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『俺はLGBTのどれなんだ』と悩むべきではないという話

 昨今、トランスジェンダーの方が、「実はやっぱり元の性の方が自分にしっくりくるのではないか?」と途中から思い出す……と言う話を聞く。

 これを変節だとか、我が儘だとか言うべきではない。

 人間、誰しも自分の性に対して疑問を持つ可能性は十分にあり得て、その疑問が一瞬で氷解する場合もあれば、十年二十年と悩む場合もある。
 それは別にその人の性格とか知性とか或いは精神の問題ではない。

 自分の兄弟の問題を一生引きずる人もいれば、仲のいい兄弟のままという人もいれば、歳を取ってから兄弟仲が悪くなる人もいる。
 それは別に自分や兄弟の性格が良かったとか悪かったとか、途中で頭がどうかなったとか、そういう問題ではない。
 様々な事情が複雑に絡んで、良くなったり悪くなったりしているだけだ。

 それと同じで、自分の性の認識や、性的指向の認識が歳と共に変わっていくと言うことは十分にあり得る話である。
 ストレートからゲイに気付くと言うことがあるのなら、ゲイからストレートに気付く場合だって十分にあるだろう。

 ある男性が女性と付き合っていたけど、「なんか違う」と言うのは、偶然その女性との相性が悪かったという場合もあれば、実はゲイだったということはよく語られる。
 同時に、あるゲイの男性が、幾人かのゲイと付き合ったけど「なんか違う」となったと言う場合だってあり得る。そしてその原因は、偶然付き合った相手の相性が悪かったと言うこともあれば、実は恋愛に関しては女性を求めていたという場合もあるだろう。

 そして、各人その一例一例が常にこうだと言う決定論があるわけではないのだ。

 女性トイレや女風呂の問題はさておき、誰しもある一面では男で、ある一面では女という場合だってあり得る。
 人々はそういうペルソナを上手く利用して或いは無理にでも付き合って生きている。
 それが器用な人がいれば不器用な人もいる。
 そんな不器用な人に対して「人形や化粧が好きならばお前のジェンダーは女だ」と言い張るのは、「お前はペニスを持っているのだからお前のジェンダーは男だ」と決めるのと全く同じ事である。

 肉体の性もあれば、精神的な性があると言う時に、じゃぁ、女性的な趣味、男性的な情動と決めてしまうのは危険なのだ。
 ガンダムが好きな女の子は強くて格好いいガンダムが好きであり、ピンクの丸っぽい謎のロボットが好きとは”限らない”。
 小さくて可愛い人形に着せ替えるのが好きな男の子が、GIジョーのような人形を嫌いとは"限らない"。
 そしてその逆も然りである。

 ガンダムもドールもGIジョーも女装も全部好きだけど、恋愛対象は女性と言う男も当然いるだろうし、スポーツカーを乗り回して、ユニセックスな服を好んできている女性の恋愛対象が女性と決めつけることは出来ない。

 女装する人がゲイでなければならない法はないし、レズビアンがリベラル的でなければならない法もない。
 偶然好きになった人が同性だったと言うことは、その後も絶対に同性が好きになる訳でもないし、その好きになったポイントがルックスの場合と言う場合もあれば、精神性に惚れる場合だってある。そこにはもはやゲイとかレズビアンとかストレートとか言う区分けはそれほど重要ではない。
 それは本当に、人それぞれの自由であるのだ。

 そもそもとして、「男性、女性、お前はどっちなんだ?」と迫ることが間違いであるならば、「お前はLGBTのどれである」と迫る事だって間違いだ。

 自分を男として男が好きな生物学的な男性も、自分を女性として女性が好きな生物学的な男性もいる。
 自分の性自認、自分の性的指向、自分の生物学的性別……雑にこの三つの項目を抜き出して、男、女、どっちでもある、どっちでもない……と切り分けるだけで六十四のタイプに分かれる。
 現実は、もっと繊細な違いや項目があり、それはもはや事実上無限である。

 そういう複雑な事情を、LGBTやらLGBTQQIAAPPO2Sやらと名付けて、「この特定の性質の人は可哀想だから守ろう」と言うような発想になること自体がナンセンスなのだ。
 人間の性質は、簡単に数え上げたり分類できたりするものではない。
 全ての大阪人がお笑いを愛してる訳じゃないし、全てのイギリス人が嫌みっぽい訳ではない。それと全く同じだ。

