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【小説】メルクリウスの喚声 第四話

   Ⅳ レトルト 

 計四社からの執筆依頼が舞いこんだ。竜也ははじめて二つ以上の〆切りに追われて、原稿を書いた。充実していた。自分は必要とされている人間だと思うと、筆も捗った。頭の中で続々とアイデアが生まれる。書き上げた原作のすべてに、竜也は自信があった。
 八月の中旬、各出版社に提出するために小分けにした封筒を四つ抱えて、東京に向かった。夜行バスの車中では、興奮して寝つけなかった。羊の数をかぞえるように、窓外に流れる高速道路の照明灯を目で追っていても、眠気は訪れなかった。
(この道の先に、栄光が待っているんだ――)
 翌朝、新宿駅前に到着し、昼すぎから出版社めぐりをはじめた。
 連載用プロットと初回三話分の原作を提出したところが二社――。いずれも返事は後日とのことだったが、これまでとは打って変わった編集者の腰の低い応対を見る限り、竜也は原稿を没にされることはないだろうと踏んだ。
読み切り用の原作を提出したところが二社――。どちらもその場で原稿を読んでくれて、感触もよかった。会議にかけてみるが、おそらく掲載されるだろう――という。
 抱えていた原稿をすべて捌いた竜也は、身も心も軽くなった。
 まだ陽は高い。夜行バスの出発まで時間がある。アポを取っていなかったが、竜也はZ出版社を訪ねてみた。
「結城さん、まさか新作ですか?」
 ロビーに下りてくるなり、高塩はいった。
「いえ、〈レイズ〉の進捗状況をお聞きしようと思って……」
「そうでしたか。じつは、もうすぐ小町さんが来られるところなんですよ」
 俄かに緊張した。読み切り漫画の作画を担当してもらって、さらに連載まで控えているというのに、小町とはまだ会ったことがなかったのだ。
 高塩から聞いたところによると、小町は他社でヤンキー漫画を描いてデビューしたらしい。漫画革命賞を受賞した竜也の原作にも、本来なかった暴力シーンを組みこんだほどの人間である。一体どんなやつがやってくるのか――。
 ロビーにあるテーブルを挟んで高塩と雑談していると、背の高い学生風の青年が現れた。
「はじめまして。もしかして、結城先生ですか」
「……そうですが」
「小町です。ご挨拶が遅れまして申し訳ないです」小町は照れくさそうに頭を下げた。「読み切りでは、勝手に原作の内容を変えてしまって、すみませんでした」
「い、いやあ……それくらい、どうってことないですから」
「今後とも、よろしくお願いします」
 虫も殺さないような好青年だった。こんな優男が、あんなバイオレンス漫画を描くのだ。人は見かけによらないものだ。
「新しいキャラデザができました」小町は竜也の隣の椅子に腰掛けた。「是非、結城先生にも見ていただきたいです」
 小町はクリアケースから原稿を数枚取り出した。一枚につき一人、主要キャラのさまざまな表情、ポーズが描かれている。
「いかがでしょうか」
 小町は二人に向かってたずねた。その声は自信に満ちていた。
「いいと思います。結城さんは……?」
 高塩が水を向ける。
「……何も文句ないです。早くこの漫画が読みたいですね」
 お世辞でもなんでもなかった。自分が原作者であることも一瞬忘れて、このキャラクターが動き廻って、活躍するところを見てみたいと思ったのだ。
 小町は爽やかな笑顔になった。
「僕も早く描きたくて、うずうずしているんです」
 その瞳は無邪気に輝いていた。頼もしい相方だと、竜也は思う。少なくとも、途中で原稿が描けなくなるタイプの漫画家には見えない。絵に起こしてくれる人がいなければ、原作者はどれだけ良質な原作を書いたとしても、金を得ることはできないのだ。
「ネームができましたら、またこちらから郵送させていただきますので」
 高塩がそう締めくくって、打ち合わせは終わった。
 その夜、竜也はバスに乗って、関西へと戻った。
