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第三十八話 虹始見 (にじはじめてあらわる)

もくじ

 クワッ、クワッ、と夜ガラス (ゴイサギ) の鳴き声が上空を横切っていく。いちばん先にトイレの建物から出た真一は、タイル張りの歩道から頭上を見上げた。薄暮の空に置き石を置いていくような声に、もうそんな時期か、と少しだけ感慨深い気持ちになる。

 夜ガラスの声は、真一にとって、夏の夜の記憶と結び付いている。団地の公園で花火をしたとき、水銀灯の下や秘密の場所にカブトムシやクワガタを捕りに行ったとき、夜空のいずこによくこの声を聞いた。声がすると、決まって友達の誰かが鳴き真似をし、みんなで鳥の影を探したことを覚えている。

 煙草を吸ってる、と言った岡崎を外に残し、ほかの三人で店舗の中に入った。車を降りてすぐマサカズが、小腹が減った、と言ったので、真一と小林が付き合うことにしたのだ。店舗の中には軽食コーナーがある。

 物産売り場を一巡りしたあと、休憩スペースの入り口に設置された券売機で、マサカズはきつねうどん、小林はソフトクリームの食券を買った。食べたいものが何もなかった真一は、無料のお茶をすすって待つことにした。休憩スペースのお茶や水は、誰でも飲むことができる。

 マサカズと小林は食券を持ってカウンターに行き、真一は給湯器に三人分のお茶を汲みに行った。がらんとした空間に、坂本龍一 featuring Sister Mの "The Other Side of Love" が静かに流れている。別の歌手による日本語ヴァージョンも発売されているが、こちらがオリジナルだ。

 いくつも並んだテーブルの席に座っているのは、真一たちを除いて二人だけ。施設が混雑するのは土日や祝日だけで、平日の夕方の客の入りは、こんなものなのかもしれない。

 お茶の紙コップを持って戻ったら、一足早く小林が席に着いていた。いびつに盛り付けられたソフトクリームを食べるのに四苦八苦している。話しかけるのも何だったので、テーブルに紙コップを置いて、壁際の大型テレビに目を向ける。

 テレビでは夕方のニュースがやっていた。昨日一昨日と二日続けて行われた飛騨高山の春の祭の様子が紹介されている。

 金の金具があしらわれた大車輪が、画面に大写しにされた。カメラが引いて、山車の車輪とわかる。絢爛豪華な山車が、古い町並みの中をしずしずと曳かれていく。ゆっくりした山車の動きに、落ち着いた調子のお囃子がよく似合う。ナレーションによれば、飛騨高山では、山車のことを 「屋台」 と呼ぶらしい。確かに、山車を 「祭屋台」 と呼ぶこともある。高山祭は京都の祇園祭、埼玉の秩父夜祭と並んで日本三大美祭に数えられるそうだが、映像からも雅やかな雰囲気が伝わってきた。

 場面が替わって、童子の人形がアップにされた。おかっぱ頭に黒い烏帽子をかぶっている。「三番叟」 と能楽の演目の名前がついた屋台で、からくり人形による舞いが奉納されるところだった。屋台の船の舳に似た部分――「機関樋」 というらしい――を人形が所作を交えて進んでいく。黒い箱の前で扇子を開くと、パッと紙吹雪が舞って、見物人が歓声を上げた。

 神楽鈴を手にした人形が、音曲に合わせてひとさし舞う。
 箱の蓋が開き、人形は腰を屈めて中を覗く。

 上体を起こしたとき、その顔には黒い翁のお面がついていた。
 ここがいちばんの見せ場らしく、観衆がどっと沸いた。

 カメラが再び人形を捉える。

 鳴り響く拍手と歓声の中、童子の人形は、自分が老人になってしまったことも知らぬげに、観衆を見下ろしていた。

 番組はCMに入る。

 マサカズがうどんの器が乗ったトレーを持って、テーブルにやって来た。真一と二言三言交わして、うどんをすすり始める。小林は未だソフトクリームを食べることに苦戦している。極限まで薄められたお茶は、一口すすったらもう飲む気がしない。小林に鍵をもらって、車に戻ることにした。

 玄関脇の自販機で、口直しの缶コーヒーを買った。喫煙所に岡崎の姿が見えたが、煙草を吸いたいとは思わなかったので、まっすぐ駐車場へ向かった。

 広々とした駐車場には、数えるほどしか車が停まっていない。ほとんどが店舗から近い場所に固まって停まっているが、小林の車はない。わざわざ駐車場の端っこに停めたからだ。小林によれば、交通事故全体のうち、かなりの割合の事故が駐車場内で発生しているのだとか。先ほど、「駐車場に入ったからといって安心できませんよ」、と言い訳がましく力説していた。車内禁煙といい、この当て逃げ防止策といい、何かと車に神経質な男である。

 フェンスの手前にある車までやって来たが、中に入らず後ろに回る。

 緑色の笠木に肘をついて、コーヒーのプルタブを引く。もうアイスにしてもいい時期だが、冬場からの惰性で、ついホットを買ってしまった。

 足下から広がる田んぼは、まだ夕照の輝きを残す。整然と畦に区切られた水面を見渡しつつ、前方へ視線を伸ばした。田んぼの彼方、車の明かりが行き交っている所は、小林が言っていたバイパスの旧道だろうか。

