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「元気を出しなさい。今日の失敗ではなく、明日訪れるかもしれない成功について考えるのです」ヘレン・ケラー(障害者権利の擁護者・作家・講演家)

ヘレン・ケラーと聞けば、何をした人だと
思うだろうか? 
詳しく知る人は少ないだろうと思う。
彼女は障害者の権利の擁護者として生きた。
35ヵ国へ行き、視覚障害者を支持する旅をした。

彼女が生後19か月時に、
病気が原因で視力と聴力を失った。
当然、可哀そうに思う人も多いだろう、
私もその一人である。
しかし、彼女は我々が思うよりも強かった。

視覚と聴力を失った彼女は、ホームサインを使って
主に意思疎通を行っていた。
聴力が無いだけなら手話で事は済むが、視覚も聴力も
無い場合、聞き覚えはあまり無いかと思うが、
ホームサインを使って多少のやり取りは可能だ。

ホームサインとは、孤立している聴覚障害者が、
極めて身近な人とコミュニケーションする時に
使用する「身振り手振り」の事である。

ホームサインの場合は、手話と違い、文法が無い。
単語数も50程度しかないと言われている。
更に問題となるのが、使用者固有のホームサインを
知らない場合、同じ聴覚障害者でも全く通じない
ものであるが、コミュニケーションを取るには
これしか方法が無い。

それは現代に於いても変わる事は無い。

残酷ではあるが、難病と同じで製薬会社も
薬や何かしらの音声機械などが作られる事は無い。
製薬会社も1会社の1つであって、当然、病人が
沢山いないと薬の開発はしないのは昔からだ。

それだけ新薬の開発にはお金がかかるのだ。
だいたい1つの薬を開発するまでの金額は
数十億円だと言われている。

患者が少なければ元が取れないので、
非情な事ではあるが仕方のない事でもある。

ジャッキー・チェンの後釜と言われた
ジェット・リーも奇病の1つである老人病に
かかり、ハリウッドから姿を消したが、
最後の作品はまだ公開されてないが、
それを最後の作品とするらしい。

老人病とは呼んだ如くそのままの奇病だ。
年齢が若くても、老人のように年老いて
しまう。

ヘレン・ケラーの凄い所は作家としても
活躍した事にある。それはある女性との
出会いから始まった。
彼女が7歳の時に、初めての教師で
生涯にわたる友人となったアン・サリヴァン
との出会いだった。

サリヴァンはケラーに言葉や読み書きを教えた。
盲学校と聾学校ろうがっこう
そして普通学校で教育を受けた後、ケラーは
ハーバード大学のラドクリフ・カレッジに入り、
バチェラー・オブ・アーツの学位を取得した。

上記の言葉を勘単に説明する。
まず聾学校とは補聴器等を使用しても、
会話をする事が難しいとされる人が通う学校である。
ラドクリフ・カレッジは女子大学で、
ハーバード大学とは提携関係にあった。

バチェラー・オブ・アーツは教養学士の事を
指しており、教養学士とは国際関係、地域文化、
学際的、国際的観点から、幅広い教養を持った人物の
養成を目指した学士であった。当時は学位の中の1つ
と称されていた為、学士しか無かった。
現在は学位となったが、分野も増え、学士も
まだ存在する。

ここまで読めば、だいたいの人はヘレン・ケラーへの
理解は深まったと思う。
因みにバチェラー・オブ・アーツを、
盲ろう者でありながら取得したのはヘレン・ケラーが
初めてだった。

彼女はその後、本も出し、講演、演説、エッセイ等
等多才な才能を発揮していき、特に障害者に対する
問題に取り組んだ。

その点を見ればリンカーンと被るものもあるが、
視力だけでなく、聴力も無い彼女は時代背景からも
察する事はできるが、特に女性の味方的立場で
色々な運動に参加した。

そういう視線から見れば、当時の女性への偏見や
体罰に近い事などが改めて見えて来る。
それはいつの時代でもある事ではあるが、
残念ながら今でも多く存在する。

最近になってそれらが多数発覚し始めたが、
まだまだいる事だけは確かだろう。

彼女の生き様は、障害を持っていたとは
思えないほど多くの功績を生んだ。

よく色々な人がエッセイ的に書いてはいるが、
彼女は87歳まで生きていた。
1968年まで実在していた。

その間に、女性参政権等の問題、労働者の権利、
世界平和にまで及んだが、彼女の思う世界平和と
我々が思う世界平和は、別物である事も思慮して
欲しい。

言葉は同じでも立場が違うだけで、内容は全く
違ってくる事は多々あることだ。

これはあくまでも彼女を否定する訳では無く、
事実関係を言っているだけだ。

その辺りは誤解を招きやすいので、自分でも
気を付けてはいるが、一応書いておきます。


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