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【小説】メルクリウスの喚声 第三話

   Ⅲ 生命の樹

 七月も終盤に差しかかっている。外では灼熱の太陽光線が降り注ぎ、気温も三十五度を越える日が続いているらしい。地獄のような季節だ。これまで竜也は、窓を開け放して、扇風機の風速を最大限にするくらいしか暑さを迎え撃つ方法がなかった。
 今年は違う。漫画革命賞の賞金の百万円で、エアコンを購入したのだ。それ以外に欲しい物はなく、大幅に余ってしまった金は容子に預けてある。
 涼しい部屋で、竜也は漫画原作を書いていた。悠々自適に見えるが、その心中は荒んでいた。
 室外の鉄骨階段を踏み鳴らす音が聞こえる。
「ただいま」容子が帰ってきた。「原作、書いてたのね」
「まあな」
「新作?」
「……思いついたプロットを書き殴ってただけさ」
「できあがったら、私にも読ませてね」
「ふむ」
 うなずきはしたものの、それはいつになるのやら――と投げやりな気分になった。
 梅雨の明ける前にZ出版社の談話室で高塩に冷たくあしらわれてから、新作と呼べる作品を一作も書けないでいた。何はともあれ、読み切り漫画の原作を書かなければいけないと諭されたが、どうしても連載という目標に意識がいってしまい、そのプロットばかりを考えてしまう。なぜチャンスがめぐってこないのか、編集者の熱意が足りないせいだ――と、自問自答をくりかえす。
 出版社はZ出版だけではない。漫画革命賞のグランプリ受賞を売りにして、他の出版社に連載物の持ち込みをしてみようか――などと目論んでいるが、どこへ持ち込んでも結果は同じであろうことは、竜也自身が一番よくわかっている。余計なことばかり考えているせいで、プロットすらも納得いくものが書けない。
「そういえば竜也さん――」容子が竜也の正面に坐った。「こないだサンライズに載った竜也さん原作の漫画、評判いいんだってね」
「漫画革命賞のやつか」
「高塩さんからは聞いてないの?」
「何も」
「今日、学生で親しい子に聞いたんだけど、インターネットの掲示板とかで、絶賛されてるみたいよ」
 機械を触るのが苦手でパソコンは持っていない。携帯もスマートフォンではなくガラケーだ。
「……ふうん」
 なんの感慨も湧かなかった。
 漫画革命賞のグランプリを受賞した竜也の原作をもとにして、小町春夫という新人漫画家が読み切り漫画を描いた。それが一週間前に発売された漫画サンライズに掲載された。タイトルは〈レイズ〉――中国からの帰国子女である高校生の少年二人組がギャンブルの世界でのし上がっていくストーリーだ。
 掲載されるまでのあいだ、キャラクターデザインや下描きの段階から、竜也は高塩経由で、小町の原稿を読ませてもらっていた。原作にはなかった暴力シーンが追加されていて、迫力が増していた。
 が、所詮はそこまでの話だ。漫画革命賞に関してはもう賞金も貰ったことだし、竜也の意識はすでに次作に向けられていた。Z出版から献本として送られてきたサンライズも、斜め読みしただけで放置している。
「もう終わったことだから――」
 不意に携帯が鳴り響いた。
「電話?」
「噂をすればZ出版からだ」
 電話に出た。
「結城さんですか、高塩です!」今日の高塩の声は元気だ。「雑誌を送らせていただいたのですが、届きましたか?」
「……一週間以上、前ですが」
「それが大変なんですよ。結城さん原作の漫画〈レイズ〉が、すごく反響が良くてですね――」
「インターネットの掲示板……でしたっけ」
「それだけじゃないですよ、ハガキでの読者アンケートでも多くの支持をいただいておりまして。ダントツの首位ですよ!」
「――小町さんのおかげです」
「何をおっしゃるんですか、結城さんの原作あっての作品ですよ」
 心にもない褒め言葉に、軀がむず痒くなった。
「高塩さん、よかったら今度、原稿を見てもらいたいんですが――」
 無理やり話を切りかえた。
「ほう、原稿ですか」
「連載用のプロットを考えているんです」
 また撥ねつけられるかと思ったが、どうせ失うものなど何もない。高塩の機嫌がいい今なら、案外受け入れてくれるかもしれない――という淡い期待もあった。
「それは〈レイズ〉のプロットでしょうか」
「――? 違いますよ。〈レイズ〉はもう掲載されて、終わった話じゃないですか」
 電話口の向こうで、ははは、と高塩は笑った。
「〈レイズ〉を連載しようっていう話が、編集部で出ているんです」
「えっ!?」
 聞き間違いではないのか。
「秋にはサンライズの連載枠が一つ空く予定なんです。連載に関しては小町さんもやる気ですし、結城さんはどうかな、と思いまして」
「や、やります。絶対にやります!」
「で、まだ決定ではないんですが――連載になったら、あの読み切りは一度なかったことにして、あらためて第一話からつくり直すことになります。まずは、初回三話分くらいの原作をまとめて書いていただきたいんですが」
「三話分でも十話分でも書きますよ!」
「頼もしい」高塩は笑いながらいった。「あとはストーリー全体のプロットですね。まァ、こちらは簡単なものでいいので」
「わかりました! ちなみに、それはいつまでに――」
「来月のはじめに、小町さんもまじえて打ち合わせをしたいんですけど、そのときまでにできそうですか」
 壁にぶらさがったカレンダーを見た。あと一週間程度しかない。
「もちろん、できます」
 初の連載獲得に向けてのパワーが一気に漲ってきた。
「またこちらから連絡しますね。結城さんも何かありましたら、ご連絡ください」
 竜也は不安になった。
「本当に……連載できるんですね」
「決定ではありませんが――」高塩はもう一度いった。「近いところまできています。小町さんも含め、三人で頑張りましょう」
「――はい!」
 高塩との電話を終えた。
「ふふ。すごい声だったよ」
 いつの間にかいなくなっていた容子が、洗面所から出てきた。
