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転換期のイエス―チェーホフ『桜の園』


Ⅰ 主従関係の逆転

 親愛なるチェーホフ

 あなたが亡くなられて、今年で120年が経ちます。あなたの最晩年の作品である『桜の園』を20年ぶりに読み返しました。『桜の園』を女子高生が演じるまでの2時間を描いた日本映画『櫻の園』(1990)を観たのがきっかけです。 

ラネーフスカヤに扮する倉田(白島靖代)と、ドゥニャーシャに扮する志水(中島ひろ子)

 あなたが描いたのは、時代の転換期における、主従関係の逆転です。桜の園の女主人ラネーフスカヤは没落し、桜の園は借金のカタに売りに出されます。競売で、父親が農奴だったロパーヒンが桜の園を買い取り、新たな桜の園の主人になるのです。

 農奴制が撤廃されたにも関わらず、昔と同じように金を使い、首が回らなくなり、没落していく領主貴族と、父親の代で晴れて自由の身になっために、自らの才覚で道を切り開き、金儲けに励む元百姓の商人。この二者が対比されているのです。大きな時代のうねりの中で、旧勢力が没落し、新興勢力が幅をきかすさまを描いて見せているのです。
 
 このことは、この戯曲を読めば、おそらく誰もが気づくことでしょう。ただ、何度か読むうちに、あなたの戯曲が語っているのは、それだけではないような気がして来ました。

Ⅱ 贖い主、復活す?

 1 桜の園の贖い主「ラネーフスカヤ」

 戯曲は、5月にラネーフスカヤがパリから桜の園に帰って来た日から、10月にまたパリに旅立つまでを描いていますが、登場人物たちは、キリスト教の復活祭に基づく暦を用いています。小間使のドゥニャーシャは、ラネーフスカヤの娘アーニャがパリに出発したのは、「大斎のころ」(復活祭に先だつ7週間の精進期間)だといっていますし、老僕のフィールスは、地主のピーシチクのことを、「復活祭の時おいでになって、キュウリを半たる召し上がりましたよ……」といっています。

 戯曲の登場人物たちが、イエスの復活に基づく暦を用いていることは、キリスト教文化圏の話であるということにとどまらない、深い意味を持っていると思います。

 イエスは、贖い主といわれます。「贖う」とは、奴隷状態の者を買い戻すというのが原義です。つまり、イエスは十字架にかかって死ぬことによって、罪の奴隷になっている全人類を買い戻し、罪から解放したといえます。キリスト教信仰とは、このイエスによる贖いを信じることです。

 戯曲の中で、借金のカタに売りに出された桜の園を買い戻す役割を担っているのは、桜の園の女主人であるラネーフスカヤです。ラネーフスカヤこそが、桜の園を贖うことを、桜の園にとってのイエスであることを期待されているのです。
 しかし、彼女は借金だらけで、桜の園を買い戻す財力はありません。親戚の「ヤロスラーヴリのお祖母さま」からは、いわば奴隷状態にある桜の園を「買い戻」すようにと金を与えられますが、額はわずかで「利子の払いにも足り」ません。そのため、桜の園の贖い主たるべきラネーフスカヤは、ついに桜の園を贖うことができずに、その役目を果たせずに終わるのです。
 

 2 贖い主の復活を祈念する


 第一幕で、ラネーフスカヤの兄ガーエフは、桜の園を買い戻すための方法をあれこれ考え、こういいます。

誰かの遺産がころがりこめばよし、アーニャを大金持のところへ嫁にやるのもよし。それともヤロスラーヴリへ出かけて行って、伯爵夫人の伯母さんにぶつかってみるのも悪くはあるまい。伯母さんは、とてもどえらい金持だからな。

ガーエフとラネーフスカヤ

 ガーエフは、贖う能力のないラネーフスカヤに代わって大金を出し、桜の園を買い戻してくれる、そんなラネーフスカヤにとってのイエスが登場することを期待しています。このことは、イエスの復活を祈念していると言い換えることができます。

