【超短編小説】 お早めにお飲みください
喫茶店に入る。
カラン、コロンという音が店内に鳴り響いた。
マスターは私を一瞥するとテーブル席へ案内した。
「いつもの」
私は珈琲を注文する。
マスターが豆を挽いている間、ケトルがぐつぐつと音を立て、湯気が広がった。
「お待ちどおさま」
マスターが珈琲を差し出した。
砂糖もミルクも入っていない漆黒。
ひと口飲めば、深いコクと香りが口の中に広がる。
ようやく、ひと息つく。
店内は照明が暗く、クラシックが流れていた。
私は何とも言えぬこの店の空気感に酔いしれた。
ところが、右斜めに座る女性客はパソコンを凝視し、苛立った表情をしている。
マスターは空かさず、その女性客に歩み寄り、
「こちら、サービスでございます」と珈琲をカップに注いだ。
女性客は「ありがとう」と口では言いながらも珈琲に手を付けずにいた。
マスターは「珈琲が冷めてしまいますので、お早めにお飲みください」と告げ、一礼をすると再びカウンターに戻った。
女性はパソコンから目を離すと、珈琲をゆっくりと飲んだ。
すると、女性の表情がわずかに緩んだのが分かった。
「マスター、ありがとう。少し気持ちが落ち着いたわ」とその女性はニッコリとした。
私が会計を済ませる頃には、先程の女性客に笑顔が戻っていた。
私はその様子を見ながら思ったのである。
「なるほど。私がここに来たくなる理由がまた一つ増えたな」と(完)