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映画「月」を見て―優生思想とたたかうということ (ネタバレなし)


映画「月」を見た。昨日この映画を知り、今日見に行った。やまゆり園の障害者殺傷事件が題材になっているとのことで、見ないといけないと思った。

今、映画の感想をつづろうとしているけれど、まだ何も整理できない。まだ何も正しく言葉には変わっていない感情がたくさんある。
それでも今、見た直後の今だから書かないといけない。書きたい。


やまゆり園の事件が起きた時、私は大学生だった。私は福祉学を専攻していて、生活に困る方々に寄り添う仕事をしたいと決めていた。そんな時のあの事件は、体の芯から恐怖を感じた、衝撃的だった。先生方も動揺されていたし、でも学生の気持ちにも寄り添ってくれて、どの授業でも先生方がまずこの事件について話をしてくれたのをよく覚えている。
私は「ああこれが優生思想か」と思った。なんて恐ろしいのかと思った。優生思想が体の中に継続して残って、行動に移された。そしてそれを支持するようなネットのコメントが、より私を恐怖の中に陥れた。
私は人の尊厳を守るために学んでいて、でもそれが根底から「無駄だ」とひっくり返されたと思った。怖くて、正直あまり考えたくなかった。この事件についての文献を読まなければと思いつつ、向き合うことが怖かった。

この映画は、真正面から私のその甘い考え方を殴ってきた。
スクリーンの向こうから心臓を握りつぶされるような、「お前はどうなんだ」という問いが何度も何度も向かってきて、涙がずっと顎から滴り落ちていた。


人間とはなにか?
生きるとはなにか?
生まれるとはなにか?

私たち人類は、いつだって何が劣っていて何が優れているか、選別しながら生きている。
優生思想は今もこの世に蔓延していて、私の中にもあるんだ。
私はどうたたかう?
私はどう抗う?
私はどう、もがいていく?

もがいていきたいから、足掻き続けたいから、福祉の仕事を選んだと思う。この仕事が、私を救い助けてくれたことも沢山ある。でも、ずっと人間の尊厳を、人権を守るということの難しさを突き付けられてもいる。

映画の中で、「私は認めない」という台詞がある。
本当にそれだけだと思った。何が何でも、優生思想を認めてはいけないのだ。人が人の命を奪ってはいけないのだ。そのために私たちは会話し、話し合い、考え、学んで、苦しんで、分け合って、時にはユーモアをもって、手を取り合うしかないんだ。これは本当に大変で難しくて絶対に孤独では出来ないのだ。

あぁ、まだまだ言葉にできない。
闘い続ける、問い続ける、そんな人間になりたい。
福祉の仕事をする人間として、見て見ぬふりをしていた偽善者として、人間として、ちっぽけかもしれないけど、ここにその決意だけは今、綴っておこうと思う。

以上です。





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