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お金の魔力に負けるな

多くの偉人たちは、お金よりも自分の道を
進むことを選んでいた。

私自身が理論として言っている体験無くして
事は語れないというものには反する言葉になるが、
私は現実にお金に負けて行く人たちを見てきた。

その人たちが幸せであるかと尋ねられたら、
答えは「YES」になるだろう。

しかし、その答えになるには理由がある。

ある偉人が言っていた。
「個人で組織や国には勝つことは出来ない」

スノーデンは例外として見て欲しい。
彼は成功した人に過ぎないだけであって、
確実に、それまで同じように挑戦して殺された
人たちは大勢いただろう。

しかし、タイプは違ったはずだ。
彼の場合は頭脳と運での勝利と言える。

それまで挑戦した人たちは、恐らくではあるが、
力で挑戦したから殺されたと思っている。

「個人で組織や国には勝つことは出来ない」

この言葉の通り、普通は勝てない。
私には普通が分からないが、絶対に間違い
だと思ったことはある。

それはある時、従妹に「何故結婚しないのか?」
と問われたときに、私の母親に言われてきたのだと
思った。

母は常に人を使う。自分で動く事は無い。
汚い仕事も人にお金でやらせるだけであって、
自分ですることは無い。

私は小学生の時に、うちで雇っていた運転手さん兼
休日などの時の世話係として雇われていた人がいた。

母は私を探るために、その人に探るよう命令した。

その運転手さんは良い人で、その時の事は今も鮮明に
覚えている。
珍しく困った顏をしていて、打ち明けてくれた。

「実は〇〇〇を探るように言われたけど、そんな真似は
できないから言うけど、絶対にお母さんには言わないでね」

私は分かったと言って、言わなかった。

しかし、その人はクビにされた。
私は大人になってから言われたが、子供の頃からそんな
事を考えた事も無いと言われたが、現実はそうであった。

私は小学生低学年の頃から、最初は母から始まり、
人間という生き物に対して、体験から色々な事を
考えるようになっていった。

母は非情であり、異常なまでに人間不信である。
嘘つきの典型的タイプと言える。
そう、嘘つきの中でもタイプは色々いるのだが、
一番厄介なタイプが母のタイプと言える。

自分が嘘をつくため、人が真実を言ったとしても
それが自分的には嘘をつく内容であった場合、
真実であるのに対して、それを嘘だと思い込む。

その運転手さんがクビになった理由は、
私と仲の良い運転手でありながら、何も探れない
訳が無いと勝手に思い込み、運転手さんは嘘つき
だから信用できないという理由から、クビにした。

この際、自分が嘘つきだということを認めない。
それは年々人間不信が激しいものとなっていき、
自分が怪しいと思う人とは縁を切っていく。

父が生きていた頃はそれが通用した。
お金と権力には弱い人が多いからだ。

しかし、父は死に、その力を失った。
だが、嘘つきであることには変わりない。

そして母のように頭も悪く嘘つきの場合は、
自分でついた嘘さえも忘れてしまう癖がある。

その場しのぎでついた嘘であるため、自分で
言っておきながら、それを聞き直すと、そんな事
言ってないという。

私は真実を語るため、母は私と祖母を面会謝絶にした。
8年間も会えないまま時間だけが過ぎて行き、
母は常に自分が撒いた厄介事の処理など出来ないため、
父をも使う。

祖母と会って欲しいと父は言って来た。
その時、私が聞かされた理由は、もう危ないから会って
欲しいと言われた。

当然ながら、私は「お前らの都合で8年間もの間、面会謝絶
にしたのを知ってんのか? 今更会ってくれだと? ふざける
のもいい加減にしろ。馬鹿どもが!」

そういうと黙って今度は弟に呼びかけていたが、
弟も重度の精神障害者であったので、何度か呼びかけたが、
完全に無視していた。

嫌な事を人に押し付けて、如何にも自分は正しいように見せる
どうしようもないヤツが父母だった。

しかし、私は祖母が合いたいと言ってるのであれば、
父母はどうしようもない奴等だとしても、祖母への恩はあった
ので、会うことにした。

私が行った頃には、従妹や親族で大きな個室部屋は埋まっていた。

私は8年ぶりに会った祖母の変貌ぶりに、腐った親族の奴等には
見せたくない涙が止めどなく流れた。
心の底から哀しみによる涙だったが、母は私の従妹に小声で話して
るつもりなのかと思うほど、丸聞こえで、こう言っていた。

「泣いたのは、〇〇ちゃんとあの子だけよ。優しい子よねぇ」

心から腐り果てていると感じた。すぐにでも本気で顏の骨が砕ける
程までに殴りたい衝動に駆られたが、祖母の手前、我慢した。

帰りの車の中で、私は呆れ果てて外を眺めていた。

母はこう言って来た。
「御ばあちゃまも、皆の顏を見てまだ生きたいと思ったようで、
治療することに決めたそうよ」

確かにそう言った。

しかし、それから2時間後くらいに祖母は亡くなった。
祖母が死んだと同時に、従妹から一族までもが、祖母の家を
荒らしまくった。

実に情けなく、そして滑稽に見えた。

従妹の数は15名ほどいるのに対して、葬儀屋で最後の付き添い
をしたのは私だけだった。
私は祖母に可愛がってもらった。私だけではないが、恩返しも
出来ないまま、この世を去った祖母に対して、それくらいは
しなければと思った。

そして家に帰り、私は母に尋ねた。
「皆の顏を見て治療を始めたのに手遅れだったのか?」

母は全く知らない顏を見せた。
「そんな事言ってない」そう言った。

私は祖母のために行ったのに、帰りの車の中で何故そんな
無意味な嘘をつくのかと思った。
そう、嘘つきがもう日常になっていて、自分で言った事の
どれが本当かさえも分からなくなっていた。

