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まとまらない、それが味かもしれない

予定通りに古くからの友達とごはんにいけて、
しばらく会っていないのに
思い出話が次から次へと出てきて不思議だった。

私という存在は過去の出会いや出来事すべてが複雑に、
ときに適当に絡みあって、形づくられているのだと改めて実感した。

今をたのしむ!という煽りによって、過去の大切な記憶たち、思い出たちに敬意を払わないで切り離して生活すればいいとは個人的に思わない。

マチネの終わりにという映画で印象に残った言葉がある。
「人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいるけど、
 実際は常に未来が過去を変えているんだ。」

今をたのしむことが過去未来という視点を持たず、
表面的に捉えられてしまえば人生のなかの単なる点になってしまう。

その点と点が繋がって線になるとはいうし、ここに繋がってくるのかと不思議に思ったこともある。ただ、はじめから過去の自分と対話しながらいまをたのしみ、未来を過去といまの自分と一緒になってつくっていければ単なる点としての記憶ではなく、もう少し自分の歩んできた人生に感謝しながら、主体的に自分の人生と向き合うことができるのではないか。

また、話がまとまらないなかああだこうだと書いてしまった。
話をまとめる、伝える力はひととひとが繋がる、
社会で生きていくためには必要なように感じる。
いくら察する力があるとはいえ、限界があるだろう。

だけど、そもそも上手い下手ってなんだろう?
上手い下手は優劣というイメージに繋がり、自ずと競争させ、個をもっとうまくもっとうまくと駆り立てているのではないかと思う。ならば、少なくともnoteにおいてはそれぞれがそれぞれのやりたいようにやればいいのではないか。コツもなにも本来ないのかもしれない。私の場合は文字に起こすことは考えの整理に良いし、心もぽっと軽くなる。

まとまらないまま、いま思う。
人間らしさってこういうごちゃごちゃした考えや感情のことかもしれない。
純度100%の人はいなくて、世界中のだれもが色々な矛盾や複雑なものを抱えながら生活している。それが機械には出せない味にあたるのだろうか。

いかに日々、色々なことを感じては忘れ、考えては忘れていることだろうか。こう書いているいまも目まぐるしく本人が気づかないレベルでこそこそと変化している。そのなかにはたくさんの矛盾があり、私はこうですと胸を張っては何も言えない。

だからまとまらないのが自然な状態だと思う。
そう思って読んでいただけると幸いです。

世界中のだれか一人でも、ほんの一瞬でも
温かい気持ちで繋がれたらいいな。

今日もよき人生の旅路を

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