(順調だ。おれはこのまま突っ走ってみせるぞ)
 しかし、図に乗ってしまいそうな自分にも気づく。すぐにポケットから『両性具有』の寓意画を取り出して、自分を戒めた。
(メルクリウスのおかげで、僕がいるのです……)
 内心で呟いていたつもりが、ぶつぶつと声にも出てしまっていたらしい。隣に坐る若者が迷惑そうに竜也を見た。若者はすぐに顔を前に戻して寝息を立てはじめた。
 竜也も、もう興奮しすぎて眠れないということもなかった。『両性具有』の寓意画に気持ちを解された。揺れる車内が心地よく感じられてきたとき、眠りに落ちた――。

 アパートに帰ると、容子が出迎えてくれた。彼女はまだ夏休み中だ。
「原作、どうだった?」
「四社とも、感触はよかったよ。Z出版の〈レイズ〉も、連載の準備は進んでる」
「よかった、順調そうで――」
「今日はティッシュ配りのバイトか?」
「ううん、お休み。竜也さんは原作のお仕事?」
「とりあえず落ちついた」
「じゃあ……家でゆっくりする?」
 容子がデートをしたがっているのが、よくわかった。
「バスでは眠れたから、疲れてないしな――ひさびさに、一緒に街へ出ようか」
 容子は笑顔でうなずいた。
 二人で神戸の三宮に行った。人通りの多いセンター街を歩きながら、容子のショッピングに付き添う。目ぼしいものがないのか、金を出し惜しんでいるのか、容子はウインドウショッピングばかりしていた。
「いいんだよ、遠慮せずに、欲しいものがあったら買ってくれても」
「ありがとう」
 結局、容子は何も買わなかったが、それでも嬉しそうだった。
 元町駅まで歩いた。スクランブル交差点のそばには南京町という中華街がある。出店がいくつも構えられていて、肉まんやラーメンを立ち喰いしている観光客でごった返している。センター街以上に賑わっていた。
 竜也と容子も、そこで昼食を済ませた。
「この近くにね、おしゃれな画廊があるの。ちょっと覗いてみない?」
 南京町のはずれにある雑居ビルに入った。その四階に、ほんの五畳ほどの長方形のスペースの画廊があった。
 入った瞬間、竜也は息を呑んだ。フラスコの中に入った王女の絵――燃える炎の中で額を集めている人々の絵――擬人化された太陽と月がお互いを見つめ合っている絵――二頭のドラゴンが互いの長い首を巻きつかせている絵――。展示されている絵は、いずれも寓意画だった。
「気に入った?」
 竜也は無言でうなずいた。いずれの絵にも、「売約済み」という札がつけられていた。
 二人は元町商店街の喫茶店に移動し、コーヒーを飲んで落ちついた。
「ごめんね、せっかくのお休みなのに、連れ廻しちゃって」
「ん? 何が……」
「竜也さん、やっぱり疲れてる?」
「考え事をしてただけだよ」
「そうよね……これで終わりじゃないもんね。また新しく原作を書かなくちゃいけないもんね」
 いまは首藤のことで頭がいっぱいになっていた。
「そろそろ帰る?」
「そうだな」
 竜也は立ち上がった。いつものように会計は容子が済ませる。
「せっかくのデートだったのに、退屈させちまったな」
「楽しかったよ。私のほうこそ、ごめんね」
「悪いけど、先に帰っといてくれ」
「えっ……」
「用事を思い出したんだ」
「……そっかあ」
 容子は寂しそうにいうだけで、なんの用事かは訊かなかった。
 帰途につく容子を見届けると、竜也はその次に来た電車に乗った。
 空は夕焼けに彩られていた。I駅で降り、あのメルクリウスのシンボルが描かれた真っ白なバスに乗って、教団施設に向かう。瀟洒な服装をした人々が施設に入っていく。竜也もそろそろスーツの一着くらいは新調しなければ、と思った。
 受付で名を告げ、会費三千円を払うと、できあがったばかりだという会員証を渡された。
 訓諭まで、少し時間があるらしい。竜也は館内を歩きながら、あちこちに飾られた寓意画を鑑賞していた。
 すると、階上の渡り廊下を、真っ赤なローブに身を包んだ人間が数人の男に囲まれながら過ぎ去っていくのが見えた。
