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こうありたいと願うだけで


上の文章を読んで思ったことを。

初めに言っておくが僕は彼女に会ったことがある。だから擁護のようなことになるのもやむを得ないのかもしれない。それは了承願いたい。
といっても会ったのはほんの3回くらいのもので会話した時間などは本当に合わせて数分といったところだろう。では何故深い関わりが無いのにも関わらず知ることになったのか。僕が彼女の人となりというのをよく知ることになったきっかけは専らTwitterやInstagramなどSNSが主な手段だ。
当時の僕はコンカフェ(コンセプトカフェ)に通い出してまだ、間も無かった。そして2〜3回行った程度のお店に(話してくれるキャストの子が優しかった)徐々に通いつつあった。そのお店に彼女はいた。そして僕が初めて彼女に会ったのは彼女がそのお店を卒業する日だ。ほぼろくに会話もしていない。卒業後は彼女はお店には所属せずフリーでゲストで出勤していた。もう前すぎて記憶が朧気なので間違っていたら申し訳ないけど、noteかTwitterでよく自分の目指す姿を綴っていた。なりたい姿ありたい姿をはっきりと明確に思い描くことは、ただ日々を薄ぼんやりと生きている僕とは違い非常に新鮮な姿だった。綴られている文章の濃度は濃く他のコンカフェキャストとは違っていた。さらけ出す姿はある意味夢を与える存在とは反対になるのかもしれないが、一人の人間としてはとても眩しかった。だがいつの間にか彼女は地元を離れてアカウントも消えていて別活動をしていて(こっそり見ていた)そんな子もいたなあと思ってから3年くらいが経ったころ、Twitterのアカウントを再び見つけゲスト出勤をすることを知った僕は彼女に会いに行くことにした。話したこともない相手に会いにいくのはとても勇気がいるが、それ以上にずっと彼女に興味があった。

僕は現実では手に入らない何かを求めてお店に行っている。有り体に言えば恋とか愛とかみたいな思春期みたいな想いもあれば、とても整ったお顔の女の子に会いたかったり話したり、非日常を感じたかったり、ストレスの発散であったり、一言ではとてもいえない様々ななにかだ。
特に愛やら恋やらは擬似で良いと思って通っていたはずが(客とキャストの繋がりは禁止されているが故)それがいつしかあわよくばの気持ちになってしまうことも。あまり好きな言い方ではないが、俗に言うガチ恋というやつだ。キャストに会えば会うほど人間的な魅力を知って惹かれていくことは、ままあることだと思う。好意を持つということはどうしても止められない。それでも好意は抱きながらも表に出さず(いや、出しているかもだけど)何もしない、具体的な行動に移さないのは自分の本能的なものを理性で抑えているにすぎない。
ふとしたときに思い出すのは辛かった一瞬を笑顔にしてくれた君のことだ。相手が何を求めているかを変えることはとても難しいけど、自分がどうありたいというスタンスを示しておくのはお互いのためにも大切なことなのかもしれない。それを受け入れられないが故の反発はあるかもしれないが、後から言われるよりずっとフェアな方法だと思う。僕は、みんなのことを画一的に好きだよとただ言う人よりも(それが悪いわけではないよ。)相手との距離感を1人1人考えて好きという子の方が好きだ。あくまでも平等に、等しく同じではなく差を付けて平等にしている君が好きだ。

多分、この先も僕は君に頻繁に会えるわけでもないし会えたとしても照れて上手く話せないし声も小さいし伝えられることも少ないだろうけれど、先日の死にたい気持ちのときに笑顔を見せてくれたことは僕を救ってくれたし、きっとこの先の人生で忘れられない一コマになったことは間違いない。

それは、変わらない事実だ。

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