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ことばを変えてみると心も変わる ~追記~

前回の記事では、「二面性」ということばを「多様性」ということばに変えて考えを巡らたことで、心の状態も変わったことをお伝えしました。


しかし、実は「多様性」ということばにも私は少し抵抗があったんです。マイノリティ、国籍、LGBTQ・・・私からは遠く存在する現実のように感じていて、そんな私が多様性について意見を述べる立場ではないと思っていたうえに、難しい話題だと捉えていたのです。

でもフラワー展でBさんが軽やかに「多様性」を口にした瞬間から、そんなに難しく考えなくても良いのでは、と思ったのです。

その後多様性について考えを巡らせていると、娘の高校時代の同級生のことを思い出しました。彼女はセーラー服を着たくないという理由から、セーター&スラックスを着用していました。私が初めて彼女を見たときは、一瞬驚きましたが、娘に話を聞いてみると、

「そうだね。○○ちゃん、セーラー服着てないね。女子が恋愛対象みたいだよ。」

とさらっと答えたのです。セーラー服を着ない理由を追及することなく、同級生のそのままを尊重しているようにも見て取れました。娘の周囲では多様性を認め合う社会が広がっているんだ、と実感したことを思い出しました。

現在娘は大学生となり、国際交流が日常茶飯事の日々を送っています。他国籍の文化や考え方を肌で感じ、その違いを認めたうえで良い刺激を受け取りながら楽しんでいる様子も伺えます。

難しい話題だと思い込んで、ことば自体に抵抗感を抱いていましたが、身近な人から話を聞くことで抵抗感が薄れるうえに、自分の身の回りの小さなことから考えを巡らせることもできるんです。

現に私の両親も身体障害者でした。私にとってそれは当たり前のことでした。障害を負った理由や治療の経過、また生活する上で悲しかったことや悔しかったことなど時々両親は話してくれましたが、幼い私はその事実をそのまま受け取っていました。

当時多様性ということばは耳にしたことはありませんでしたが、ある意味、多様性社会での暮らしを体験していました。「当たり前のこと」と受け止めていたからこそ、加えて受け止める受け止めないの考えすら浮かばないほど、私にとってはごく自然なことだったのです。

「ごく自然なこと」というこの感覚が、多様性社会の中で大切なことではないかと、あらためて感じます。


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