「首藤教授!」
 竜也は叫んだ。大急ぎで階段を駆け上がり、首藤に追いつこうとした。
「待ってください」
 首藤は立ち止まり、ゆっくりと竜也を振り返った。
「結城さん、お久しぶりですね」
「すみません……最近は原稿に追われていて……」
「それは素晴らしいことです」
「はい……こうなれたのも首藤教授と、メルクリウスのおかげだと――」
「いえ、貴方はまだメルクリウスの偉大なる力を軽視しているようです」
 竜也は愕然とした。
「そんなことは決して――」
「貴方があって、メルクリウスがあるのではありません。メルクリウスがあって、貴方という人間が完成するのです。それを理解すれば、貴方の取るべき行動も変わることでしょう」
 首藤の瞳がまっすぐに竜也を見つめている。竜也は最近の自分自身の行動を顧みた。
「……勘違いしていました。最近の僕は、あくまで自分本位に動いていて……メルクリウスをなおざりにしていたかもしれません。メルクリウスのおかげで、いまの自分がいるのに、暇ができたときだけ、こんなふうに図々しくやってきて……愚かでした」
「まだ間に合います。それは誰もが犯す過ちなのです」
「今後、メルクリウスに対して、失礼な真似はしません。僕は永遠にメルクリウスに……」
 竜也はゆらゆらと前に歩いて、首藤に近づいていった。
 すると、首藤の脇に控えていた男たちが立ちふさがった。
「では、後ほど――」
 男たちの壁の向こう側で、首藤は微笑み、去っていった。
 やがて館内にアナウンスが流れ、ホールに移動して訓諭を聞いた。瞑想を経て、乱交が行なわれる。気がついたときには、竜也は寓意画の飾られた客室で休まされていて、またそこでも見知らぬ女と交わった。首藤教授も、誰かと儀式を行なっているんだろうか――そんなことを思った。

 九月になった。来月から、いよいよZ出版の『サンライズ』で、小町作画による〈レイズ〉の連載がスタートする。A書房とT論社でも、それぞれ読み切り漫画の掲載が控えていた。連載用のプロットと原作三話分を提出したF新社とW書店からは、まだ連絡がないが、心配はしていなかった。
 竜也は毎日教団施設に通って、儀式に耽り、メルクリウスに祈りを捧げていた。新しく原作を書く時間をなかなかつくれないでいたが、メルクリウスを疎かにするわけにはいかず、いずれメルクリウスが自分の取るべき行動を示唆してくれると信じて疑わなかった。
「……つまり、化学は錬金術の表面を語っているにすぎません。第一質料は、より高貴で完全な物質を生み出すためにレトルトに入れる材料にとどまらない。まさに自然状態にある全人類の謂いであり……」
 その日も竜也はメルクリウス教団施設のホールで、首藤の訓諭に耳を傾けていた。最前列の席に坐り、壇上の首藤に熱い視線を送っていた。
 不意にポケットの中の携帯が揺れた。
(こんなときに、なんだ――)
 竜也はこっそりと携帯を盗み見た。着信元はW書店となっている。
「何をしている――」
 屈強な男の一人が竜也に近づいてくる。
「電話が入っていて――」
「訓諭の最中だ。切っておけ」
 いわれたとおりにしようとしたが、胸騒ぎがした。ホールを飛び出て、電話に出た。
「お返事が遅れまして申し訳ありません」W書店の担当者はいった。「掲載が無事に決まりました。作画はすでに進んでますので、再来月売りの雑誌には間に合うかと。初回三話分の原作はいただいているので、また今月中にでも、続きの原作をいただきたく思います」
「わかりました!」
 竜也はガッツポーズをした。嫌な予感がしたのは気のせいだったのだ。
 また携帯が振動した。次はF新社からの着信である。こちらも連載用のプロットと原作三話分を預けているところだ。
「結城さんの原作――年配の男性が主人公ですよね」F新社の担当者はいった。「これ、よくできてるとは思うんですけど、編集長にハネられちゃいまして。できたら、若い主人公に変えてもらえませんか?」