「もしかして、連載決まりそうなの?」
「そうなんだよ! こないだの読み切りの〈レイズ〉が人気だから、長編にするってさ」
「すごぉい、竜也さん。ついに念願の連載だね!」
 そういわれると、竜也は早合点していた自分に気づいて鼻白んだ。
「……まだ決定ではないらしいけどな。たぶん、企画が本当に通るかどうかは、おれの原作のデキにかかってるんだ」
「いつまでに、どれくらいの話を書かなくちゃいけないの?」
「あと一週間で、三話分……いや、十話分」
「一週間で十話分!? 大丈夫なの?」
「やるしかない」
「私に手伝えることがあったら、なんでもいってね?」
「ありがとう」
「あ、おなか空いてるでしょ? 大急ぎで取りかかるわ」
 台所に立って行った容子の後ろ姿に向かって、
「そういえば……助手の仕事は順調か?」
 さりげなく訊いた。
「うん、なんとかやってるよ。今月いっぱいはテスト期間だから、ちょっと大変だけどね」
「なるほど、今月いっぱいか――」
 つまり少なくともあと一週間、首藤は大学での仕事に忙殺されるのだろう。
 五月の中ごろに首藤と性交渉――メルクリウス召喚の儀式――を行なって以来、竜也は首藤と会っていない。首藤の携帯には数え切れないくらいの回数、不在着信を残した。容子の目を盗んで研究室を訪ねてみたこともあったが、いつも首藤は留守だった。
 性器を繋げることで、メルクリウスを呼び起こす。それをくりかえすことで、メルクリウスを体内に定住させる――。成功者となり、成功者であり続けるための秘儀を教えてくれたのは首藤なのに、まるで竜也を避けているかのようだった。
 あの夜、体内を満たしてくれたメルクリウスのパワーも、すっかり薄れてしまったような気がする。そんなときに連載の話を持ちかけられたのは幸運といえたが、不服でもあった。もし首藤と会い、交わっていれば、より好条件の話に変わっていたかもしれない。連載予定ではなく連載決定に――作画担当が新人ではなく有名漫画家に――原稿料アップに。読み切りを読んだ他社の編集者からも、執筆依頼がきていたかもしれない。このまま首藤と会えなければ、アイデアは枯渇し、元の木阿弥になってしまう――。
 突然、狂暴な衝動が鎌首をもたげた。竜也は立ち上がり、台所にいる容子を背後から抱きすくめた。
「きゃっ」容子は軀を固くした。「どうしたの、竜也さん――」
 竜也は、容子が身につけ終えたばかりのエプロンを剥ぎとった。
「晩ごはん、つくらなきゃ――」
「少しくらい、いいだろ」
 容子の首筋に口づけをした。何度も何度もくりかえす。容子もたまらなくなってきたらしく、官能的なため息をつきはじめた。
 ワンピースの裾をめくりあげ、さぐった。容子は流し台の縁に両手をつきながら、漏れそうになる声を押し殺している。
「入れていいか」
 その早急さに、さすがに驚いたようで、背後の竜也を振り返った。
「うん……いいよ」
 彼女は弱々しく微笑んだ。
 竜也は後ろから押し当てた。
「竜也さん?」容子がふたたび振りかえった。「あれは……?」
 彼女は避妊具のことをいいたいのだ。
 有無をいわさずに強行しようとした。しかし、彼女が身をよじるので、うまくいかない。
「たまには、いいじゃないか」
 叱りつけるようにいった。
「竜也さん……最近、変よ」
 流し台から手を離した容子が、いつになく強い眼差しで竜也と向きあう。
「もし赤ちゃんができたら……困るわ」
 押し倒してしまおうかとも思ったが、そこまではできなかった。
「お互いに、もっとちゃんとしてから、将来のことを考えましょうよ」
 竜也は容子に背を向けた。居間に戻って寝転がる。
「竜也さん……怒った?」
 容子の声が追ってくる。
「そんなことないよ」
「私も仕事がんばって、いずれ就職するから――我慢して」
「…………」
「ごめんね……晩ごはん、つくるね」
 容子が台所に戻っていった。
 舌打ちをしたい気分だった。
 避妊なしのセックスがしたい。首藤は竜也と交わったあとで、避妊は邪道であるといった。避妊具によってメルクリウスの精気は遮られ、死滅すると。
 竜也はポケットから『両性具有』の絵札を取り出して、眺めた。刺々しくなっていた心を和らげようと試みたが、逆に性器が渇きを訴える。
 絵札に描かれているのは首藤の分身だった。メルクリウスの象徴である『両性具有』を体現している彼との儀式は、メルクリウスのパワーを最大限にまで高められる唯一無二の手段だ。
 教授の代わりは、容子には務まらない。
 首藤と、より密接な関係を築かなくてはならない。そのためには、最低でもあと一週間、待たなければならない。
「よし――」
 竜也は『両性具有』をポケットに入れて、炬燵台の上に原稿用紙を広げた。
 やるべきことは執筆だけだ。首藤が帰ってくるのを待ちつつ、自分にできることをやる。次に首藤と会ったときには、弱まったメルクリウスのパワーを最大限に高められるよう、欲望を爆発させてやろう――。
 原稿用紙にペンを突き立てたとき、
「竜也さん――」
 台所から容子が出てきた。
「どうしたんだよ」
「晩ごはん、ちょっと時間がかかりそうなの」
「かまわないよ」
「今日ね、ロールキャベツにしようと思うの」
 容子は踵を返した。
「容子、さっきはごめん――」竜也は声をかけた。「もうあんな乱暴なマネはしないから」
 容子は振り向いて笑顔を見せた。
「私のほうこそ、ごめんね」
 竜也は笑顔を返した。首藤を求める気持ちと容子を愛する気持ちは対極のものだった。この異なる感情が融合すると、首藤は説いている。矛盾はないのだと。

 八月初頭、竜也は夜行バスで東京に向かった。狭苦しい四列シートの座席も慣れっこだ。カーテンの隙間から、窓外を見る。高速道路の照明灯が一定の間隔を置いて、規則正しく流れていく。ぼんやりと眺めているうちに、眠りに落ちた――。
 新宿駅前にバスは到着する。適当な時間が来るまで雀荘に入り浸り、時間をつぶした。