 凄まじいカエルのシャワーコールだ。広漠とした空間全体が分厚い音に震えている。フェンスから手を伸ばせば、どれか一つ声をつかめそう。圧倒的に多いのは、アマガエルの声。日中鳴いていたトノサマガエル (トウキョウダルマガエル) の声は、夜が間近に迫った今、アマガエルの声に凌駕されてしまった。カエルの声だけではない。隣の空き地からは、クビキリギスの金属質な声、ググー、と篭もったオケラの声も聞こえる。遠い空に木霊する恐竜みたいな鳴き声は、アオサギの声だろう。「春宵一刻値千金」 と言うが、こうして郊外まで足を伸ばしてみると、語句に実感が伴ってくる。

 生き物たちが織り成す田園のシンフォニーに耳を傾けていたら、「アルカディア」 で見た水槽の魚たちを思い出した。

 水の中の魚たちは、何の疑念も抱いていない。自由に泳ぎ回ることも、水草の陰に隠れて優雅にヒレを動かすことも、彼らにとって当たり前の日常だ。彼らは、生まれたときからずっとそうやって過ごしてきた。ほかの日常を、彼らは知らない。

 魚たちにとって水は、人間にとっての空気と同じようなものだろう。あまりにも存在が当たり前すぎて、意識することさえない。その中にどっぷり浸かっていながら、それによって生かされているにもかかわらず……。

 世界を喪失することなど、彼らは夢にも思っていないだろう。偉大な存在の懐に抱かれて、安心し切っているように見える。

 だが、世界は、彼らが思うほど確たるものではない。
 何かの拍子に、外に飛び出してしまうこともある――あのオイカワのように。

 缶から立ち昇る湯気に息を吹きかけ、吹き飛ばした。
 コーヒーをすすって、また正面を見つめる。

 世界の外側――

 それは、彼らの知らない概念だ。

◇◇◇

 青い闇にほんのり輝く黄色い帯――道路と平行する菜の花の花壇をぼんやり見つめていたら、背後から歩道を走ってきた自転車が、真一たちの車を追い越していった。「豊年満作」 に立ち寄っている間に、車の流れは一段と悪くなっていた。緩いカーブの先まで、赤いテールランプが数珠繋ぎになっている。

 歩道の先の田んぼに目をやると、十時の方角に小さな水門の影を見つけた。茜色の空の下に、くっきりと黒いシルエットを描く。あの水槽のタナゴも、このあたりの用水路で捕ったのだろうか。

 「あじわい暦」 によれば、今日は七十二候の 「虹始見」 の候。この時期になって初めて虹が現れるという主張には疑問符がつくが、菜種梅雨の雲の切れ間に五月色の空が覗き出す今時分は、年間で最も虹が似合う時期だとは言えるかもしれない。タナゴやオイカワに婚姻色が表れるのも、だいたい今頃から。

 蓬莱公園で花見をした日から約半月。あの日のことは、昨日まですっかり忘れていた。あの日から昨日まで、あの日以前と特に変わらない日々が続いていたからだ。

 だが、昨日、岩見沢の家の前で感じた違和感によって、記憶が呼び覚まされた。そこに今日の一件が加わる。

 カードが出揃ってしまったと言うべきかもしれない。

 似たようなことが続いても、二度までなら偶然として片付けることもできるだろう。しかし、それ以上となると……。

 「アルカディア」 で見た一瞬の光景。

 小林と岡崎を包み込む世界の存在を確かに感じた。

 二人は紛れもなくその世界の一員だった。古い絵画の一部のように全体によく馴染み、周囲との調和をいささかも乱すことがない。

 彼らにだけ見えている世界がある。二人の仕草や表情から、それを感じ取ることができる。ちょうどパントマイム・パフォーマーの動作から、実際には存在しない世界を感じ取ることができるように。

 今の真一に、その世界は見えない。

 だが、以前は見えていた。
 遠い昔の話ではない。つい最近のこと。
 二人と同じ世界に生きていた。
 同じ世界の住人だったのだ。

 道の流れはいっそう悪くなり、車は動きを止めた。少し先で赤信号が灯っている。

 小林がカーステレオに手を伸ばし、車内にFM放送の音声が流れ出した。女性パーソナリティーが話題にしているのは、近頃若者の間で流行っているたまご型ゲーム機のこと。ゲストのミュージシャンと盛り上がる声がうるさく、小林はボリュームのツマミをひねる。再び寝落ちしそうな岡崎とマサカズを気遣ったのかもしれない。

 田んぼからは、サーモンピンクの輝きがだいぶ後退していた。

 茜色に暮れ残った空の下、真っ黒な山並みのシルエットが見える。稜線上に輝く横倒しの三日月が、夜空に浮かぶ小舟のようだ。月の小舟は、一番星の従者を引き連れて、夜の航海へ向かおうとする旅人でも待っているのだろうか。

 車の窓に、あの水槽のタナゴが映っている。暗くなる直前の田んぼの闇を泳いでいる。うっすら表れた婚姻色を、虹色のオーロラのように揺らめかせながら……。

 やっと青か、と小林がつぶやいた。

 信号待ちの時間が終わった。
 タイヤが再び回り出したとき、銀鱗を翻す姿が月に重なった。

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