「は? 若い主人公ですか……」竜也は少し考えた。「でも、それだと、あの話が成り立たなくなります」
「話は多少変わっても問題ないですよ。そこをクリアしないと、掲載は無理そうなんですよ」
「主人公の年齢だけで……?」
「やっぱりオヤジじゃウケないんですよね。結城さんは実績もありますし、そこさえクリアすれば間違いなく掲載できますから」
 竜也は黙りこんだ。
「会議が来週の水曜にあるので、それまでに、なんとか頼みます」
 あと一週間もない。
「わかりましたよ」
 憮然として電話を切った。原稿を依頼してきたのは向こうなのに、なぜそんな理不尽なダメ出しをされなくちゃいけないんだ――。
「結城様、館内でのお電話は――」
 ローブ姿の嬢が近づいてくる。
「すみません、戻りますので……」
 ホールに戻ろうとしたら、今度はZ出版から電話がかかってきた。竜也は舌打ちをした。まともに訓諭にも参加できない。館の外に飛び出した。
「お世話になっております。Z出版の高塩ですけども」
「もう続きの原稿が必要なんですか?」
「そうじゃなくて、修正していただきたい箇所がありまして――」
 竜也の苛立った口調も意に介さず、高塩はいった。
「主人公たちが神戸から東京に向かうシーンがあるじゃないですか。あそこ、サラッと流してるんですけど、もう少しひねりのある展開が欲しいな、という話になってまして」
「ひねり、ですって」
「できれば。なくても連載がなくなるとか、そういうわけじゃないんで」
「話になってる……っていうのは、会議か何かでいわれたんですか」
「いや、小町さんがそうおっしゃってるんですよ」
「小町さんが?」竜也は引っかかった。「……近々、また東京に行く予定があるので、そのときまでには」
 電話を切った。
(くそっ、小町め……)
 竜也は内心で毒づいた。
(おれのいないところで、おれの原作にケチをつけやがった。黙って絵を描いてりゃいいものを――)
 館内のホールに戻った。すでに照明が明るくなっていて、訓諭は終わっていた。演壇に首藤の姿はない。
 会員たちは列をつくって、竜也とは入れ代わりにホールを出ていく。皆、熨斗袋に包んだ金を、出口付近に置かれた小箱に投げ入れていっている。
 竜也は呆然と立ち尽くした。
(矛盾が起こりはじめている……メルクリウスへの信心が足りていないのか……)
 小箱の横には、六芒星のマークがプリントされた奉納のための熨斗袋が用意されてある。竜也は持っているだけの金を、小銭まで熨斗袋に包んで、自分の名前を書き、小箱に入れた。そして、急いで瞑想室に向かった――。

 F新社のロビーで、竜也と編集者はテーブルを挟んで向かい合っていた。
「ダメですねぇ」
 浅黒い肌をした体育会系の編集者は、原稿を読みながら露骨にため息をついた。
「いわれたとおり、若い主人公に書き直したんですが」
「これだったら、元のままのほうが、よっぽどよかったですよ」
 だから、いっただろう――竜也は鼻で笑いたくなった。
「じゃあ、元のままでいいですか?」
「よくないですよ。どうしても元の形にこだわるんなら、今回の話はなかったことにしましょう。それか、まったく別の話を書いていただくかですね」
 竜也はあきれて物もいえなかった。
「もしね、結城さんさえよろしければ――」おもむろに彼はいった。「〝旅打ち物〟を書いていただきたいんです」
「旅打ち?」
「日本全国、ギャンブルを打って旅をする若い主人公の話です。できれば女性も出てくる、コンビものがいいんですけどね……」
 すらすらと案を語りはじめる。ははァ、と竜也は思った。元々編集部内でそういうアイデアが出ていたのだろう。だが、全国を取材できるような暇な編集者も適当な原作者もいなかった。それで今回、竜也に白羽の矢が立ったわけだ。つまり竜也が持ってくる原作は、よほどヒットが見込めるものでない限り、没にされる運命にあったのだろう。