 高層ビルの林立するオフィス街に、Z出版社はある。到着するや否や、高塩に外に連れ出された。
「いいところがあるんですよ」
 交通量の多い都道を横切り、人波で混みあう飲食店の立ち並ぶ一画を通りすぎると、人影もまばらになり、車のエンジン音も遠くに聞こえる。
 オフィス街の外れに、一見の客を寄せつけない重厚な雰囲気の扉の店があった。一歩足を踏み入れると、店内には何組かの客がいた。いずれも二人組で、あいだに原稿を挟んでディスカッションをしている。
 Z出版の編集者たちは、打ち合わせにこの喫茶店をよく利用するのだろう。Z出版に投稿を続けて、それなりに年季がはいっている竜也も、この店に連れてこられたのははじめてだ。ついに自分もひと角の原作者として認められたのか――。
 高塩と竜也はテーブル席に着いた。注文を済ませたあと、竜也は茶封筒から原稿の束を抜き出した。
 原稿を受け取った高塩は目を丸くした。
「これ……本当に三話分ですか」
「十話分ですけど。あとは、全体のプロットです」
「十話分も! 頑張りましたねぇ」
 高塩は感嘆の声を漏らした。竜也が十話分書くと宣言したことを忘れているらしい。
「読んでるあいだ、退屈かもしれませんが――寛いでお待ちください」
 高塩は原稿読みに没頭しはじめた。
 この一週間、長編〈レイズ〉を十話分、全精力を傾注して書き上げた。デキは悪くないと思っているが――、高塩の顔色を窺うと、原稿を読みはじめた途端に、ふてくされたような表情に変わった。ぺら……ぺら……と原稿用紙をめくる無機質な音が胸に突き刺さってくる。いつものことだが、待たされているこの時間が苦痛でたまらない。
 と、そのとき、竜也の携帯が鳴った。高塩にひと言断ってから席を立った。店先に出て、携帯を耳に宛がう。
「結城さん、連絡が遅くなりました」
 声の主は首藤だった。
「い、いえ! お忙しかったでしょうし」
「今日から私も夏休みです」
 そういわれて、竜也は一瞬怯んでしまったが、
「お目にかかれないのでしょうか」
 厚かましいと知りつつ、訊かずにいられなかった。
「お会いしましょう」
「本当ですか!」声がうわずった。「今日は、どうでしょうか。打ち合わせがあるので、少し遅くなりますが……」
「私も、夜のほうが好都合です」
 打ち合わせは夜までには終わるだろう。夜行バスはキャンセルして、新幹線で帰ろうと思った。
「教授の研究室に行けばいいですか?」
「いまから私がいう場所に来てください。西宮市…………」
 一言一句を頭に叩きこんだ。
「この住所は、教授のご自宅ですか」
「家――なるほど、面白い」
「……?」
「今夜、お会いできるのを楽しみにしていますよ」
 電話が切れた。竜也は高鳴る気持ちを抑えられない。場所なんてどこでもいい。ついに首藤と再会できるのだ。
 喫茶店に戻り、元の席に着いた。高塩はすでに原稿から目を離して、たばこをふかしている。竜也の顔を見ると、灰皿にたばこを押し潰した。
「読ませていただきました」
 竜也の心臓が脈打つ。
「……どうでしたか」
「いいですね」
「――!」
「すごく、いいと思います」高塩はくりかえした。「あの読み切りを単純に膨らませた感じで来るのかな、って予想してたんですが、キャラを一からつくり直してるのには驚きました。いや、こんな上から目線でいってしまって、失礼な話なんですけどね――」
 テーブルの下で、密かにガッツポーズをした。
 一度読み切りとして完結してしまった話を、連載用に引き伸ばすことは、竜也にとって至難の業だった。出発点としての土壌は最低限残しつつ、新たなキャラ、新たなストーリーを竜也は再構築したのだ。それは冒険であり、賭けだった。
「あとは一話一話の最後で〝引き〟をつくってやれば、充分だと思いますよ」
 竜也は賭けに勝った。
「書き直しですか」
「うーん、まァそのへんの細かい部分は、実際どうにでもなりますから――結城さんの手を煩わせるまでには及ばないかと。あとはこれを小町さんに見せて、作画に入ってもらいます」
「そう……ですか」
 あっけにとられた。当面の仕事は、これで終わってしまったらしい。放心していると、
「失礼します――」
 今度は高塩が席を立ち、携帯を耳に当てながら店を出ていった。
 一人になった竜也は椅子の背もたれに背中を預けた。ぬるくなったコーヒーを飲む。旨いともまずいとも感じない。なぜか心にポッカリと穴が開いたような虚しさを覚えていた。
 手持ち無沙汰に携帯を取り出し、原稿にOKが出たことを容子にメールで知らせた。大学が夏休みに入ったので、容子はティッシュ配りの短期アルバイトをしている。
 すぐにメールが返ってきた。
『おめでとう、竜也さん! 明日の夜は奮発して、スペアリブにするね』
 竜也は眉根を寄せて、携帯を閉じた。また肉か、と独りごちた。どうして無駄遣いをするのか、わからない。
 高塩が店に戻ってきた。席に着くなり、
「結城さん、今夜はお忙しいですか?」
「……え? なんでですか」
「じつは、うちの編集部の人間と漫画家の先生方が何人か集まって、麻雀に行く話になってるようなんです。よかったら一緒にどうですか」
 まさかの誘いに、竜也は一瞬言葉が出なかった。
「無理にとはいわないんですが……みなさん、結城さんに興味を持たれてて、僕が担当してるっていったら『連れてこい!』っていわれちゃったんですよ」
「行きます!」
 行かない手はない。高塩以外の編集者はもちろんだが、漫画家までもが集まるというのは願ってもない話だった。そこで多くの漫画家と面識をつくっておけば、もしかしたら将来、そのうちの誰かが竜也の作画パートナーになってくれる可能性だってある。
「それはよかった」高塩はうなずきながら笑顔になった。「では、三十分後にそちらに向かいましょう」
 ――夜になった。
