聖徳太子と空海ゆかりの乙訓寺。京都府長岡京市。リアルグーグルマップ。
京都府長岡京市は平安京遷都前に都が置かれていた時期があり、長岡天満宮という菅原道真ゆかりの神社もある。しかし、同じく古い歴史を持つのが乙訓寺である。公共機関で行くにはいささか行きづらいといった印象を受けるが、聖徳太子とも空海ともゆかりのある不思議な寺院である。
乙訓寺の歴史
乙訓寺は、長岡京市の北西に位置する。創建は寺伝によれば第33代推古天皇の勅願により、聖徳太子が開基したとなっている。しかし、聖徳太子によって開基されたという記録はない。
乙訓寺という名前が初めて記録に登場するのは、延暦4年(785)に「日本紀略」の造長岡京宮使藤原種継の暗殺に連座した早良親王が幽閉されたという記事によるもので、長岡京造営時には乙訓寺があったことがわかる。
さらには、現存する乙訓寺の境内から飛鳥時代から平安時代に至るまでの瓦が多く出土しているため、飛鳥時代にはあったものと考えられている。
空海と乙訓寺
弘仁2年(811)に空海は第52代嵯峨天皇より命を受けて乙訓寺の別当として1年間を務めた。天台密教の開祖である最澄が、空海に会うために乙訓寺に訪れ法論を交わしたという記録が、弘仁3年(812)10月27日付けの書簡として残っている。
空海の別当当時、境内に蜜柑の木があり、その実を「沙門空海言す。乙訓寺に数株の蜜柑の樹あり。例に依って交え摘んで取り来れり」という漢詩とともに天皇に奉納したことが空海の著である「遍照発揮性霊集」に記されている。
当時の寺の敷地は今の6倍の広さがあったと考えられている。本堂の裏に小学校があるのだが、小学校建設時の発掘調査により僧坊跡が見つかっており、空海が起居していたのではないかと考えられている。
乙訓郡と乙訓寺
長岡京市は元々乙訓郡という地域であり、古代よりそう呼ばれていた。郡名を冠にする寺院ということで、郡内で相当勢力のある豪族だった秦氏によって創建されたと見られている。当時、京都で勢力のあった豪族は渡来人の秦氏であり、秦氏は聖徳太子のパトロンであったことでも有名な豪族である。
広隆寺と乙訓寺
聖徳太子が創建したとして有名な寺院に太秦の広隆寺がある。実際には秦氏が創建して聖徳太子に寄進したもので、広隆寺には高麗尺という飛鳥時代から奈良時代にかけて使われていた尺度を用いて造られており、朝鮮半島の高句麗から入ってきたものと言われている。元々創建された乙訓寺も高麗尺によって設計されていたことは発掘調査によって明らかになっており、このことからも秦氏によって建立された可能性は高い。
松尾神社と乙訓寺
秦氏と関わりのある神社に嵐山にある松尾大社がある。延喜式神名帳の注釈書である特選神名牒によると、松尾大社と乙訓寺は祭神を同じ大山咋命としており、延暦3年(784)には土産神として賀茂下上の二社と松尾大社とともに従五位下に叙せられている。これは当時ただの地方寺院ではなく、国家が認めた寺院だったということである。
古代、松尾大社のある地域は葛野郡と呼ばれており、秦氏の拠点であった。広隆寺のある太秦も葛野郡である。葛野郡から分離したのが乙訓郡である。葛野郡を兄国(あにくに)とし、それに対して弟国(おとくに)としたことから「乙訓」の字が宛てられ乙訓郡となった。
これらのことから、乙訓寺と松尾大社は関係が深く、秦氏の支配下に置かれていた可能性は高い。こつまりは、聖徳太子が開基したという可能性は高いと言えるだろう。
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