「いかがです? 大変かもしれませんが、当たると思うんですよ」
「お断りします」
 他に抱えている仕事に支障をきたす可能性もある。しかし、竜也が断った最大の理由は、メルクリウス教団にあった。きっと長期スパンの大きな仕事になるが、その目先の利に走って、メルクリウス――つまり首藤から離れてしまっては本末転倒だ。竜也は同じ轍は踏むまいと心に決めていた。
「残念ですね」編集者は席を立った。「では、また何かありましたら――」
 F新社と決別した竜也は、なぜか心の中がもやもやとしていて、気持ち悪かった。確かな意志と理由で仕事を断ったはずなのに、後味がよくない。
 Z出版社に行った。受付で高塩を呼び出したが、打ち合わせに出ていて留守だった。
(アポを取っているのに、なんて非常識なやつなんだ――)
 竜也はロビーの椅子に腰掛けて貧乏ゆすりをしながら待った。
 三十分ほど経って、高塩は帰社した。
「あ、結城さん、お待たせしました」
「ご苦労さまです」
 竜也は席から立ちもせずに、挨拶した。
「ちょうどいま、小町さんと会ってたんですよ」
 カチンと来た。それならなぜ、おれを一緒に呼ばなかったのだ――そう問い質したくなる。
「で、今日は何か……?」
 尚も竜也の神経を逆撫でする言葉を吐いて、高塩は椅子に坐った。小町との打ち合わせではあの喫茶店を使ったはずなのに、竜也との打ち合わせはロビーで簡単に済ませるつもりなのだ。
「前にいってましたよね、神戸から東京に行くまでのシーンで盛り上がりが欲しいって」
「そうですね。いいシーンができましたか?」
「考えたんですけど、必要ありませんよ」毅然として答えた。「あそこは重要な場面ではないですし、いちいち盛り上がってちゃ、読者も疲れると思います」
 実際のところ、気の利いたアイデアが浮かばなかったのだ。それに、別にアイデアを思いつかなくても連載がなくなるというわけではないのだから、竜也は居直っていた。
「なるほど」高塩は苦笑いをした。「じつはね、そこの部分に関しては、小町さんがアイデアを出してくれたんですよ」
「えっ……?」
「トラックで東京まで運ばれる、なんて面白くないですか?」
「トラック……? どういうことですか」
「深夜に走ってる大型トラックの荷台でね、非合法の賭場が開かれてるんですよ。主人公たちも乗りこむ。そこで人脈が広がったら、話もスムーズに運びそうですよね。でね、勝ってたところを、トラックがパトカーに包囲されるんです。これは迫力あって、絵になりますよ。そのあと……」
 高塩はまるで自分が思いついたアイデアであるかのように、得々と語った。
「どうですか? 異存がなければ、この流れでつくっていきますけど」
「……かまいません」

 アパートに帰るなり、竜也は畳の上に仰向けにぶっ倒れた。
「竜也さん……? おかえりなさい」
 容子は大学に行くための支度をしていた。竜也の顔を覗きこみ、
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「体調悪いの? 病院に行ったほうが……」
「違う」
 漫画作品は、漫画家と原作者、そして編集者との共作だ。原作者だけでなく漫画家や編集者がアイデアを出すことだって、往々にしてある。わかっているのに、小町に一杯喰わされたショックは大きかった。
(今回はあいつに花を持たせてやっただけだ……おれだって時間さえあれば、あれくらいのアイデアは思いつく自信がある……)
 心の中で、負け惜しみの言葉がくりかえされる。一体、何をそんなに焦っているのだろうか。神経が尖ってしまって、バスでは一睡もできなかった。
 携帯が鳴った。W書店からの着信だった。
「結城先生、そろそろ続きの原作をいただきたいんですが?」
「あっ――」
 今月中に続編を書いてくれといわれていたのを忘れていた。あと三日で九月も終わってしまう。
「また三話分をいただけると助かります」
「……三日後に、伺います」
「郵送でもいいですよ?」