 銀座の、それも一等地にある雀荘に連れていかれた。これまで竜也が行ったことがあるような大衆的なチェーン店の雀荘とは格が違う。高級クラブといった趣きで、個室であることも驚きだった。
 続々と面子が揃いはじめる。広々とした部屋の中には麻雀卓が二卓あったので、まさかとは思っていたが、十人近くの男が集結した。あちこちで無沙汰を詫びていたり、近況報告があったり、仕事の話などに花が咲きはじめ、賑わい出した。
 どの会話にも入れず、竜也が部屋の隅で小さくなっていると、いつの間にか二つのグループに分かれていた。
「もしかして、その子――」サングラスをかけた大御所漫画家風の男が、竜也に目を留めた。「〈レイズ〉の原作の?」
「はい、こちらが以前お話した結城さんでして」
 高塩が割って入って、紹介した。
 それを受けて、竜也は大きく深呼吸をした。
「結城竜也といいます! お手柔らかにお願いします!」
 深々と一礼し、顔を上げると、皆がキョトンとしていた。しばらくして、笑いが起こる。
「固くならんでいいから」大御所漫画家風は優しくいった。「むしろ、こっちのほうがお手柔らかにお願いしたいところなんだけどな」
「……?」
「結城くんは、ギャンブルが本職みたいなもんなんだろ。おれらはたまにこうやって、片手間に遊んでる程度だから」
「い、いやあ、僕なんて――負けてばっかりですよ」
 打ちはじめると、竜也はすこぶる好調だった。あまり勝ちすぎると、嫌われるんじゃないかと心配になるほどだった。だが、鉄火場ならいざ知らず、レートも安く設定されているこうした社交場では、強さは魅力となって皆の目に映るはずだ。
 二卓のあいだでは頻繁に面子の入れ替えも行なわれた。集まっている漫画家の名前も自然と耳に入ってくるようになり、その誰もが第一線で活躍しているビッグネームであることを、竜也は知った。
「〈レイズ〉って、漫画革命賞のグランプリだったんだよな」
「中年オヤジが書いてるのかと思ってたけど、こんなに若かったとは」
「やっぱりギャンブル漫画の原作者は、ギャンブルに強いんだな」
「さすがだよな」
 彼らは〈レイズ〉に注目してくれているらしい。竜也は戸惑いながらも誇らしい気持ちを抑えられなかった。連載を控えていることも、高塩が皆にそれとなく知れるように話の合間に二言三言、口を挟んだ。
「連載は大変だけど、頑張れよ」
 背中を押してくれるビッグネームもいた。
「今度、おれにも原作書いてくれよ」
 本気なのか冗談なのかわからないことをいうビッグネームまでいて、竜也は天にも昇る思いを味わった――。
 時計は午後十一時を指そうとしていた。解散の気配が漂いはじめる。電車で帰る者、車を手配する者がちらほら出てきて、まだ打ち足りない者は徹夜コースといった流れだ。
「結城さん、どうされます? 僕らはもうちょっと残りますけど」
 高塩は言外に、居残れ、というニュアンスを含めていた。
「僕も残ります」
 絶好調の時間を終わらせたくなかった。
 一旦は小休止ということで、残った皆がコーヒーを飲んだり、雑談をしたりしていた。
 竜也は貰ったばかりの名刺の束をポケットから取り出して、整理しようとした。
「あっ――」
 顔から血の気が引いた。『両性具有』の寓意画が、名刺の束に埋もれていた。
「――そろそろ再戦といきましょうか」
 高塩が取り仕切って、場決めをはじめた。皆が風牌を掴み取っていく中で、竜也だけは口をあんぐりと開けて、突っ立っていた。
「どうしました、結城さん――」高塩は眉をしかめた。「ああ、今日貰った名刺ですか。たくさん貰いましたねぇ。……えっ、なんですか、この変てこな絵のやつ。誰の名刺ですか」
「最悪だ」
「サイアク?」
「大事な用事を思い出しました」
「ゆ、結城さん――?」
 皆があっけにとられた表情をしたが、竜也はろくろく挨拶もせず、雀荘を飛び出した。

 午後十一時にもなって、その日のうちに関西に帰る手段など、あるわけがなかった。雀荘に引き返す気にもなれない。新宿駅の西口から、予約していた夜行バスに乗りこんで、四列シートの隅の座席にうずくまった。
(麻雀なんかにかまけて……おれは、なんという不義理をしてしまったんだ……)
 何度も首藤に電話を入れてみたが、留守電に切りかわって繋がらなかった。竜也は頭を抱えた。悔やんでも悔やみきれなかった。
 翌朝、大阪に到着した竜也は無駄だと思いながらも、昨日首藤が指定してきた住所に向かうことにした。携帯で地図を調べ、最寄りのI駅で降りた。
駅の周りは商業施設に囲まれていて、活気づいていた。ひらけているが、ごみごみとした気忙しい雰囲気ではなく、落ち着いていて、街ゆく人々からはどこかしら上品さが漂っている。
 携帯の地図を見ながら歩き出そうとしたとき、近くにバスが停まった。それはこのあたりでよく見るような路線バスではなかった。白塗りの車体の側部には、赤いペンキで六芒星のマークが描かれている。スーツを着て小綺麗な身なりをした老若男女を十人ほど乗せて、バスは出発しようとした。
 竜也は急いで近寄り、運転手に呼びかけた。
「このバスは、どこへ行くんですか!?」
 若い運転手は何もいわずにドアを開き、竜也を乗せた。
 駅から南下して、国道を横切った。その先は一気に人影もまばらになり、閑静な住宅街に入った。
 満々と水を湛えた川を左手に見ながら、バスは走る。遠景に見える向こう岸には、花の名所として有名な公園がある。桜の時期ではないが、青々と茂った葉が太陽の光を反射して、輝いていた。ゆるやかな風も吹いていて、木々の枝が気持ちよさそうに揺れていた。
 やがて両岸の先に、海がひらけた。河口付近でバスは停車し、乗客をすべて降ろした。運賃は請求されない。
 人家とは思えない大きさの、西洋風の建物がそびえていた。まるでローマ宮殿のような荘厳さで、途轍もない存在感を放っている。日本の閑静な住宅街にあると、周囲の景観にそぐわず、異様だった。
 携帯の地図を見ると、首藤の指定した住所は、まさにここである。
(これが首藤教授の家――?)
