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言葉にならないことを、言葉にする。

私は飲み会が苦手だ。でも人は好きだ。大人数が苦手だ。でも一対一で話すことは好きだ。コミュニケーション能力は高いと言われがちだけど、いつも頭の中で反省会を開いている。

飲み会の成功体験というものがない。あれを話さなきゃ良かった、聞かなきゃ良かった、そんなのばっかりだ。でも、そもそも「飲み会に成功体験なんてない」とお酒を飲む人達に言われた。自分の思うように話せることも、話を聞けることもない、余計なことがない飲み会なんて存在しないらしい。
それなら開催しなくていいじゃん……と思ったけれど、でもそれってそもそも人生ではないか?とも思い直した。
「思うように話せた」経験なんて、飲み会に限らず、私にあるだろうか。

去年の夏、大学時代のゼミの先生に頼まれて、ゲストスピーカーをした。60分、自分の福祉の仕事について、悩み迷っていること、みんなに考えて欲しいことを語った。伝わるのか分からないけど、懸命に言葉を尽くした。大体が21歳くらいという若い学生たちは、予想を遥かに超える真剣さで聞いてくれた。その後の質疑応答も時間が足りなくなるほどだった。私1人に対して学生は50名程いたはず。そんじょそこらの飲み会など比にならない人数である。そこで語る私は、「上手く話せた」のだろうか。
私は昔から先生に恵まれていて、先生の話を聞くことが好きだった。でも周りの友達は真剣に聞いているように思えなくて、それがショックだった。私はそれを元教師である母に相談した。母は「先生たちが、その場で全員に伝わると思って話をしているわけではないのよ。30人もいたら受け取りはそれぞれだし、聞いてない人もいるでしょう。もしかしたらちゃんと覚えてくれるのはたった一人かもしれない。それでもその一人に届けばいいな、いつか思い出してくれたらいいな、くらいの気持ちで話していると思うよ。双葉がちゃんと心に留めていることは先生の支えになるはずよ。」と言った。今思えば、全員が話を一言一句固唾を呑んで聞き、その通りに実行するとしたら、それは教師と生徒ではなく、教祖と信者だよなと思う。
母のこの教えに習って、ゲストスピーカーをする時も、1人の学生に届けばいいという気持ちで語った。結果、予想以上にみんなが聞いてくれた。いや、聞いてくれたと「受け取った」。本当のことは分からない。結局人の気持ちを読めない以上はそれは当然のことだと思う。
4人の飲み会で上手く話せないと思う私は、50人を前にしたら「1人に届けばいい」とある意味の楽観的かつ、ある意味の無責任になれて、「上手く話せた」のだろう。

私はこうして文章を書くことが好きだ。人に説明することも、職業柄得意な方だと思う。それでも飲み会で上手く話せないのは、その場で上手い・下手をジャッジされるような感覚があるからなんだろう。成功の会なんてないさ、上手くお互い話せてもいないさ、でも愚痴と苦労を少し分け合おうよ、みたいな、そんな飲み会がきっとたくさんある。そういうコミュニケーションがあったかもしれない場所を、私はずっと怖がりで避けてきたのだろうと思う。(もはやいわゆるコンパみたいな、一部の人が傷つくことが前提の飲み会は私の周りには存在しないので)そういう、「出来ないよね」を共有しあっている前提の会には、足を運びたいなと今更かもしれないけど思う。


そもそも、上手く話せるってなんだろう?言語化能力も、説明する根気強さも、私は少しは持っていると思う。でも、「上手い」ってなんだろう。結局、言葉は言葉でしかなくて、言葉以上のものを知るために言葉があるのではないかとさえ思ったりする。 
「言葉にしなかったら気持ちではない」という台詞もあるし、「言葉のない思いに愛はない」と話す人にもあったことはある。どちらにも頷きはするけれど、一概には言えないよ、と言いたい。

先日、私は彼に手紙を渡した。1ヶ月かけて書いた、超大作、渾身の手紙だった。それくらい長いという意味ではなく、自分の気持ちと向き合い、それを伝えるための言葉を探し、邪魔するものは削り、自分の心そのものを詰め込んだ手紙だ。出来るだけ素直に。出来るだけ真面目に。出来るだけの愛を精一杯込めた。
彼に渡す日、緊張していた。もはや渡すのを辞めようかとさえ思った。でも深呼吸して、手渡した。そして逃げるようにシャワーを浴びた。目の前で読んでいる姿を見れなかった。本当は手紙をその場で自分が読もうかとも考えたけど出来なかった。シャワーを浴びながら、もはや暗唱できる手紙の内容を小さな声で繰り返した。ああ、今彼にこれが渡ったんだと思うと、胸はまた鳴っていた。シャワーを終え、髪を乾かす。いつもはリビングから彼が聞くラジオが聞こえてくるのに、静かだった。読んでくれている、読み終わった後も切り替えることなく考えているのだとその無音から伝わった。髪を乾かし終わって、廊下に出たら彼がいた。「ありがとう」と彼は言って、私の髪を触っていた。私は泣いてしまった。彼の顔を見て、そしてその温もりから、私の気持ちは伝わったんだと思った。
手紙を書く時、彼からの反応は期待しないと決めていた。期待には終わりがないから。どんな返事が欲しいではなく、自分の気持ちを伝えることに重きを置いた。私の気持ちを小包に入れて、ぽんと受領印を押して欲しかった。だから、届いたことに安堵したのだった。

私は彼には上手く話せない時がある。彼も私には上手く話せていないことがかる、でも言葉を超えるものがある。「上手く話せた」と思ったことさえきっと儚くて、だから言葉以上のものを、こうして言葉に変えて、私を守る養分にしていきたい。きっと私は、言葉にならない彼とのことを、受け止めたくて、信じていたくて、言葉以上のものがあると言い聞かせているんだ。もしかしたらそれは滑稽なことなのかも、しれないけれど。

いわゆる「上手く話す人」を好きだったことがあまりない。「不器用でも言葉を尽くす人」がずっと好きだ。私なりに、あなたなりに、言葉を精一杯紡いで、時に言葉以上のものを抱きしめていたい。




愛してる、の言葉よりも
愛してる、が伝えられる言葉はあるのかな
大切にすればするほど
離れてく、この気持ちに終わりはあるのかな
よかったことばかり思い出して
あなたとの日々を進めていく
その日々のことを愛と呼ぶのかな
誰も知らないなら決めていいよね
ーーーー
所詮他人なのにわたしたちは
繋がり合いたいと思い合う
一つになりたい
そういうんじゃなくて
二人は二人のまま ここにいたいだけ

ヒグチアイ「この退屈な日々を」

今、こんなに染みるラブソングはありません

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