「いえ、三日後に直接……」
 意地でも東京に原稿を持っていくつもりだった。
「私、そろそろ行くね……」
 部屋に一人残された竜也は、机に向かって原作を書こうとした。しかし、W書店に提出した原作はどんな内容だったか……まずそれを思い出さなければならないというありさまだった――。
 夜になっても、ほとんど書けていなかった。叩きつけるようにしてペンを置き、竜也はハンガーラックから安価なスーツを取り出して、着替えた。
 メルクリウス教団施設へと向かう。昨日は東京にいたために、教団に行けなかった。首藤の言葉を聞いて、活路を見出すしかない。あわよくば、首藤と交わりたかった。
 受付で会費を支払い、中に入った。しかし待てど暮らせど、訓諭開始のアナウンスは流れない。不審に思って、受付で訊ねた。
「今日は先生が来られませんので、訓諭は行なわれません」
「首藤教授が来ない!?」
「先生もお忙しいので、そのような日もございます……」
「ちくしょう、なんてこった!」
 竜也は買ったばかりの革靴で地団太を踏んだ。
 施設を出て、すぐに帰宅する。
「おかえりなさい」いいながら、容子は目を丸くした。「どうしたの、スーツ姿で――」
 台所に立っていた容子を抱きすくめた。
「ちょっと……」
「時間がないんだよ」
「ダメよ、私、今日アレなのよ」
「関係ない」
「やめて!」
 容子が大声を出したので、竜也は驚いた。
「竜也さん、忘れちゃったの? 乱暴はしないっていったのに……」
「くそっ」
 竜也は容子を突き飛ばした。スーツを荒っぽく脱ぎ捨てて、机に向かった。いまのおれにはメルクリウスが必要なのだ――。

 翌月の十月、二社から竜也原作の読み切り漫画が発表された。A書房の雑誌に掲載された漫画は思ったような仕上がりにはなっていなかった。
「雑誌を送らせていただきましたので、よろしくお願いします」
「読みました。でも、ストーリーが……」
「ページ数の問題もあって、削らざるを得ない箇所があったんですよ」
「反響のほうは……」
「どうでしょうかね。またご連絡します」
 それからA書房からの連絡は途絶えた。
 漫画のクレジットには、大げさなほど目立つ文字で『漫画革命賞グランプリ受賞者・結城竜也』と書かれてある。いっそのこと、自分の名前も肩書きも消してほしいくらいだった。せっかく漫画革命賞を獲ったのに、これでは賞の価値も下がってしまう。これを読んだ編集者にも、竜也は足許を見られてしまうだろう。他社からこれ以上の執筆依頼が来るとも思えなかった。
 しかし、もう一方のT論社の読み切りは、どうやらヒットしたらしい。
「是非、続編を書いていただけませんか」
「はい……」
「主人公のキャラがかなりウケてるんで、連載にしたいと思ってます。次の連載会議にかけたいので、来週末までにはプロットと、五話分くらいの原作を書いてもらいたいんです。僕としましては、これは一話完結型の連作がいいと思うんですけど――」
「わかりました、来週末までですね……」
 連載が一つ増えそうだが、喜んでいる暇はなかった。今月から連載スタートしたZ出版サンライズの〈レイズ〉が、早速竜也の予期しない展開を見せていたのだ。それを高塩に訴えると、「そうなんです。設定が少し変わったので、また原作を十話分書き直してください」という理不尽な注文がきて、竜也は頭を抱えているのだった。
 一週間後の夜――竜也が身支度をして玄関で革靴の紐を結び終えたとき、容子が大学から帰ってきた。玄関で鉢合わせて、気まずい雰囲気になった。
「……今日も遅いの?」
 容子は口を開いた。
「そうだな」
「これ、竜也さん宛てに届いてたよ」
 郵便物の差出人は『W書店』だった。竜也は履いたばかりの革靴を脱ぎ捨てて、部屋に戻った。
 封筒を破ると、百枚近くはありそうな原稿の束が出てきた。三話分のネーム(下書き)原稿が届いたのだ。先月末に提出した、急ごしらえの続編三話分は、まだネームになっていないようだ。