 ガーエフの皮算用で、自己犠牲を払わされそうになっているのが、ラネーフスカヤの実の娘アーニャです。ガーエフは、アーニャを大金持ちに嫁がせることで、大金持ちが桜の園を買い戻してくれることを夢想しているのです。支払い能力のない母に代わって、好きでもない男と結婚するという自己犠牲を払うことを期待されているアーニャは、強制的にイエス役を演じさせられそうになっているといえます。

アーニャとトロフィーモフ

 この後、ガーエフの台詞を聞いていたアーニャが現れると、ガーエフはアーニャのことを「わたしのエンジェルだ。」といっていますが、これはアーニャにイエス役を演じさせようとしていたことと合致しています。

 ガーエフは、ラネーフスカヤ本人に代わって、桜の園を買い戻してくれるイエスのごとき存在の登場を祈念する、つまりイエスの復活を祈念するけれど、それが叶わずに終わる話と解釈することができます。

 3 中年女性のイエス

 ラネーフスカヤは、桜の園の贖い主としての役割を全うすることはできませんでしたが、周囲の人々に対する振る舞いにおいては、イエス的です。地主のピーシチクは、借金の利子を払うために彼女に金をせびりますし、浮浪者もまたお恵みを求めていますが、ラネーフスカヤはそのたびにその要求に応えています。浮浪者には、小銭がないからと金貨を与えてしまったりもするのです。

 周囲の人間に対して、返済を期待せずに金銭を与えるラネーフスカヤは、一方的で絶対的な無償の愛―アガペー―を示す存在であるといえます。彼女の姿は、十字架にかかることで自らの命を犠牲にし、全人類に無償の愛を示したイエスの姿と重なってくるのです。しかし、ラネーフスカヤが周囲の人間に与えている金は、自分のものではなく、ロパーヒンから借りたものです。ラネーフスカヤは、イエスと重なるけれど差異もあるという点で、イエスのパロディといえます。あなたは批評的な距離をもって、転換期におけるイエスを描いているのです。

 ラネーフスカヤは、夫亡き後にできた恋人がいますが、彼に対する振る舞いもまた、イエスを思い起こさせます。恋人に対する愛は、もともとはエロースであったはずです。しかし、恋人はラネーフスカヤから「搾れるだけ搾りあげた挙句、ほかの女と一緒にな」ります。このような裏切りにあったにも関わらず、病気になった恋人が繰り返し電報を寄こすことで、恋人のいるパリに戻り、看病してやろうとします。経済的にも精神的にも自分を苦しめた恋人を許し、尽くそうとするラネーフスカヤの愛は、イエスが実践した、敵をも愛する愛であるアガペーを思い起こさせるのです。

 しかし、ラネーフスカヤがパリに戻ることで、実の娘のアーニャは置き去りにされます。ラネーフスカヤは、腹を痛めた娘と暮らすことよりも、裏切った恋人と暮らすことを選ぶのです。伯母から桜の園を買い戻すために送られた金を、アーニャの教育にではなく、パリでの恋人との生活に費やすことを選ぶラネーフスカヤは、保護者としての義務を果たそうとしないという点で、バランスを欠いたイエスといってもよいでしょう。

 4 農民出身のイエス


 ラネーフスカヤは自己流のアガペーを実践するイエス的存在ですが、ある意味、ラネーフスカヤの代わりを務めているのが、農民の子で、養女であるワーリャです。

 ワーリャは、養女にしてもらい、育ててもらった恩に報いるかのように、ラネーフスカヤがパリに行き不在のときも、彼女の帰国後も、ラネーフスカヤに代わって家政を担当しています。
 さらに、ラネーフスカヤに代わって、彼女の実の娘アーニャの面倒も見ています。アーニャをラネーフスカヤのお迎えとしてパリに旅立たせるときには、道中、危険がないよう、家庭教師のシャルロッタを同行させますし、アーニャの帰国後は、トロフィーモフと「恋仲になりはしまいかと警戒して、毎日、朝から晩まで」「付きっきり」で見張っています。本来なら保護者であるラーネフスカヤが果たすべき役割を、アーニャと7歳しか違わない24歳のワーリャが務めているのです。

 一家の経済と子弟に目配りするワーリャは、ラネーフスカヤに代わって自己犠牲を払っているという点で、イエスのごとき存在です。ワーリャは尼寺にこもって、聖地巡りをしたいといっており、信心深い存在として描かれていますが、その行いにおいてもイエスに倣う存在なのです。

