人生とは-社会人としてスタート-

いよいよ社会人一年生。就職試験の時、担任が奨めてくれた二社を受験。どちらも無事合格したが、どちらを選ぶかは私次第。
丸の内にある商社のほうは給料が高かったが、ビル内は廊下を隔てて両側に扉、扉、扉と続き、人気もなく(通路だから当たり前だが)暗くて重苦しかった。室内では当然、みなしっかり働いていて活気もあるのだろうが、廊下を歩きながら「この空気に耐えられるだろうか」と緊張し、気持ちがしぼんでいくのを感じた。
 そしてもう一つは製造会社。こちらの初任給は商社より確か二千円ほど低い一万六千円。「さあ、どうする? (⌒∇⌒) 」
こちらはどこへ配属されるにしても広々とした敷地内の建物なので「空が見える。伸び伸びと呼吸ができる、、、」と想像するだけでも気持ちが明るくなった。
やはり、お金がすべてではないと思った。
確かに働き始めたら奨学金も返していかなくてはならないのでお金は大事。でも、贅沢しなければ十分やっていけるはずだし「分相応でよし」であった。
先生も両親も誰も反対せず受け止めてくれた。


 新入社員は全国で五千人とかで、私は自宅から一番近い工場で「エンジン課」へ配属され、庶務係となった。各課に女性が一人で毎朝お茶を入れるところから始まり、終了時にお茶を入れて終了。事務員の女性たちは余程のことがない限り定時で終了。エンジニアの男性たちは日々、設計図を書き技術を高めていく。当然のこととして残業残業の繰り返し。
 何も分からない私は、課長代理の机の前に座り、庶務係の仕事の内容を事細かに説明を受け、仕事の進め方等を学んだ。
幸い、近くの部署に同期生が何人かいて勇気づけられた。なにしろ女子高からいきなり男性ばかりのエンジン設計と実験を担当する部署なので緊張するばかりだったから、昼休みや休憩時間は緊張感から解放され笑いが絶えなかった。当時はミニスカートが流行り始めていて、膝下から膝上何センチと徐々に上がってスカート丈が短くなっていくのを楽しんでいる強者もいた。
敷地内には宇宙航空部もあってロケットの開発・生産拠点でもあったようだ。打ち上げ実験ではいつも?失敗していたようだが「すごいなー」と感心もした。
労働組合には青年部もあって、地方から出てきた人たちがホームシックに掛かって辞めていかないように休日にはラリーゲームや各工場対抗の体育祭(時にはバトンガールもみんなで練習し入場行進もした)やソフトボール大会なども盛んに行われた。女性は少ないこともあってどこでも引っ張りだこ。私はスポーツをやっていたこともあり、外部のセミナーに通わせられ昼休みなどでレクリーダーとしてフォークダンスなどをみんなで楽しんだこともあった。
正に、青春そのもの!

そうした中でも、技術を身につけ長く職につけるよう会社帰りにタイピスト学校へ通った。高校でも簿記検定を受けたり、和文タイプも学んでいたので、目標をもって行動することは自然の流れでもあった。
 
そして、簿記の学校を卒業すると庶務からタイピストとして働けないか相談した。すると社内にはないが特許や実用新案、意匠などを申請するための顧問弁理士が運営している特許事務所があると紹介してくれ、丸の内のオフィスビルに通うことになった。毎日活字を拾ってカシャン、カシャンと用紙に打ち付けていく。時には以前働いていた部署の課員の名前もあったりで、みんな頑張っていると思うと嬉しくなった。

そして、病気治療で長年入院療養中の長姉の見舞いにも通い、姉の病気が少しでも早くよくなるよう励まし続けた。
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   最近知ったことだが、弟も『給料が入るとお姉ちゃんに
   お金を届けに行っていたんだよ。だって姉さんもみんな
   そうしていたでしょ。だから真似してさ・・・」と。
   これにはびっくりするやら感動し、家族の絆の強さを感         じ、只々、感謝、感謝であった。
   kちゃん、ありがとうね。 (⌒∇⌒)
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特許事務所へは数年勤めたが、職場環境が私には合わず医者からストップがかかり一か月の療養となったが、復帰しても環境は変わらないわけで、数か月頑張ったが退職することになった。

この時に学んだことは、
先輩のタイピストさんの要望に応えようと一生懸命努力しても、要求に応えるとそれが気に入らなかったようで、更に要求内容が高くなり、必死に頑張るもクリアすると、辛く当たり、無視されるようになったこと。
先輩の要求通り出社時間は誰よりも早く、掃除を済ませお茶を入れることから始まり、タイプして書類完成までの所要時間も要求に沿って努力する。私は新米なので少しでも喜んでもらおうと努力するがそれが気に入らなかったようだった。要するに多少はできの悪い後輩のほうが、先輩にとっては気が楽ということ。仕事に対していうのはおかしいが「何事もほどほどに」ということか。

そして、結婚を理由に退職。
最初の頃は共働きで、不動産鑑定士の事務所でタイピストとして働かせてもらう。
そのうち自宅で仕事をしようと道具一式を買い近所の印刷屋さんの仕事を請け負った。

主婦業も私の性に合っていて、掃除、洗濯、買い物、調理その他なんでも楽しんだ。

そして、姉の病気が少しでも良くなるように、少しでも元気になれるようにとお札をいただきに成田山にも繰り返しお詣りに行った。当時は見舞いに行くことと祈ることしかなかった。

 そして、姉のことがきっかけでいろいろな世界が広がっていく。『私はやることがあるのだからいつまでもこんなところで寝かされているのは耐えられない。時間がもったいないのよ。』とはいつも姉が口にしていた言葉であった。そしてそれは何を指して言っているのか?具体的なことは聞いていないので分からないが少しずつ分かりかけてきているように感じる。
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    お姉ちゃん、ごめんね。そして、学ばせてくれてありがと      うね。(-人-)
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                                                                   ~~~つづく~~~

                                                     

         
私を生かし活かしてくださりありがとうございます。   
感謝、感謝です。   (ー人ー)


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