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要望書への回答、言えなかった事

娘へのいじめ被害、不登校を受けて
中学校に要望書を突き付けたらどうなったか

唯一、教育委員会から来ている、えーっと、指導主事?のNさんだけはテキパキと明確に答えてくれて、この人が実際はどんな立ち位置かわからないけれど

多分、キーパーソンになる

と踏んで3学期中結構コンタクトを取ってた。

学校を通して。
学校にプレッシャーをかけつつ。

最初に子供に聞いたら
「何かわからんけど、先生たちがペコペコしてた」
って言ってたから(笑)

書いた要望書を教育委員会へNさんがきちんと届けてくれたおかげで、
本格的に教室の環境改善への動きも始まり
きちんとした対策、対応へと変わっていったようだった。

もう三学期も後半だったけどね。


教室は一番ひどい時は複数の教科で授業が成り立たなかったらしい。

すぐに騒がしくなる教室

1人(C君)はしょうがない

けど、その一人にノッてくる奴らがいる。

そして騒がしくなる子の対処に追われて・・・・

12月の学級懇談会でも、他のお母さま方は授業の遅れや成績を気にされていた。

担任や教科担当だけに任せず、色々試行錯誤はあったようだ。


改善が見えない中

いや、微々たるものだがあるような気がするといった中

私の要望書が飛び込んできた。

そういう状況なのではないだろうか。


要望書から1週間後、校長、教頭、Nさん、スクールカウンセラー

で、私

という話し合い・・・回答の場が設けられた。

そこで聞いたのは

今まで教科の時間は担当以外の教員も授業を見回っていた事

今後学級の時間のローテーション制を組む事

「2年生から教室へ戻る」という娘の言葉を待たず、きちんと、今の1年生の教室をなんとかする行動をしているし、引き続きする。
との事だった。

“2年生のクラス作り”の手厚さにはさすがに恐縮した。
少し、そこまでしなくてもと思う自分がいた。

ただ、この“2年生へ”の想いが私にもプレッシャーを与える。

2年生になって教室が離れたから終わり。でもなく、娘がきちんと教室へ行けるようになったとしても。

見守り続けると。


あの子達に関しては

まぁ、お察しだとは思う。

私も抽象的な
「その都度指導している」としか聞いてない。

学校からは
C君だけを目の敵にしているとどうも思われている様なんだけれど。
私はC君に対しては専門の人がみてるのならそれでいいと思っている。
知らんよ、そっちの子供の事情なんて。