 5 農民出身のハムレットの復讐劇


 尼寺にこもりたいというワーリャは、ロパーヒンから「オフメーリア」と呼ばれ、「ささ尼寺へ……」といわれています。戯曲は、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』を下敷きにし、そのパロディとなっています。

 ロパーヒンは、口ではラネーフスカヤを慕っているといっていますが、その実、ラーネフスカヤのものだった桜の園を買い取ることで、農奴であった亡き父の復讐を遂げているといえます。ロパーヒンはその意味で、ハムレットのごとき存在です。

 王子であるハムレットは父を殺した張本人である叔父を殺しますが、農民出身のロパーヒンは父を搾取した張本人であるラネーフスカヤ一族の持ち物であった桜の園を買い取り、ラネーフスカヤに精神的なショックを与えるのです。愛するハムレットに父ポローニアスを殺されたオフィーリアは発狂しますが、周囲から相思相愛と噂されているロパーヒンに、養母の屋敷を奪われたワーリャは、鍵束を投げつけます。農民の娘ワーリャは、領主貴族の養女になったがために、農民出身のロパーヒンと敵対関係に陥るのです。戯曲は、農民出身のハムレットとオフィーリアの、すれ違いの恋を描いてもいるのです。

 『桜の園』は、ラネーフスカヤの側から見れば、贖い主がついに復活せずに終わる話といえますが、ロパーヒンの側から見ると、亡き父の復讐を果たす話へといえるのです。

Ⅲ チェーホフとキリスト教

アントン・チェーホフ(1860〜1904)

 沼野充義氏は、『チェーホフ―七分の絶望と三分の希望』(2016、講談社)で、あなたには「宗教や信仰そのものを主題に据えた作品はほとんどないと言ってよ」く、「例外的な作品といえるのが『主教』(1901年執筆、1902年発表)という短編だろう。」と述べています。  

 しかし、私はそうは思いません。『桜の園』では、時代の転換期において、没落していく領主貴族の姿を、イエスになぞらえ、批評的な距離を持って描いているではありませんか。

 沼野氏は、あなた「自身教会や信仰に対してかなり距離を置いた態度をとっていたことが知られている。」と書いておられますが、私はそうは思いません。

 あなたは、医師と作家を兼業しましたが、貧しい農民を無償で診察しました。また、32歳のときにモスクワ県メリホヴォに屋敷を買い、移り住んでいますが、36歳のときと、37歳のときに、近郊の村に私財を投じて小学校を建設しています。36歳のときには、郷里タガンログの市立図書館に多数の書籍を寄贈しています(沼野充義氏の前掲書の年譜)。

 誰もが医療や教育を受けられる訳ではなかった時代に、あなたは国家や地方自治体が担うべき役割を代わりに担おうとしたのです。

 国家に代わって、農民に無償で医療を提供し、寒村の子どもたちに教育の機会を与えようとしたあなたの姿は、全人類に代わって十字架にかかることで、アガペーを実践したイエスの姿と重なって来ます。あなたが理想としたのは、イエス・キリストであり、あなたはイエス・キリストに倣って生きた。私はそう思います。

 あなたと初めて出会ってから、30年以上が経ち、いつの間にか、あなたが亡くなった年齢を越えてしまいました。『桜の園』を初めて読んだときは、筋を追うので、精一杯でしたが、30年以上経っての読みは、どうだったでしょうか。あなたがヒゲをひねりながら、「昔よりはいいよ。けれど、私の作品も書簡も、もっともっと読み込んで欲しいなあ。」といっておられるような気がします。

 あなたは今頃天国で、ご自身の演出で、『桜の園』を上演しておられることでしょう。いつか拝見できる日が来ることを楽しみにしております。


(1)本文の引用は、神西清訳『桜の園』(1967、新潮社)によります。神西訳は、以下の青空文庫でも読むことができます。

(2)舞台写真は、モスクワ・マールイ劇場1993年日本公演のパンフレットに掲載されているものを使用しています。

(3)中原俊監督の映画『櫻の園』(1990)については、以下の記事で書いています。お読みいただけると、うれしいです。

 



 


  



 

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