閑話休題「天の配剤とこの世の価値観-後篇」
前回、偶然掛かってきた義父からの電話がきっかけで洋食のコックから印刷物のデザイナーの道に進んだ話しをしました。
二度目の天の配剤は私の母が亡くなったことから始まります。
デザイナーとして独立後、三年ほどで何とか売り上げも安定し三人の子供達に人並みの生活をさせてやることが出来る様になっていました。
デザインという仕事の性格上、人を使って会社を大きくすることは当初から考えておらず、一人でこなせる範囲の仕事を請けてそれなりに稼ぎ、それなりに自由な時間も持ち、充実した日々を過ごしていました。
そんな時期に、田舎で暮らしていた母が末期の大腸ガンだという連絡が入りました。
医者の見立てでは余命1年。場合によってはそれよりも早くに亡くなるかもしれないとの事でした。
結果的にはガン宣告から3年以上生きましたので、よく頑張ったのではと思います。
母の闘病中は、毎週末に車で3時間の距離にある実家近くの病院へ出向き母の病室で一緒に昼食を食べ、数時間を一緒に過ごしてから大阪の私の家にとんぼ返りする様な生活を続けたのですが、母が亡くなるとそうした事も必要なくなったので再び仕事に集中する毎日に戻っていました。
ところが、それまで順調だった生活が母が亡くなったあたりを境にあれよあれよと悪くなって行きました。
それはもう笑ってしまうほどの転落ぶりで、まず一番多くの仕事を出してくれていた会社が東京の大手IT企業に会社毎買収されてしまい、それをきっかけに仕事がゼロになりました。
しかしその時にはまだ他の得意先の仕事で生活出来ましたので、そんな事もあるさと前向きな気持ちでいられたのですが、それからほんの数ヶ月後に、もう一つの大きな得意先から仕事を切られてしまいました。
この得意先は私の創業当時からの得意先で、付き合いも長かっただけにショックも大きくしばらくは呆然としてしまう自分がいました。
その段階で生活していくだけの売り上げが不足するようになり、最初は銀行から、そのうちノンバンクなどの高利の業者から借金を重ねるようになり、結果的に破産状態へと追い込まれていきます。
これは経験して初めて分かったのですが、事業というのは始めるときよりも辞めるときの方が難しい物で、当時の私はとにかく何とか立て直そうと必死にもがき苦しみました。
しかしとうとう継続を諦めざるを得ない状況が来るのですが、丁度そのタイミングで田舎の父が体調を崩し独り暮らしが出来なくなりました。
その時の私の状況は、来月の事務所家賃が払えないのが見えていた状況だったのですが、まさにそのタイミングで父からSOSが入ったわけです。
私は渡りに船とばかりに大阪の事務所を引き払い、田舎の実家で残った少ない仕事を続けながら父を介護する生活を選びました。
当時、実家に帰る車の中でしみじみ思った事は、「母が呼んだんだな」という事でした。
父がこうなることをあの世から見て知っていた母は、私の仕事を少なくすることで私を田舎に連れ戻したのではないかと思えて仕方ありませんでした。
もし当時、私の仕事が順調であったなら、父のSOSがあっても私が実家に戻る事は出来なかったでしょう。
しかし事務所を維持出来なくなった、まさにドンピシャリのタイミングで父からSOSが届きました。これぞ天の配剤と言ってもいいのではないでしょうか。
この世的な価値観に照らせば、私が借金をして会社を潰すことは良いことではありません。
しかし天の価値観、魂の価値観から見ればそれは貴重な経験であり、こうした事を体験する為にすべてが仕組まれていたのだと、今では思う事が出来ます。
その事をきっかけに私は再び料理人の道に引き戻され、介護食を専門とする料理人として、今こうして過ごしています。
倒産から復活までの数年間は私にとって中々に辛い経験だったのですが、天上の価値観に照らせば全て順調という事になるのでしょうか。
そうだとしても、もう一度同じ様な経験はさせないでくれよと、天にいるはずの母と父には言いたいと思います。
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