 宮殿のような建造物を眺め廻しているうちに、バルコニー付きの最上階の屋根に旗が立っているのに気づいた。赤地の旗にはメルクリウスのシンボルである六芒星がしっかりと染め抜かれている。竜也は住所が間違ってはいないことを確信した。
 いつの間にか、バスから降りた人々がいなくなっていた。
 出入り口となる鉄製の扉は開け放たれ、門柱には弓形のアーチがかかっていた。手入れの行き届いた庭園の中を、やわらかいカーブを描きながら小道が伸びている。彼らはここを通っていったのだろう。
 竜也はアーチをくぐり、陶製の敷石の道を進んでいくと、宮殿の入り口に辿りついた。インターホンはなかった。身長よりもはるかに高くて大きな扉を押した。
 一流ホテルと見まがうような、煌びやかなロビーが目の前に広がっていた。金色を基調としていて、一瞬、目くらましにあったように立ちくらみがした。屈強な軀つきをしたスーツ姿の男が数人立っていて、竜也を一瞥した。
 受付らしいカウンターには、女性二人が坐っていた。
「こんにちは」
 彼女たちは竜也を見ると、怪しむ素振りもなく、立ち上がって笑顔で挨拶した。受付嬢特有の制服姿ではなく、真っ白なローブを羽織っていた。サウナで着るような安価なものではなく、高級感のある生地だった。帝政ローマ時代の貴族も、このようなローブを身にまとっていたのではないだろうか。
 竜也は近づいた。
「首藤教授に呼ばれて、来たのですけど――」
「こちらの用紙にご記入をお願い致します」
 住所や氏名、年齢、生年月日などのプロフィールを記入する項目が並んでいた。
「あの……」用紙を差し出し、受付嬢に訊いた。「ここは……どういった場所なんですか」
「結城様ですね」
 紙に書かれた名前を確認すると、受付嬢はにっこりと微笑んだ。
「先生からお話はうかがっております。まずは会費を頂戴いたします」
 竜也は三千円を払わされた。そのあとバックルームに通されて、顔写真を撮られた。会員証をつくるために必要なのだという。受付嬢は名前だけが印字された仮の会員証を竜也に手渡した。
「館内の設備はご自由にお使いください。それでは、ごゆっくり――」
「首藤教授は、いらっしゃらないのですか?」
「本日、先生は夜に来られるご予定なのですよ」
 何がなんだかわからず、竜也は受付を通りすぎた。
 すると、竜也のあとから受付を済ませたらしい子連れの女性が、竜也を追い越して先を歩いていった。
「……ほら、みんなと仲良く遊んでらっしゃい。いい子にしてるのよ」
 女性は手を引いていた子どもを廊下の突き当たりの部屋に入れた。そして自分はエレベーターに乗り、去っていった。
 入り口のドアにコミカルな文字で「キッズルーム」と書かれたその部屋を覗くと、多くの子どもが遊具や玩具を使って遊んでいた。子連れの来客も多いのだろう。皆、ここに子どもを預けているようだ。
 竜也もエレベーターを使って、二階に上がった。
 廊下に足を踏み入れる。両側の壁に所狭しと絵画が飾られていた。
 向こう側から、白いローブ姿の女性がやってきた。
「ここにある絵は――全部、寓意画ですか」
 竜也は思わず訊いていた。
 空飛ぶ鷲が地上に這っているカエルと鎖で繋がれている絵――大地に種を蒔いている盲目の農夫の絵――美しい孔雀を人々が崇めている絵――鹿と一角獣のユニコーンが森の中で見つめあっている絵――どの絵も非日常的な感性に満ちている。
 ローブ姿の女性は立ち止まって、笑顔で答える。
「ええ。ほとんどの絵は大昔に描かれたものですけれど、首藤先生ご自身が描かれた作品もあるのですよ」
「そうなんですか……」
 彼女は軽く頭を下げると、その場を去っていった。
 竜也は階を一つひとつ昇っていき、館内を見て廻った。
 食堂では数人の男女が食事を摂りながら、談笑している。自習スペースでは各々が机に向かって、黙々と書き物をしている。窓口ではローブを羽織った係員が、窓越しに人々の悩みや訴えを聞いている。美術室では講師が見守る中、皆がキャンパスにさまざまな色の絵具を塗りたくっている。シアタールームでは、西洋人が何者かの遺骨を調査している無音の白黒映像が流されている。
 図書室を見かけたので、竜也は入ってみた。何人かが椅子に坐って静かに読書をしていた。竜也も適当な娯楽小説でも読んで暇つぶしをしようと思ったが、そんなものはなかった。錬金術や神秘思想にまつわる本――それだけでなく、「畸形」に関する本も大量に棚に並べられていた。身の毛がよだつ畸形動物の写真集を眺めているうちに、竜也はまどろんだ――。
 館内に鳴り渡るチャイムの音で、目を醒ました。図書室には自分一人だけしかいなかった。
「結城様――」ローブ嬢が図書室に入ってきた。「すでに〝訓諭〟ははじまっております」
「……くんゆ?」
「会場までご案内致します」
 ローブの嬢に先導されて、エレベーターで下降し、二階まで行った。寓意画の飾られた廊下の突き当たりにあった扉の前で、彼女は足を止めた。
「お静かにお入りください。指定席ではございませんので、お好きなお席へお掛けください」
 ローブ嬢がそっと扉を開いて、竜也を中に入れた。
 音楽が流れている。ピアノの音色、自然の奏でる音、それに首藤の研究室で聴いた電子音……。
 三百人は収容できるホールだった。奥には演壇があり、その上に首藤の姿があった。彼はマイクを持って、講演していた。ホール内は薄暗かったが、赤地に六芒星のマークが染め抜かれたローブを羽織っているのはわかった。演壇の前には、何人もの護衛の男が横一列に並んでいる。
「――新しい医学と世界観のために、パラケルススは戦い続けました。彼がその他大勢の医師と違っていたのは、単に外的な技術や可視的な物質だけを信じなかったことです。彼は錬金術の可能性を信じながらも、『錬金術は黄金をつくる術だ』という人々には反発しました。錬金術とはアルカナをつくることなのだと――」
 ホール内の席は、老若男女の聴講生でほとんど埋まっていた。彼らは静かに、だが目は壇上にいる首藤をしっかりと見据えて、講演に聞き入っている。竜也も直近の席に坐りこんだ。