 内容に目を通し、違和感を覚えた。キャラクターの設定が変えられているのは毎度のことだが、物語は収束に向かって先細りになっていて、三話分すべて読み終えたら、完結した一つのストーリーとしてまとめられていることがわかった。
 すぐさまW書店に電話をかける。
「三話分のネームが届きましたけど……まさか、これで終わりじゃないですよね?」
「一旦終わりです。集中連載ですので」
「集中連載? それで三話ですか? 僕が先月末にお渡しした、続きの原作は……?」
「率直に申し上げますと、あれは没です」担当者は抑揚のない声でいった。「物語のラストが、組長である祖父を倒す――というのは、ハッキリいって、ありきたりすぎます。もっと予想できないような展開が欲しいですね……。三話の短期連載なら、小学生の女の子という主人公のキャラで充分持つとは思うんですが。とりあえず、この三話で様子を見て、また何か斬新なアイデアをいただけるのであれば、続きも考えていきましょう」
 竜也は腹が立ってきた。どこがありきたりなんだ。どこにそんな漫画があるというんだ――。
「送らせていただいたネームに関しては、問題ないですか?」
「ないです」
「掲載は来月からですので。また雑誌は送らせていただきます」
 電話が切れた。
「くそっ……くそっ……!」ネームをびりびりに破り裂いた。「おれを舐めやがって」
「どうしたの……?」
「勝手に集中連載でまとめると、向こうがいいだしたんだ。W書店のやつさ。何が斬新なアイデアだ、口では簡単にいいやがる。あいつら、絵もストーリーも書けないくせに!」
「そんな怖いいいかたはしないで……。竜也さん、大丈夫よ。Z出版では連載してるし、また今度、新しく連載を持てるようになるんでしょう?」
「無理だよ」竜也はネームを破る手を止めた。「新しく連載を持たせてくれる――T論社の原稿の〆切りは、明日なんだ」
「明日……?」
「何も書けちゃいない」
「まだわからないじゃない。今日頑張って書いたら……」
「明日、速達で郵送しても、東京には間に合わないよ」
「データ化すれば、すぐに送れるんじゃないかな……。大学ならスキャナがあるし、メールも使えるの。私が代わりにやってもいいし……」
 竜也は首を横に振った。もう何も考えたくはなかった。
「容子……金、あるか」
「お金? 足りなくなったの?」
「足りないよ。全然だ」
 容子は財布を取り出して、中身を差し出した。二万円だった。
「なんだい、これっぽっちか?」
「これが限界よ」
 竜也は二万円を握りしめた。
「エアコンを買ったろう、漫画革命賞の賞金で。あの残金はどこにある?」
「あれは、銀行に預けてあるけど……」
「必要になったんだ。いますぐに」
「何に――」
 使い道をたずねかけて、容子は口をつぐんだ。それは竜也が稼ぎ出した金である。竜也がどう使おうと、容子には口出しできなかった。
「この口座に、入れてあるけど……」
 漫画革命賞の賞金だけを入れているという口座の通帳を手渡した。
 竜也はそれを受け取ると 、外へ飛び出した。ATMで金を下ろす。九十万ほど残っていた。数回に分けて、全額引き出した。

 メルクリウス教団施設へと急いだ。夜になっても、送迎バスは運行されている。黄泉の国へと運ばれるような闇に沈む川を横目に走っていくと、やがて住宅地に入っていき、海をバックにした宮殿が見えてくる。ライトアップされているので、昼間見るよりも大きく感じる。
 バスを降りると、竜也は我さきにと宮殿に駆けこんだ。
「首藤教授はいますか!?」
「会員証はお持ちでしょうか」
 受付のローブ嬢は笑顔で訊き返す。竜也はいわれたとおり、会員証を提示し、会費を払った。受付嬢はそれを確認すると、
「先生は訓諭の最中でございます。次の訓諭は一時間後です。アナウンスさせていただきますので、それまで館内でごゆっくりお待ちください」
「……急いでるんです」
