私が楽園を見た話

私が楽園を見た話 木之本李ファーティマ (Queer+sでやっている読書会の会報で発表した原稿に加筆修正)

まず前提としては私は父の統失発症による父の両親と母の衝突を目の当たりにしたために私自身も小学校入学前後から統失症状を抱えて生きることになった。

月日は流れ大学を卒業後富士通系の通信システム会社に入社した私は
入社2年目の晩秋にKDDのパソコン通信システム開発プロジェクトに配属。
そして新宿KDDビルでの過酷な検収(納品)業務に翌年のGWまで従事した。
その最中は東京で遊ぶ楽しさもあり気分は高揚していたのであるがひと段落して私がかなりへたっているのを配慮したのか暇な部署に配置された。それで高揚感が一気に落ち込み夏頃3日間無断欠勤して母に連れられ精神科を受診して1か月休業、休業は開けたものの精神状態は戻らず数年休んだり出勤したりの生活であった。

結局91年6月に退社して学部の指導教官に相談した上で翌92年4月から静岡大学院の数学修士課程に通う事になった。最初は心理学か児童文学研究に行くつもりだったんだけど新聞で静岡大学の数学修士課程の募集広告を見ちゃって計画を変更した。その時は精神状態も良くないし最後の思い出にくらいのつもりだった。静岡に下宿して通院していた国立名古屋病院の主治医に相談することなく通院も服薬を止めてしまった。この主治医は母の旧姓と同じでしかも狙って行ったわけではないのに父の最初の主治医でもあった人だ。その当時まだ幼かった私の事を心配してくれていたようだ。

さらに同じ頃何となく生きる事への罪悪感からベジタリアンの真似事を始めていた。卵や乳製品は食べていたのでそれ程厳密なものではない。またこの頃はモルモン教の集会所に行ったり手かざし教団の誘いにのって集会所行ったり大須のマハポーシャにも行ったりしていた。結局入信するまでの決意には至らなかった。静岡大学時代にはやたらと過去や未来のイメージが流入する経験をした。過去の方は現実に有ったことや有ったかもしれないこと。未来の方はその後一部は本当に現実に起きることを予知したイメージであった。黙示録的な予知夢は見ていない。それは真実が含まれていることを神が示唆しているためではないかと思っている。

幻覚に囚われながらも94年春、修士号は何とか取得した。ここで博士(後期)課程進学を考えるという手もあったが自己評価が低かった当時の私は就職することにしてしまった。先の人生の望みはもう持っていなかったのだと思う。学部の時と同様に就職が中々決まらなかった。結局秋葉原の半ば派遣のプログラマーの職を得た。しかし小さい会社で社長との関係が上手く行かず同年8月には辞めた。秋葉原の会社に勤めている間はJR南武線中野島駅付近のアパートに住んでいたのだがそこで岡島百貨店から六本木の宝石店手伝いに行った10月に実際に体験することを見た。つまり未来が見えていたということである。その8月頃(7月だったかも?)見たイメージ通りに囚われて行動していたことを覚えている。

9月からパソコン雑誌で求人広告を見て応募した甲府の岡島百貨店のPC通販事業で働くことになった。百貨店の勤務は結構楽しく人間関係も良かった。ただ気になることは飯島さんと言う同僚はどう見ても小学校の同級生であった大橋さんにしか見えないし直属の上司である大塚さんは富士通の時のグループリーダーの大原さんに見えていた。どう考えても似ているのであるが別人であるのは確かだ。その頃は傍目にも言動がおかしかったのではと思うが周りは優しい人が多かった。

さて休日には甲府から時々東京に遊びに行ってたが心境が急に変わり断っていた肉食を再開した。例えば秋葉原のじゃんがらラーメン(豚骨)とか食べた。計らずも仏陀が断食修業した後にミルク粥を食べた時と同じことが起きたのかもしれない。

当時は松本サリン事件が発生したり坂本弁護士一家が行方不明になるなどの事件が多発し世紀末ムードは高まっていた。

そもそも私は幼児期の家族間トラブルで精神病んで以降軽く時に重く希死念慮に囚われて生きて来たし富士通休みがちになってからの数年は私は生きることに迷い疲れ絶望的になっていたのだがいきなり10月末から11月初にかけて救済の予感が流入した。そして六本木から戻って直後の11月の初めの運命の日の前日位に母に電話で素っ頓狂な声で世界は救われるんだってと話したことやスタークラフトという今は存在しないが当時洋物ゲームを移植していたソフトハウスのBBSで「何々さんが何々と言うような気がする。あれ?予知能力者ってP.K.ディックの作品では酷い目に遭うことになるんじゃん」みたいな書き込みしたこと、NIFTY-SERVEで神様を観たような気がすると他のユーザーへメッセージしたことなどを記憶している。

当日は前の数日にイメージで見たような人が同じように百貨店の別棟地下1階のPCショップに訪れたりしたのである。そして昼休み取って来てと大塚さんか飯島さんに言われた後、私は甲府の街に飛び出しあちこちを徘徊した。その前の数日見たイメージに従って行動していたのである。何か意味があるように思えて電柱の地名表示をチェックしたりしながら。