実際問題視しているのはA、B君なんだよ。ノッてる奴らはその子達。

学校ではどうしようもないんだろうな。

という雰囲気が感じられた。

まぁ、あの感じの親だしな。


12月の時に言われたこと、絶対忘れんし許さんわ。


学校との話し合いは出来ても、回答を書面でもらえずに終わった。

まぁ、最初からそんな気はしていた。
端から期待などしていなかった。
私が個人的に一方的に出した要求に組織が応えてくれるなど、思っていない。

話し合いの場が作られただけでも、この中学校の誠意だと受け取っておこう。

そう思って終わろうとしていた。

次からは明るくなっていく、一旦の区切りが訪れるので、この話はここまで。

ライトに読みたい人は、本当にここまでにしといて、ブラウザバックでいいよ。























私には、この時点で学校に言えていない事があった。

この記事を読んでくれている人達にも、文字を書いている今ですら、どうしようか悩んでいる。

投稿する瞬間も、投稿した後も

書いて良かったのかどうかずっと不安の中にいると思う。



それでも、書くのは


誰かに知って欲しくて
私の不安と恐怖を吐き出したくて

良い感情も悪い感情も
私は書くことが自浄作用になっている人間だと思っている。

その代わり…代償とも言っていい位、文章に書くのにかなり感情を入れている。

中学校関連を書いている時は
長女に心配な顔をされ、末っ子くんには「お母さん大好き」と唐突に言われる。

だから、深く書くことから遠ざかっていた。

だから、もう、ここで
底まで行ってしまいたい。

巻き込んでごめんなさい








「2年生からなら教室へ行こうという気になる」
次女が言ったその言葉が、じわじわと私に恐怖を与えていた。








6月初め、次女を予防接種へ連れて行こうとした時に挙動がおかしい娘に気づき

彼女の両腕外側、肘から手首にかけてに多くの傷跡があるのを発見した。

怒りは生まれなかった。

ただただ悲しかった。


私にバレたことに酷く怯えている次女を見て
「誰にも言わないから」
と伝えてしまった。

本当に怯えていて

抱きしめることしかできなかった

因みに、もうやめてほしいって言ってしまった。
言うよ、なんの予備知識もない親は
ただ、したくなったら言いに来てほしいとは言ったけど。


聞くと、小学校の卒業頃から始まったらしい。

いじめが発覚した時に聞いたら、

そのいじめの苦しさが原因で

していたこともある、との返事だった。

ずっと、学校に言わなくちゃという気持ちはあった。

「この人に言って大丈夫なのか」

次女との誰にも言わないとの約束が

私をどんどん慎重にさせる

思い過ごしかもしれないけれど

夏頃の担任の先生は

私からの何かを待っていた雰囲気があった

信用しかかると、

「あの子達も・・・」との担任の言葉。

12月の事件が起こるまで

学校から何の案内もない私には

誰にも何にも繋がれなかった

娘の腕の事もあって

どこにも相談出来ずにいた。

この時は

夫にも言えないでいた。

家に帰ると何もないふりをして

仕事中

ふと

当時の無数の傷がある両腕と
彼女の怯えた様子が蘇り

涙をこらえていたりもした。

今もふと思い出すと

どうしてという悲しさと

何故気付かなかったのかという後悔が押し寄せる。


そしてふと、次女が言った「4月から」の恐怖におびえた。

もし、無理して4月から、なんて言っていたら?

無理した挙句、耐えられなくなったら?

またはじまるの?

それどころか・・・・


私が中学生の時に一番強かったかもしれないあの感覚。
希死念慮、というよりかは
「想像の範疇」・・・・創造、の範疇だと自分では思っているんだけれど。

教室から飛び降りたら・・・とか

今道路に出たら・・・とか

今、傷つけたら・・・とか

私は、結局しなかった。

痛いからだ。


次女は、その私のボーダーラインを越えていた。

私の理解の範疇を超えている。わからない。怖い。

次女に対する恐怖で「何が何でも学校へ行け」なんて言えなかった。

理解のある母親のふりをして、本当は娘の行動に怯えながら、ただ「なんでもないふり」をするしかなくて。

それでもすこしずつ、しなくなっているのなら。

と思ったけど

新生活へのプレッシャーがまた次女がしてしまう要因になるかもしれないのなら。

学校に言わなくちゃと思った。


要望書への回答の時に、スクールカウンセラーが臨席していたので、そこで話をする予定をつけて。

後日、なんとか話をした。

スクールカウンセラーの人との相性も良かったんだと思う。
(今年度、変わってしまったけど)

スクールカウンセラーから、学校へ言って欲しいと私はお願いをした。

この時はまだ、本当に考えるのも、言葉にするのもしんどかったので、同じ事を何回も言う気力がなかった。


娘の事とは別に、要望書の回答に納得のいかない事があったため

また別の日に校長、教頭と教育委員会のNさんと私で話をした。

その場で、改めて娘の事の確認が行われた。

あくまでも事実を確認していく会話に

私もあまり感情的になることなく

それでも泣いてしまう時はあったけど、

・・・・なんだろう。
こちらの『仕事モード』を引っ張り出されるような会話の展開だったように思う。
私も「説明しなくちゃいけない」という意識が強かったからかもしれない。

それが冷たく映る人もいるかもしれないけど

私は感情がぐちゃぐちゃにならずに済んだのでありがたかった。


ただ、次女の事を話した時に
スクールカウンセラーの方や、校長先生、Nさん、・・・・皆さんに労わって、心配してもらう度に
次女が怖いだけで、娘の為の行動をしている様には思えない自分がいる。
今もそう。