 人生の途中で"違う"と気付けば、別の性を名乗ったっていいし、それが事実上LGBTから離脱することになっても、それによって本人の人生が豊かになるのであれば、それは是非とも応援すべきだ。
 LGBTを名乗ることによって幸せになる人もいれば、名乗らない事によって幸せになる人もいる。
 どちらの場合だって、人間は幸せになる権利がある。

 LGBT運動という中で、仲間を増やすのが吉だと言う考えは、一歩間違えれば主張の先鋭化を招く。
 入った仲間を逃がさないと言う発想で活動すべきではない。

 教育に於いて必要なのは、性に悩んだ子供に対して「ゲイやトランスジェンダーと言う生き方もあるよ?」と言う提案と、そうである人への偏見を持たないような秩序を導くことである。
 「男と言う価値観になじめないならば、お前はゲイであり、これから一生ゲイとして生きていかなければならない」と押しつける事ではない。

 LGBT教育は是非とも必要だと思うけれど、主義主張の教化になってはならない。
 それはLGBTの教育ではなく、イデオロギーの教育となるからだ。

 自分がLGBTの(或いは他のセクシュアルマイノリティの)どれであっても、後ろ指を指されない社会の実現こそが、人類として目指すべき目標である。
 そして、例えばある人がゲイやレズビアンを憎悪していても、それを口にしないとか、差別的扱いをしないとかを守れば、その当人の内心の自由を侵すべきではない。
 同時に、自分がLGBTであったとしても、「俺を好きにならない人間はレイシストだ」と言うのも間違っている。自分がシンプルに嫌われ者と言うことだってあるのだから。

 自分が他の要素で嫌われているのを、「LGBTだから、障害者だから、人種が違うからetc……」と言い訳してはならないし、自分の欠点は自分自身が自覚的でなければならない。
 特に自分の主張が人と違うときは特にだ。
 人が自分に反発しているのは、主義主張の問題なのか、自分の性格や自分の行動によるものなのか、自身が自身に対して正直に考える必要がある。

 僕はこれでもゲイの友達とかトランスジェンダーの友達がいるけれど、それぞれ自分の性と自分の性自認と、社会に於いてどうするか、自分のパートナーをどう選ぶか……と言う問題に対して、それぞれ悩み、或いはそれぞれに答えを出している。
 そして、その答えは各人少しずつ違うし、どれが正解と言うことはない。
 敢えて言うならば、自分の今に満足しているのであればそれが正解だろう。

 なので、「ゲイとはこのようなものだ」とか「トランスジェンダーはこうあるべきだ」と定義すべきではないし、「LGBTであることは(或いはLGBTと名乗ることは)、自分の道徳的価値を証明する」と言うことにはならない。

 ぶっちゃけ、論的を黙らせる為に自分をLGBTと名乗ってた人に出合ったことがあるけれど、恐らくはそういう精神的ゴロツキがLGBTの問題を歪ませているのだ。

 各人が自分の性自認に対して異なったポリシーを持ち、それが他人の幸福を否定したり妨害したりしない限り、そのポリシーは誰にも否定されないことが理想だ。(同時に、人のポリシーも否定しないことも必要だ)
 そしてその為には、自分の性や性自認に納得することが大切であり、それができない人の為に精神的な或いは医学的な導きをすることが重要なのだ。
 そうした平和的な発展に寄与しない過激な言論は、LGBT推進にしても反LGBTにしても唾棄すべきだ。

 自分がゲイだろうとトランスジェンダーだろうとレズビアンだろうとバイセクシャルだろうと、或いは他のセクシュアルマイノリティであろうと、その前にみんな人間なのだ。

 己が進歩的な人間だと思うのであれば、他者を愛し、争い事を避けるべきである。
 どれほど美辞麗句を尽くそうとも、他人を抑圧し自由を奪い不幸を望むような人間は、決して進歩的でも優れた人間でもない。
 それはその人が、LGBT側であろうと、反LGBT側であろうと同じだ。

 そのために一番最初に必要なのは、自分に対する理解だ。
 自己認識の時点で躓く人が、他人を正しく理解するなど出来ないのだ。
 自己を理解し、他者を理解し、その上で平和裏に物事を進める。それ以上に、世界をよくしていく道はない。

 だからこそ、一番最初の自己理解を歪ませてはならない。
 自分自身の自己理解が大切なのと同様、他人が自己を理解しようとするのを邪魔してもならない。

 争い事の為に、己の利己的な理想の為に、人を、社会を歪ませる人間に与してはならないのだ。

※挿絵はDALL·Eを用いています。

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