そして夕方、私は甲府駅に行き特急甲斐路に乗って新宿に向かった。なぜ新宿かと言うと母が60年代前半早大夜間部に通いながら新宿紀伊国屋書店で
働いていたことに引っ張られたのである。夜の新宿を徘徊したが救済が近い予感と多幸感に満たされていた。戦争の時代は終わったんだみたいな感慨もあった。芝居がかって石か何かをビルのポストに投げ入れたりして新宿東口アルタ前から延びる通り(もしかしたら歌舞伎町の方の通りもだったかも)を徘徊していた。投げ入れながら当時ハマっていた漫画家の原律子、西原理恵子、伊藤理佐のこと考えていた。(原律子は数年前深夜のテレビ番組11P.M.だったかな?で紹介されるくらい有名。西原理恵子も「ちくろ幼稚園」などで既に一般的に有名だったと思う。伊藤理佐はこの人大丈夫かと思うような不条理でぶっとんだHなギャグマンガ描いてた。「昭和の露彦さん」とかね)そして新宿駅に戻り、中央線終電?で三鷹に向かった。三鷹というのは戸川純ちゃんの実家があったのをエッセイで読んだ記憶があったからである。谷山浩子さんの街である横浜と迷った気がするが新宿駅で三鷹に決定した。

さて三鷹ではなんかヤバそうな黒ずくめの人に寄って行ってあっちへ行きなさい的身振りをされたことも記憶してる。そこでもやっぱり徘徊して最終的にカラオケボックスでドアの窓から富士通時代の知人を見たような気がしたのでそこに入り一夜を過ごした。曲を流しながら母の人生に思いを巡らせ涙を流した。全てが救われる予感を感じながら。

結局朝方店の人がやって来て所持金がない事を告げると明らかに精神状態変だし警察を呼ばれ両親が午前中に迎えに来るまで牢屋みたいな部屋で保護された。

JRで愛知の実家に戻り次の朝だったのか二日後だったのか記憶は定かではないが父も入院していたことのある名古屋市中川区の松蔭病院に入院することになった。この時もイメージに囚われて母に「ここの信号を確認するように」とか指示を出していた。さて診察が済んで入院したのだが私は病棟の入院患者をあなたはあの人ですねとか今まで会った人達と結びつけたりした。そして一人芝居みたいなことも入院初期何度か演じていた。地球周回軌道上から宇宙船からレーザー光線的なものを撃ってくるみたいな妄想もあったよ。自分ではあまり興奮しているつもりはなかったのだが保護室で保護着を装着され2回ほど自分で拘束から脱出した後棒まで縛り付けられたり。自分ではその頃の時間間隔がよく分からなかったが母の話では一月以上面会できなかったようだ。入院中はセーラー・ムーンよりによってSがやっている時期、自分をセーラー・サターン巴蛍に重ね合わせていた。闇と光の衝突の間にいるというような感覚。他には歌番組でイノセント・ワールドを何回も聞いた。アニメでは忍空とかウェディングピーチとか。野村さんという入院患者に勧められデビルマンの原作を読ませてもらった。デビルマンはアニメは見てた。雑誌の連載の一番ショックな終盤牧村美樹一家が暴徒に殺される回だけ子供の頃に見た記憶があった。そんなこんな有って翌年の4月末に退院した。1995年前半はオウムのテロ事件や阪神淡路大震災で大変なニュースばかりだったが救済の確信に満たされていたのであまりショックを受けることは無かった。

この時の入院とその後のデイケア通いで私は人付き合いを覚えたね。それまでも自分のレア存在がゆえに男子の好奇心を刺激し愛されキャラではあったが無愛想で寄ってくる男子たちにあんまりサービスしていなかった。その時身に付けたコミュニケーション・スキルは今の活動でも役に立っている。

さてここで見たイメージを整理してみる。これは一次的に見たイメージと
私が頭の中で補ったイメージが混ざっていることを断らなければならない。
まず絶対的な多幸感と救済の予感はおそらく一次的流入イメージであろうと思う。さらにまどか☆マギカではないが時間が円環として始まりに戻るというイメージやすべての人類が今までの歴史や創作物をロールプレイングしたりしながら永遠に生きるイメージ。このレベルまでは一時的に見たヴィジョンに含まれていると考えている。最後の裁きを思い起こさせるイメージは見ていないし人類がほぼ全員救済されると思っていた。おおざっぱにいうとそんな感じである。その後2,3年ほどは多幸感の影響で中二病的全能感に支配されていたので今話すと恥ずかしいような妄想も抱いた。その多幸感は9.11の前後からのいわゆる陰性症状になるまで続いた。陰性症状中はまた絶望していたのだが数年後収まると再び希望を持って生きている。

理屈をあえて述べれば断食からの肉食の他に1992年8月に弟がパートナーを得て娘を授かったということもこの精神の明転に関係しているのだろうと思う。

印象に残っているその頃の記憶断片。11p.m.後番組のEXテレビだと思うけど伊藤理佐の当時の夫ぴーすけ君を観たこと、同じ番組の違う回で戸川純ちゃんが夢で天使に会った話をしているのを観たこと。

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