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能登半島地震、その時 〜経験者・避難先の地域として・爪痕〜

4月に入ってアスファルトの舗装工事が始まった。

現代のアスファルトは、綺麗に舗装され車の走行に負荷がかかる振動を感じる段差はほぼない。

ただ、雪国では冬の度にアスファルトの隙間に入った雪融け水が入り込み、凍り、アスファルトにヒビを作っていく。

だからアスファルトにヒビや穴があいたりするんだと思っている。

そんな路面状況が悪くなるのはいつもの事だと思うのだけれど。

まちのあちこちで見られるヒビと隆起は、主に暗渠の上のアスファルト、その次に隣が田んぼの道路のへりに多い。

交通量の多い橋へ続く道の端も、そこそこにヒビがあった。


2024年1月1日 能登半島地震

その内、16時10分の地震

能登地域程ではないものの、私の住む地域も相当な震度だった。

――

「今、少し揺れなかった?」

私が仕事から戻って一息ついていた所、中学生の娘が話しかけにこちらへ来たのが始まりだった。

「え?わからなかったけど…」

と“正月から地震かぁ”と呑気に思った瞬間、緊急地震速報が鳴り響いた。

私は素早くガスコックを閉め、
小学生と中学生は食卓のテーブルの下に潜り込む。

私も続けてテーブルの下へ入る。

夫まではテーブルへ入れなかったので、家の様子を確認しながら物が落ちてこない所へと移動していた。

高校生はバイト中だった。

小中学校での地震訓練のおかげで机の下にしっかり入っている事を感心する暇もなく、揺れがやってきた。



【私自身、中学1年生の時に阪神・淡路大震災にあっている。

実家は京都なのでそこまでじゃなかったが、揺れで飛び起きた事、その後の流れはハッキリと覚えている。

ガスコックは、いの一番で出た行動だった。】



今回の地震は身の危険を感じる程の揺れの大きさ。

そして長く、
ゆったりとした揺れに変わったものの終わる気配がなく、気持ち悪い揺れだった。

築年数はかなりあるものの、数年前に助成金を使って耐震工事をしていたのでそれが功を奏したのかもしれない。

家自体無事で、倒れる家具もなかった。

揺れへの恐怖。

家屋、周辺の無事。

それらを確認する間もなく、

津波警報がテレビから流れた。


正直に書くと、あまり良い行動は出来ていない。

震源地と自身がいる土地の位置を確認して、「そこまでじゃないかもしれない」と判断してしまったからだ。

震源地は能登の先端で、影響があるとすれば富山側ではないか、との素人考え。

私がいる所は福井寄りで、沿岸を考えると津波の影響はなさそうに感じた。

実際、私のいる市では津波の影響はなかった。

けれど当時は津波警報が出ていたのだ。

きちんと避難するべきだったのは言うまでもない。

高校生の娘がいるバイト先はきちんとマニュアルがあるし、何より建物が高い。

「とりあえず皆と移動して上の階にいるけどどうしたらいい?」
とのLINEに、
「店の指示に従って警報が解除されるまでそこにいる事」を説いた。

本音は、やっぱり合流したかった。

こういう時、愛情からくる判断を間違えてはいけないんだと痛感した。


日頃の訓練、意識が緊急時の行動に繋がる。

仕事でも聞いている言葉だけれど、本当に耳が痛い。

津波警報が出ても
「いや大丈夫だろう」と高を括る夫。

今いる家族全員で動きたい私。

何も話が進まない。

能登で地震が起こっても、同じ石川県とはいえこちらの地域は今まで大した震度にならなかった。
というのも言い訳として言っておこうと思う。

私も含め、意識が低い。


津波警報が解除された後、長女と無事合流出来た。

ここで新たに「今晩どこで寝るか」という問題が発生した。

家は全く無事なものの余震が不安なので、娘たちはより海抜の高い祖父母の家へ行きたい。

私は家族全員で行動したい。

夫は家に残る。


主に長女と夫の意見がぶつかる。


頑として譲らない夫を本気で張っ倒してやろうかと思った。

どうして子供に寄り添わないのか

どうして私の意見を聞くだけでもしてくれないのか



結局夫は家に残り、
私と子供達は祖父母(私からみると義父母)の家に泊まる事になった。

ずっと鳴り続くヘリの音が、能登の深刻さを伝えていた。

1月2日

店の復旧作業の為に出勤した。

もちろん、家庭状況で休む事を選んだ人もいる。私は自分で出勤を選んだだけに過ぎない。

家は無事だったからこそ、その売り場の惨状に固まった。

棚の列は乱れていて元々のラインがわからない程。棚に置いてあった什器は落ち、商品が散乱している。

さらに、
津波警報が出て店内が避難場所になっていたため、毛布やカイロ等の“元は店の商品”だった配布物が散乱。
拡声器、ヘルメットも置いてある状況。

他の売場を見回すと、“地震の被害”というものの実際の姿をまざまざと感じた。

(小売店は緊急時の対応として店が自店の商品を配る事を“心掛けている”。ただ、必ずしなければならないものではない事だけはお伝えしておく。店によるし、しない店を責めないで欲しい。

当時の混乱状況が生々しく残っている。

その証拠写真を撮る所から、売場の復旧作業は始まった。

売場の復旧作業については詳しくは書かない。


営業を再開して、日常が戻って来て……


能登からの避難者の受け入れに伴う、商品購入。

避難してきたお客さんから聞いた話。

私の周りの人の親戚の話。

色々な震災の爪痕を感じながら過ごす日常。


店の換気口のカバーはまだ外れたまま。


駐車場や道路には、こんなに酷かったか?というヒビや段差。


かと言って能登の復旧の方が大切。

あの水族館に何回か足を運んだ時の、大切な写真がいっぱい残っている。


4月に入りアスファルトの修復作業が各所で始まり、

“日常”を取り戻すための小さな復旧作業が始まった。



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