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『天穂のサクナヒメ』をプレイしてゲーム観が変わった理由

1ヶ月ほど前に『天穂のサクナヒメ』をプレイしました。ストーリー、キャラクターの魅力、ゲームシステム共々かなり好みの作品で面白かったです!ですが諸々の魅力は先人の方々が散々口になさっていると思いますので、今回は特にサクナヒメで印象深かったシーンについて話していきます。



田植えシーン

ゲーム時間の2年目辺りに皆で麓の田の拡張を行ったシーンがあったのを覚えているでしょうか。終わらない田植え作業。皆が愚痴をこぼしながら険悪な状況になっていく中、田右衛門が歌の大切さを説き一緒に田植唄を唄いながら黙々と田植えを行っていくシーンです。


その中で田植唄とともに苗を植えるシーンが流れるわけですが、これが長い!とにかく長い!!!!!
時間にすると実に3分!特に初見でサクナヒメをプレイしている人にとっては唄がループしていて永遠にこの映像が続くと思っていた人も多いでしょう。これだけ同じような映像が他で延々と流れているのは、チンアナゴの見守り配信くらいしか知りません。


自身のムービー観

私は「ムービーは短く纏まっていれば纏まっているほど良い」と思っていて、そういう意味ではこのムービーは一見この主張の真逆に位置しています。普通の作品であればこのムービーはおそらく大幅にカットされ、ムービーがフェードアウトしていくような形で省略されるのが一般的な演出方法だと思います。

ですがこの作品では田植唄をフルで流している。恐らく「ムービーが長い」と感じさせているのも意図的なものでしょう。『天穂のサクナヒメ』にこのシーンを入れるにあたって、田植えシーンは長いほうが良い。むしろ長くなくてはならない。そういうことを強く感じさせてくれるようなシーンでした。

このシーンで太右衛門は「百姓仕事とは喜びに辿り着くまでが長く、険しいものにござる」「話し込むとついつい不平を口にし、気が滅入ってしまう。そこで先人たちは唄うことにしたのですな」と言っています。私自身は田植えというものを行ったことがないですが、広大な田という土地に苗を延々と植え、半年~一年かけて大切に大切に米を育てていくのがどれだけ大変かというのは言葉にするまでもなく感じ入るものがあります。トラクターもないような時代、いつ台風が来て米が駄目になってしまうかもわからない中で将来に向けて必死に米を育てていく。その百姓の大変さ偉大さがこのムービーと田植唄に存分に表現されていたように感じます。



ムービーを見てはじめのほうは「長いな」くらいにしか思っていませんでしたが聴いているうちにじんわり心に暖かいものが流れてきてムービーが終わる頃には無駄なことなんて一つもないいいシーンだったな、と素直に感じさせてくれました。

今までシーンは「短ければ短いほど良い」というように考えていましたが、長いシーンも使い方で唯一無二の良シーンになりうるんだな、ということに気づかせてくれたシーンでした。この田植えシーンは『天穂のサクナヒメ』を語るうえでは切り離せないでしょう。


まとめ

拠点のスタート位置が田んぼとは少し離れた位置からスタートしていたり稲作のテンプレートをあえてぼかしてプレイヤー自身に考えさせるような設計にしているのも恐らく同じような理由からだと感じました。

稲作は先の見えにくい中日々のストレスと戦いながら少しずつ育てていくもの。作者の「田植え観」とゲームシステム演出が見事にマッチした非常にやり応えのある作品でした。ここまでの作品を作り上げてくれた作者様にあっぱれです!☀

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