「ではアルカナとは何か――非常に多義ですが、パラケルススは次のように説いています。非物質的、かつ不死で、永遠の生命を持つもの――あらゆる自然を超えて存在するもので、普通の人間には認識できないもの――」
 首藤は会場の全体を見渡した。
「――それは、その働きのうちに、姿を現すものだと。季節が来ると、かわせみの毛が抜け変わって、新しい羽毛で飾られるように、それもまた、人間から爪や毛髪、皮膚の不潔物を取り除く。新たにそれらを成長させ、古き軀を新たにすると――」
 緩やかなBGMに乗って、流暢な弁舌が耳に運ばれてくる。パラケルススという中世の医師が何について説いているのか、竜也は耳にするなり理解できた。
「結城さん――」
 壇上の首藤が、竜也を名指しした。会場全員の視線が竜也に集まる。
「パラケルススが説いているそれとは何を表すのか――おわかりでしょうか」
 そばにいた係員からマイクを渡された。
 急な展開に戸惑ったが、こうして名指ししてくれるということは、彼はここにいる聴講生の中でも、特に竜也に目をかけている証なのだと思った。
 期待に応えたい――起立した。
「メルクリウスのことではないでしょうか。古きを廃し、新しきを生み出すのは、矛盾を乗り越えるということ――メルクリウスの効力だと思います」
「素晴らしい。そのとおりです」
 会場内から拍手が湧き起こった。頭の芯まで、拍手の音が鳴り響いてくる。
「メルクリウスは、私たちを変容させ、新たにし、蘇生させてくれる。病を駆逐し、悲痛な心情から解放させ、私たちの軀を健全に保ってくれる――」
 首藤は真っ赤なローブを脱いだ。
「メルクリウスには、理性によって究明しうる以上に効力があるのです。つまりは、人を老いから逆行させます」
 彼にスポットライトが当たった。メルクリウスを象徴する、非の打ちどころのない肉体を披露した。
「おお――ッ!」
 それまでおとなしく坐っていた人々が、一斉に席から立ち上がった。壇上に登りかねない勢いで、首藤のいる演壇の下に群がっていった。すると、演壇の前で整列していた護衛の男たちが、首藤の足許に近づこうとする聴講生たちを押し返した。
 聴講生の中には、歓声を上げるだけでなく、感極まって泣いている者までいる。皆が両性具有の肉体に魅了されていた。竜也も遠目で彼の軀に見入っていた。二つの性器はスポットライトに照らされて、より一層、神々しく目に映る。
「おい、おまえ――何をしている」
 護衛の男が、群れの中の一人の手を掴み上げた。頭の禿げ上がった四十男が、ポケットの中に手を突っこんで、何かを取り出そうとしていたのだ。
「い、いや……首藤先生に、お手紙を書いてきたので、お渡ししようと……」
 護衛の男はその手紙を取り上げると、自分の懐に仕舞った。
「あとで検査して、問題なければ先生にお渡しする。だが、勝手な行動は慎め」
 禿げた男は何度も何度も頭を下げた。
「皆さん、このあとは〝瞑想〟の時間に入ります――」
 アルトの声が静かに告げた。
 聴講生たちは、スイッチが切り替わったように演壇の下から離れ、行儀よく列をつくって順番に会場を出ていった。
 会場の出口付近には、金色の小箱が一つ置かれていた。彼らは出ていく際に、小箱の中に長方形の紙包みを入れていった。護衛の男たちがその様子を監視している。聴講生全員が出ていくころには、金色の小箱は紙包みで満杯になっていた。
 竜也一人、会場に残っていた。壇上には首藤が立ったままでいる。この瞬間をどれほど待ちわびていたのか、竜也はあらためて思い知った。
「教授……お久しぶりです」
 竜也は演壇の下に近寄った。
「打ち合わせは、うまくいきましたか」
 首藤はローブを羽織りながら、訊いた。
「はい! すみません、昨日の夜に来るつもりが……」
「昨日も明日もありません。我々には永遠なる現在だけがあるのです」壇上から首藤はふわりと降り立った。「さあ、向かいましょう」
 会場を出て、竜也と首藤、そして護衛の男たちはエレベーターに乗りこんだ。
「今日は半日かかって、館内を見学させてもらいました」
「いかがでしたか」
「居心地がいいです……ここから一歩も外へ出ずに暮らせそうですね」
「貴方の言葉を借りるなら、家――です。しかし、私だけの家ではない。あらゆる人の魂の拠点となる聖堂です」
「このあと、瞑想の時間とおっしゃってましたけど……」
 エレベーターが最上階の十階に到着した。
「ここが瞑想室です」
 カーテンを開くと、タイルの敷き詰められた広い空間があった。窓のない部屋の中は汗ばむほど暑い。部屋の中央付近では、先ほどの聴講生たちが身を寄せあって坐っていた。
 彼らの周りを取り囲むようにして、鉢が置かれていた。高々と伸びた七本の樹と、十二本の低い樹が植えられている。
「こんなところに樹が……」
 竜也の視界で、樹々は陽炎のように揺れていた。
「七本の樹は、七つの主要惑星、あるいは七つの主要金属と対応しています。無論、メルクリウスもその範疇です」
 首藤の繊細な指先が前方を指した。
「十二本の樹は最重要の卑金属――そしてエデンの園における十二天使の姿です。ご覧なさい。十二本の樹のうち、天使バルーフを表す、ひときわ存在感を放つ生命の樹を――最後の物質的安定を表す〝生ける水銀の樹〟を――」
 可視化されたメルクリウスを目の当たりにし、竜也は興奮を覚えずにはいられなかった。
「せ、先生――!」
「首藤先生――!」
 聴講生たちから、大きな呼び声が巻き起こった。
 首藤はゆっくりと彼らに近づいていく。すぐさま護衛の男たちが首藤を取り巻き、聴講生たちを手で払いのけ、道をつくった。道の先には六芒星のマークが刻印された円形の台座が据えられてあった。
 台座に上がった首藤。彼を中心として広がった人の環――竜也も群衆の一番外側にくっついて、坐りこんだ。
 誰も声を発さなくなった。首藤の一挙手一投足を見逃すまいと、瞬きすら忘れている。
「――厖大な数の精気が、我らが聖堂に集結しています」
 首藤はローブを脱ぎ捨てた。