 竜也は受付を足早に通りすぎた。階段を上がり、両側に寓意画の並べられた廊下を駆け抜けた。突き当たりの扉を荒々しく開く。
 壇上に首藤が立っていた。暗いホールの中で、全裸の彼にだけスポットライトが当てられている。彼の足許には多くの人々が群がり、神体を崇めていた。
 竜也はずんずんと進んでいった。人の群れを掻き分けて、首藤の近くまでいった。
「首藤教授――!」
 首藤は竜也を見向きもしない。さまざまなポーズを取って、皆に軀を見せつけている。
「お願いです、僕には首藤教授が必要なんです」
「皆さん、このあとは瞑想の時間です。後ほど、お会いしましょう――」
 首藤がいうと、竜也の周りにいた人々は踵を返して、ホールを出ていった。もちろん、出る間際に熨斗袋に包んだ金を小箱に納めることは忘れない。
「教授……どうか、お時間をください」
「どうしたのです? そんなに急いで」
「なんだか、最近おかしいんです。仕事がうまくいかなくなってきました。いまだって、明日が期限の原稿が、まだ書けないでいるんです。僕にはメルクリウスの力が必要なんです」
 竜也は壇上に這い上がろうとした。その瞬間、護衛の男たちが飛んできて、竜也を力ずくで引きずり下ろした。尻餅をついたぶざまな竜也を、首藤は無表情で見下ろしている。
「信心がまだ足りていないのです――」首藤は断言する。「瞑想室に向かいましょう」
 竜也はうなずけなかった。メルクリウスの力は本物だ。しかし、首藤を相手にしなければ効験は薄いような気がした。またいつものように、どこの誰とも知らない女と儀式を行なっている場合ではない。
 竜也は首藤との時間を望んでいた。あの異形の天使を従えた、黄金色に輝く神体との性交が、いまでも脳裏に焼きついていて離れない。
「僕に信心がないと……お思いなんですね?」
 竜也はジャケットの内ポケットに突っこんでいた封筒を床に置いて、土下座した。
「これでわかっていただけるはずです。僕はすべてをメルクリウスに捧げています」
 人の気配が近づいてきた。顔を上げたときには、九十万の金が入った封筒は回収されていた。
「貴方の望みはよくわかりました――」
「じゃあ……!」
 首藤は演壇から降り立った。
「行きましょうか」
 熱気のこもった瞑想室では、十二本の樹が揺らめいている。首藤が台座の上に立って、謎の言葉を唱えると、人々はメルクリウスからの示唆を受ける。軀を揺らし、奇声を上げ、乱交をはじめる。
 有限だった部屋が、無限の宇宙と化した。果てしなく続く、永遠が現れた。周りで行なわれている乱交の光景は、竜也の目に入らなかった。竜也は宇宙を泳いでいって、首藤に近づく。
「首藤教授――このときを待っていました」
 あと少しで手が届くというときに、軀が前に進まなくなった。何者かに羽交い絞めにされているような感覚で、軀の自由が利かなくなった。だが、心配はしなかった。首藤が竜也を迎えにきてくれると信じていた。
 首藤は硬直した竜也を、ただただ見つめるだけで、動こうとしない。
「どうしたんですか、教授……早く、僕と一緒に……」
 まばゆい光が差しこんだ。十二体の天使が宇宙の彼方から飛んでやってきた。天使たちは首藤の軀に甘えるようにくっつくと、背中に生えた羽根をはためかせた。首藤は天使たちに運ばれて、竜也から遠ざかっていく。
「教授……! どこに行くんですか……!」
「貴方は心のどこかで、私を疑い、拒んでいる」
 遥か彼方まで飛んでいってしまった首藤の声が、頭の芯にまで響いてくる。
「そんなことは絶対にありません!」
「メルクリウスに身を委ねる者は、恩恵に浴し、成功を手に入れられます。得られない貴方は、反逆者なのかもしれない……」
 首藤の姿は見えなくなった。竜也は彼を求めて、濃霧の中をさまよい、闇の底に落ちていった。境界を越えたそこで、竜也を待っている者がいるような気がしてならなかった。

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