。
つまり、その相手との関係性によっても、時間を潰す手段が異なることは、自分でもそうだから。
そうした相手の立場に立ったうえで、かつ、自分の経験を照らし合わせて考えるというこの作業はとても楽しい。

結果的に、いくつか答えたものの、カラオケが無難なものとして答えた気がする。
今となってははっきり覚えておらず。
その後、会話は自然と拡がり、誰かと共に行動することと、ひとりで行動することの話になった。
ここで持論を展開していくうちに、ある1つのことに気づいてしまった。

「自分が真に欲しいものはなんだろね」
つまるところ、自分は物欲がなく、今欲しいものというものが特段。
もちろん、この間電球が切れたから、とか、ティッシュがきれたから、とか、生活に直結するものは、真に欲しいものであるが、いわゆる日常会話としてのほしいものというものがない。
来週、自分は誕生日を迎える。
先月のデートで恋人から「誕生日に何が欲しいか」と聞かれ、正直に言ってしまったのだ。
「物欲がなくて、欲しいものが特段ないんだよね」と。
強いて言うなら、仕事用の眼鏡を買い替えたいぐらいだろうか。
それでも、それが真に欲しいかと言えば、そういうわけでもなく、買いに行くほどでもない。
そう、やっぱり、真に欲しいものがない。

それと同時に、真に必要なものというのも、特段ないのだ。
このことが、まさに、ひとりでの行動というものを呼び起こさない。
ひとりで映画を見に行く、買い物に行く、カラオケに行く、そういったようなことを全くもってしない。
旅は好きだが、一人旅をしたのも、2回ぐらい。それも用事があったから。
誰かに誘われて、誰かと何かをしたいから、自分は出かけている。
自分がどこかに行く理由は、9割以上、誰かと一緒にいたいからだ。
このことに気づいてしまったのだ。

強いて言うなら、jizueというバンドが好きで、このバンドのライブをどうしても、どうしてもどうしても見たくて、別日に京都と大阪へ一泊して見に行ったぐらいか。
ついでだから、その時の映像を紹介しておこう。


このドラムの人が自分にとってのスター。憧れ。世界で一番、ドラムのパフォーマンスがすごいと思っている。
もうjizueを抜けちゃったんだけどね、この時のライブを最後に。
だから、この時、生で京都まで見に行った。

誰かといる時も、基本的にその人がやりたいことに合わせるようにしている。
もちろん、時たま、自分がやりたいことに付き合っていただくこともあるけれど、いつも申し訳ない気持ちになってしまう。
ひとりで行けばいいのに、誰かと行くようにしている。
その誰かがいなければ、基本的に行かない。

でも、大学生までの自分は、基本的に誰かの誘いは断っていた。
理由は単純で、誰かの欲望に付き合うのがめんどくさくて、自分の利益がないと思っていたから。
でも、それってすごい勘違いで。
生きている以上、他人と時間・空間を共にすることはあるし、その時、大小は問わなくとも、お互いの欲望を分かち合っているのであって。
自分の欲望に付き合っていただくこともあるんだよなって。

今は逆に、誰かの誘いによって、自分が動くことばかりになった。
と、勝手に思っているだけなのかもね。

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