このあたりの時期で、やっと夫にも言えた。
「気を付けて見ていかんなんな」と言ってそれ以上夫はなにも言わない。

「娘には誰にも言わないと約束したままだから」とも伝えている。

どうして今まで言わなかったと責められると思っていたんだけれど。


みんな、みんな優しいのに

こんな優しくされる理由なんてないのに





ここからは

誰にも言ってない

最低な母親の自覚はあるし
子供達に恨まれてもおかしくない

一番下が1歳の頃、義父母と同居している家に義母の母親が越してきた。
今まで一人暮らしだったその義母の母親がいたその家に、私達5人は引っ越した。

初めての5人での生活

その頃夫はほぼ家事をしなかった。
子供の世話はしていた。
私が再びパートで働きだしたのにも関わらず、自分の親との同居生活とほぼかわらない夫。
私はその時に夫を見限りかけた。

夫は夫で仕事先の人間関係がかなりこじれていたのは記憶にある。

正確には覚えていないのだけれど
5人で生活して1〜2年たった辺りなのかな。もう少し経った頃?次女が小学3年生か4年生…あたり?

私はいつもイライラしていた。
怒鳴ることもしょっちゅうだった

何をどう生活していたのかわからない。

ただ、いつもイライラしていて

手だけはあげなかったけど

少しのきっかけで喚き散らしていたのは自覚している。

自分で止められなかった

幾度かの夫との衝突のあと

夫が家事を手伝いだして、仕事と生活のリズムもようやく落ち着いて
ようやくそれを自制することができた。

夫や長女、次女は、あの時期の事をなにも言わない。

私自身、だれに言える?
私も外ではいい顔していて
私は家では家族に当たり散らしていた

夫はこども園や学校のPTA関連に出ていていわゆる「イクメン」の部類だった。
長女の時にはこども園の保護者代表だったし次女の時も役員にいた。
授業参観で会う母親たちに
「良い旦那さんね〜」と言われているのが皮肉なのか誉め言葉なのかを考える余裕もなかった。

今は中学校の役員に入っているし、地域の活動の中に(ここは消極的ではあるけれども)入っている。

かといって外面だけが良いわけではなく、今から思うと「何でも言う前にやってくれる母親(旦那の実母)」に慣れていたんだと思う。

数ヶ月前からようやっと、私が仕事の日の子供達とのお昼ご飯を「自分がしなければ」と考え直し始めている。

当時は
帰ってきてしんどくても、私が動き出さないとご飯が出てこない空気。

子供の世話はするけれど、最後までしきらない。
あとは任せたが多い中、
「私がやった方が早い」が発動してしまって

私には出来なくて。

もっと優しい母親になりたかった。

娘が騒がしいのを嫌うのも
突然の声掛けにびっくりするのも
小学3年生の息子に、苛立った私を察知した瞬間に部屋へ行くのも
辛い事があっても何も言えず
ひとりで抱え込んで自分を傷つけたのも
私にばれて、あんなに怯えていたのも

わたしのせいだとしたら?

子供たちへの罪滅ぼしの感情で甘くなる自分も自覚している。怖くてやっているだけだ。

「優しい」と言われて

その言葉を拒絶してしまった

優しい人に慰めてほしかったのではなかったの?
と、後から皮肉屋の私が嘲笑っていた

『優しい』と言われて気付いたはず

自分が1番自分をゆるせない

私は、娘の異変に気付けなかった私を許せない


noteの場を捌け口にしている様で後ろめたい。

いじめの事に関してつぶやいたり記事を書きだした当初は読んでいる人の事なんて全く考えてなかった。

私はどこか、自分の人生ですら他人事みたいに思っている。

だからこんな風に簡単にさらけ出せるのかもしれない。


いや、簡単じゃなかったよ。

怖いよ。

今まで言えずにいて結果自分を正当化していた自分を出すのが怖い。


私自身が生み出す物語の中の子たちは大好きなのに

私自身が生み出す記事たちは大好きなのに

私自身の事は大嫌いだ

だから私の記事たちだけは好きでいて欲しい


ごめんなさい


まきこんでしまった


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