 彼の股間は、漲っている。
 強烈な性の昂ぶりを感じているのは、首藤だけではなかった。その場にいる皆が皆、老若男女問わず、衣服の上から股間を手で強く押さえた。中には性のエネルギーを抑制しきれず、よだれを垂らして白目を剥いてしまっている者もいる。
「メルクリウスのほうから、我々に儀式を催促しているのです」
 照明が徐々に落ちていく。聞こえるか聞こえないかくらいの音量でBGMも流れ出した。
 あたりを包む闇に、星々が現れて、首藤の神体を照らし出した。
「人の内部には霊が宿っている。この霊は、大宇宙と繋がりを持っています。肉体として滅んだとき、霊は――霊だけは大宇宙へと還っていきます。私たちはこの内なる霊という存在を見逃すわけにはいかない。霊と合一化するのです。そして大宇宙から、無限の命を取りこむ――」
 凄まじい速度で宇宙空間が廻転している。皆が頭を前後に振りながら、首藤の話を聞いている。
「私たちが大宇宙に取りこまれるのではありません。小宇宙の形態である肉体を維持しつつ、大宇宙を吸収するのです。そのためには、メルクリウスの力が必要なのですよ――永遠の命を得るために、メルクリウスの力が――」
 周囲にそびえる十二本の樹が発光した。たちまち変形し、異形の天使たちに姿を変えた。首藤の裸体に溶けこんでいく。一体、二体、三体……と吸収されていくごとに、彼の軀はさまざまな色のグラデーションで彩られた。

Quod est inferius est sicut quod est superius,
et quod est superius est sicut quod est inferius,
《上なるものは下なるもののごとし、
下なるものは上なるもののごとし》

甘美な響きをもって、あの謎の言語による説話がはじまった――。

Pater eius est sol; mater eius est luna.
Portavit illud ventus in ventre suo; nutrix eius terra est.
Pater omnis telesmi totius mundi est hic.
Virtus eius integra est, si versa fuerit in terram.
Separabis terram ab igne, subtile ab pisso,
suaviter, magno cum ingenio.
《〝一なるもの〟の父は太陽であり、母は月である。
風はそれを腹に宿して運び、大地はそれを鍛え養う。
全宇宙に存在する、すべての偉業が、ここにある。
その力は大地に向かうことによって、完成する。
火から大地を分離し、厖大なるものから微小をわかつ、
穏やかにして、いとも精妙なる、大いなる作業を用いて――》

 十二体の天使を吸収し、首藤が呪文を唱え終えると、
「メルクリウスのご加護があらんことを――」
 皆に向かって合掌した。
 それが合図だった。聴講生たちが一斉に服を脱いで、騒ぎ出す。乱交がはじまった。竜也も服を脱がされ、人の波に呑まれかけたが、必死で振りほどいた。台座の上で仁王立ちしている両性具有の神体に、手を伸ばそうとした。
 だが、首藤の姿は目の前から霧散していた――。

 窓から燦々と朝陽が差しこんでいる。やわらかいベッドに竜也の軀は沈んでいた。仰向けの竜也の上に重なって、誰かがうつ伏せで寝ている。
「教授……?」
「酔いから醒めた?」
 女が顔を上げた。竜也と同じく、衣服を身につけていない。
 竜也は頭を振って、自分の意識を確かめた。あたりを見渡す。床にはペルシャ絨毯が敷かれていて、大きな木肘のソファが据えられている。ソファの上に竜也の服が乱雑にかけられていた。
 壁には縦横一メートルはある一枚の絵画が飾られていた――孔雀が岩山の頂上に立って、立派な羽根を広げている。岩山へと続く階段を、腰の曲がった老人が汗を垂らして這い上がっている――寓意画だ。はじめて目にした絵のはずなのに、既視感を抱いた。
 あらためて女に顔を向ける。
「君は……誰?」
「やっぱり覚えてないのね――」女は苦笑いする。「あたし、カナっていうの」
 美形というわけではないが、丸顔の目尻の下がった笑みが可愛らしい。
 竜也は警戒心がやわらいで、カナの腰に手を伸ばしてみた。まだ二十歳そこそこの、肉づきのいい軀をしている。しかし、肌触りは妙にざらついていた。
「首藤教授は……どこに行ったんだ?」
 カナは小首を傾げた。
「この部屋は……? ここも、首藤教授の家の中にある部屋の一つなのか……」
「家っていうか教団施設よ? その中にある客室。お兄さん、はじめて来たんだ?」
「教団施設?」
「そう、メルクリウス教団」
「――なるほど、そういうことか」竜也は得心がいった。「おれだけじゃない、メルクリウスの力を信じる人たちがここに集まっていて、首藤教授のご指導のもと、メルクリウス召喚のために儀式を行なっているということか――」
 急に饒舌になった竜也を、カナは見下ろしている。
 竜也はカナをベッドに仰向けに寝かせた。
「……!」
 彼女の軀には、至るところに刃物で切ったような傷痕があった。
「気にしないで」
 竜也はうなずいて、彼女に侵入した。
「あんっ」
 首藤が相手でないのは不満ではあったが、ついにありついた生殖行為だ。軀にメルクリウスの精気が漲っていく――二人は絶頂に登りつめた。
「……気持ちよかったわ」
 カナは無邪気そうに微笑んだ。
「メルクリウスが軀に充満してる……」
 竜也も確かな手応えを掴んでいた。
「お兄さん、メルクリウスを信じてるの?」
「当たり前だよ。メルクリウスのおかげで、おれは原作者として売り出せているんだから」
「原作者?」
 また漫画原作の説明をしなければいけないのかと思うと、億劫になった。
「物書きだよ」
「ふうん、作家さんなんだ」
「君だってメルクリウスを信じてるから、ここに来てるんだろう」
 カナは首を小刻みに横に振る。
「じゃあ、なんでここに……」