話は戻るが、私に「何故結婚しないのか?」と尋ねられ、
逆に私は「何故結婚したのか?」と尋ねた事があった。

従妹が言った言葉は、「老後の面倒を見てもらうため」
だと答えた。
従妹たちは確かに良い大学を出て、良い職にもついている。
しかしそれはただの仮面でしかない。

私は二度目の人生を始める以前の、一度目の時から思っていた。

誰にも面倒をかけたくないと。時が来て、死ぬと分かった時には
これまで特別にお世話になった人たちに会って最後にしようと、
それは今でも常々思っている。

誰かの手を借りないと、生きて行けないのであれば、
自分で人生の幕は下ろすと決めている。

時代は今、変わり目の時である。
コロナやバクテリアとかでは無い、本当の時代の節目に入ろうと
している。

歌舞伎町では毎日のように女が立つ。アプリではぼったくり店に
男を連れて行き、ぼったくっている。

私は思う。騙す方も欲深く、騙さる方も欲深いからこそ問題になる。
騙された方が如何にも、自分は正しいかのように文句を言っているが、
性欲に勝てずに負けただけだろ? と私は言いたい。

どっちも私からすれば信用も出来ないし、友人には選びたくない
連中ばかりだと思っている。

お金を人に貸す時には、戻らないと割り切るべきである。

春秋時代にもこのような話があった。

あの時代では情報は何よりも大事にされていた。
そしてある日、お金を貸している村に行って、利子や元金の回収を
食客という、何かの時に助けとなる人たちを総称して
食客と呼ばれていた。

その中の一人に回収依頼をした。
その食客は、まずお金を貸している全員を集めるために、
酒と肉を用意して、集めた。

それから一人ずつ、返済可能かどうかを見定めて行った。
そして全ての人との話が終わり、利息さえも払えない
状態の者たちには、借金は帳消しとして、利息を払えた者たちは、
これまで通り利息や元金を払うよう伝えた。

この話を聞いた食客の主は、何故そんな真似をしたのか? と
問いただした。

男はこう答えた。
「利息も払えないようでは、借金を払えと追及すれば、一家心中や
夜逃げをして、あなた様の名声は地に落ちるでしょう。そして、
いずれは生活が困難になり、あなた様を恨む事になります。
私はお金を返せる者には返すように言い、利息さえも返せない者には
あなた様の義を伝えてきました。人々はあなた様に感謝をし、
よい噂が流れることによって、更にその名を高めるためにしました。
私がしたことは間違いでしょうか?」

主はこの食客の言葉を聞き、頭を下げて御礼を述べました。

このように、色々な偉人たちは大勢いました。
我々の知識のほとんどは過去から伝えられてきたものです。

それは人間とはこうあるべきだと、今でも尚、話されている
哲学の世界で続いています。

本物を見定めるには、まずは余計な欲を捨て、
今、可能である小さな事でもいいので、貯金などを
日常として、コツコツでも貯めれば、心に安心が
生まれ、欲深くならないようになれば、
お金にまつわる災いから逃れて、人生を進む事が
出来るはずです。

お金はあっても消えるものです。
人の世話になって嫌な顔をされるような
人生を望むのであれば、今のネットでのお金儲けの
話など見たりするべきであって、何かしらの行動を
しなければ、お金も信用も友人も増えずに
年齢だけ重ねていくことになります。

ただ単にお金が欲しいといったものであれば、
あくまでも私的な意見になりますが、
そこから生まれるものは、日々の食事だけであって
それは幸せからほど遠いものになります。

一番良いのは、趣味を持つ事です。
仮に多少お金がかかるとしても1つの趣味を
追及していけば、必ずそれを行う時には
幸せを感じます。

お金稼ぎが趣味であれば、私から言う事は
何もありません。

ただ1つ言えるのは、お金は必ず無くなります。
今は多少、緩和されましたが、一昔前までは相続税
によって3代までしかどんなお金持ちも続かないと
言われてきました。

そして、今、現在、ある程度裕福な人は、大抵の場合、
株を購入して、1年に確か4回、最低でも3回支払われる
配当金によって暮らしています。

配当金は株の額によって変わりますが、あくまでも
利益からのものであるので、株が減ることも増える事も
ありませんが、必ず貰えるので、特に高齢者の方々は
この配当金で生計を立てている人も少なくないです。

欲に取りつかれたら、盲目になります。

私の曾祖父の頃は、お金があり過ぎて今となっては
わかりませんが、祖父の時でさえ、家にある現金だけで
約8千億円は最低ありました。

父の代でもお金はありましたが、お金があったが故に、
問題も多くありました。友人は生涯を通して1人だけで、
銀行にも行った事は無かったので、キャッシュカードの
存在さえ知りませんでした。

「銀行は来るのが普通だ」と言っていました。
私が幼い頃は確かに銀行さんがよく来てました。

父の人生ははっきり言って、実に情けないものでした。
お金で全てを片付けるという思想から抜け出せずに
いたので、平然と私に弟を殺す話を持ち掛けてきました。

平然と自然にそんな事を言ってしまうほどまで、
毒されていました。
お金はあくまでも目的を達成するための対価として、
必要以上に持ったとしても、近づいてくるのはお金目当ての
人ばかりであって、人間不信を招きます。

幸せとは何かを考えてみるのもいいと思います。
それこそが自分の求めるものであるので、
その為ならば貯金も頷けます。

何事に於いても行き過ぎは、ろくな結果を生み出しません。
愛であれ、行き過ぎたら、愛が離れていきます。
より良い人生だったと、最期の時に言えるようにするために、
私は今を生きています。




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