「いっぱい人が来るし……タイプの男の人を見つけて、セックスできるからかな。お金も、お布施をちょっと払うだけでいいし。こんな豪華な部屋も使えちゃうの、最高だもの」
 呆れて声も出なかった。
「セックスをしたら大宇宙と一体化するとか、不老不死になるとか、わけわかんないもん」
 竜也は哀れみを込めた目でカナを見つめて、
「メルクリウスはあらゆる矛盾や対極を融合させる。君だって不純な動機ながら、これまでメルクリウス召喚の儀式に携わってきたんだ。まだ目に見える結果は得られていないかもしれない、目先の快楽だけを得ている気分かもしれないが――いずれ気づくよ、脱皮して新しく生まれ変わる自分に――」
 カナは竜也から身を離した。
「携帯、鳴ってるわよ」
 サイドテーブルに置かれてある竜也の携帯に向かって、カナは顎をしゃくった。
 竜也は携帯の画面を見た。電話帳に登録のない番号からの着信だったが、電話に出た。
「いつもお世話になっております。A書房、漫画メノン編集部の家田ですが――」
 聞き覚えのある名前だった。数ヵ月前に原稿を持ち込んだというのに、なしのつぶてになっていたところだ。
「是非とも結城先生に、漫画原作を書いていただきたく思いまして、お電話を差し上げました」
「えっ……? 僕に、原作を……?」
「できれば、『サンライズ』に掲載されたようなギャンブル物の漫画の原作を、一つお願いします」
「も、もちろんです――」竜也は興奮する気持ちを必死で抑えた。「でも以前、お渡しした原作はどうなったんですか?」
 数秒の不自然な間があって、
「ああー、あれですか! あれもよかったんですけどね……また別に何か書いていただきたいんですよ」
 原稿を失くしたか、捨てたのだろう。
「わかりましたよ」
 ついに舞いこんだ執筆依頼である。テンションが上がらないわけがない。
 カナはじっと竜也を見つめて、
「何かいいことでもあったの?」
「メルクリウスの力が実証されたんだよ」
 その直後、ふたたび携帯が鳴った。またもや過去に持ち込みを行なった出版社からの着信で、内容は「漫画原作を書いてくれ」との依頼だった。電話を切ると、間髪を入れずに、また別の出版社からの電話が鳴る。目が廻りそうになった。読み切りはもちろんのこと、竜也の実力を信用して、いきなり連載の話を持ちかけてくるところもあった。
「信じられない……こんなことってあるのか。大変だぞ!」
 すべての依頼を受け入れた。のんびりしている場合ではない。急いでベッドを下りて服を着た。
「――食事も届けてくれるのに」
 カナは気を引くようにいった。
「メルクリウスの力は本物なんだ。おれが結果を出したら、信じるよな」
「それは、お兄さんの実力よ」
 竜也は軽くカナを振り返り、片頬で笑った。部屋をあとにして、赤い絨毯の敷かれた客室ロビーを抜け、エレベーターに駆けこんだ。
「す、首藤教授……!」
 真紅のローブを身にまとった首藤が、厳つい男たちを従えて、立っていた。
 竜也は驚きに乱れた呼吸を整えて、
「教授のおかげで、僕にも本格的に運がめぐってきました。執筆依頼が至るところから来てるんです。夢のようですよ」
「運でも夢でもありません」教祖の口が動いた。「貴方の実力と、それに相応しい現実です」
 エレベーターは静かに下降している。
「しかし、その実力を最大限に発揮できるのは、メルクリウスのおかげなのだということを肝に銘じるのです」
 竜也は正方形の空間の中で跪き、額を床につけた。
「決して慢心しません。メルクリウスなくして僕はありません」
「後ろをご覧なさい」
 顔を上げて、背後を振り向いた。エレベーターのドアは開け放たれ、静謐な礼拝堂の光景が広がっていた。
「綺麗だ……」
 吸いこまれるようにして礼拝堂に足を踏み入れた。天井は突き抜けるように高く、内壁は金色のモザイクで一面飾られていた。誰もいない礼拝堂に、竜也のスニーカーのゴムが擦れる足音が響く。
「我々が一度に吸収できるメルクリウスの精気の量にも限界があります。しかし、その余りある偉大な精気は、地下に貯蔵されているのです。ここは、我が聖堂において最も神聖な場所だといえるでしょう――」
 背後からそう説明する首藤の声もこだまして聞こえた。
 黄金にきらきらと輝く内壁には、無数の寓意画が描かれていた。冠を戴いた王がベッドに横たわり汗をかいている絵――地球から垂れ下がった乳房に赤ン坊が吸いついている絵――燃えさかる太陽を飲みこもうとしている獅子の絵――森の地面についた足跡を杖とランプを手にした男が辿っている絵――精良な寓意画だけでなく、暗号のような文字列、幾何学模様、子どもの落書きじみた稚拙な絵も、中には含まれていた。だが、玉石混交といった感じではない。すべての絵や模様に意味があるのではないかと思えるほど調和しており、内壁全体が一つの芸術を完成させていた。
 奥の正面には、高さ五メートルはある両性具有の石像が立っていた。
 一見、造りものとは思えないほどだった。特に――股間の造形は見事だった。
 竜也は刃物を突きつけられたように、その場で直立不動になった。
「教授、この石像は……?」
 頭だけで振り向いたが、首藤はおらず、護衛の男たちの姿だけがあった。
「メルクリウスによって生かされているのです。いえ、メルクリウスそのものだといっても過言ではない」
 その声に見上げると、石像が喋っていた。両性具有の軀の上に載った男の顔と女の顔が、揃って竜也を見下ろし、微笑を浮かべている。
「貴方は必ず成功する」
 二つの顔は首藤の顔だった。
「永遠なるメルクリウスと共にあらんことを誓いますか」
 ぐるぐると目が廻る。二つだった首藤の顔が、三つ、四つと重なって見えた。
 神体の左右には、金色の小箱が置かれていた。竜也は自分のやるべきことを悟った。小箱の一つに、いま持っているだけの金を入れて、ひれ伏した。
「誓います。永遠にメルクリウスに……首藤教授についていきます」

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