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震災でもウイルスでも死ななかった(地史的時間からは結局影響があるのかも知れぬが)人類種…

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震災でもウイルスでも死ななかった(地史的時間からは結局影響があるのかも知れぬが)人類種が自殺的に滅びてしまう(やはり災害や病に対する不得手も同じことなのかも知れないが)ように見えたとき、そもそも人類とはなんだったのか。

最近の記事

廣松渉 東北アジアが歴史の主役に 日中を軸に「東亜」の新体制を 再掲

https://sasaki.hatenablog.com/entry/20100417   この東大哲学科のマルクス主義哲学者で新左翼雑誌「状況」の創刊者であり、南京大学に名を冠した研究室があるという廣松渉が死(94年5月22日)の2ヶ月ほど前(3月16日付)に朝日新聞に載せた30年前のエッセイは、当時自民党政権の交替劇(細川連立政権)や未だ日本経済が世界2位だった頃の余韻もあってかこれぐらいは最大公約数であろうというキャッチフレーズを並べて勢いよく願望を述べているという体

    • 雲をも摑むような話

      もう四半世紀追っていた話なのだが忘れてしまっていた。常に目の前に突きつけられ問われている筈であり、知っていたあるいは読み続けていたテーマであった筈であるにも関わらず、手がかりもなく進展もしなかったのは、一体どういうわけだろうか。手がかりはどこにもなかった。今も有るとは思えない。過去の負債が多すぎて「そういう問い」を立てること自体禁止し抑圧し否定・排除に至った。そして同じような経路をたどって墜落していった人たちを見てきた。何のことを言ってるかといえば「言葉と物」のフーコーのいう

      • シリウスの都 飛鳥 栗本慎一郎2005年10月

        彼が著作でパレスチナの話をくりかえししていた事を思い出し、歴史を再確認するために参照した後期栗本慎一郎のこの本をふりかえるに今思えばこの書が何の反響も呼ばずに20年弱経った今、その理由を結果論的に見ると根本的に何を言いたかったのがわからなくなっていることが挙げられる。タイトルも不正確であって、栗本が言うシリウス方向の建造物の傾斜が蘇我氏由来のものに見られるという話であって、飛鳥の都=シリウス方向を向いているというわけではない。そして太郎坊山を中心とする太陽信仰ネットワークに対

        • 無為より過ちを選ぶ人間

          死が無意味あるいは無秩序だとすれば、生は意味あるいは秩序と言えるだろうか。死が偶然なら生は必然だろうか。仮象としては生は偶然として、死は必然としてあらわれ、よって人は殺すのではないだろうか。死を必然としてもたらそうという試みは、神の王国を必然としてもたらそうという試みに似ている。

        廣松渉 東北アジアが歴史の主役に 日中を軸に「東亜」の新体制を 再掲

          事象の因果系列1

           東日本大震災をめぐる原発事故、コロナをめぐる対応、さらにパレスチナにおける虐殺について、それぞれ世界史的に対応は続いているのだろうが、それを放射能を見ない、ウイルスを見ない、虐殺を見ないことにおいて同質とみなせるかといえば実際そんなふうに一直線にはなっておらずバラバラのようでもあり、多くは事件事象には関心なくゲームとアニメに熱中し時折り創作にこうした主題が放り込まれて消費しているだけのようにもみえる。しかし無意識というものを立てるならば日々に追われながらを何かを人々は感じて

          事象の因果系列1

          社会はトートロジー工場であり、トートロジーは生存に必要であり、創発は相変わらず暗黙知である件

          能力、成功、創造性。どれも見えないものであり、既存の見えるものから生み出されるもの。見えるものである記号であらわすには0→1とあらわすしかない。しかし既存の1から0へは消失になるが、既存のものからは見えない0は無限なのか無なのかは既存の1=有(限)からはわからない。既存の見えるものでなければ伝達可能とはならない。記号=社会化するには既存のものでなければならない。性差は0と1のバリエーション、有る/無いの当てはめの応用。ここを言語の特性をめぐるあらゆる蒙昧の根源と考えて、見えな

          社会はトートロジー工場であり、トートロジーは生存に必要であり、創発は相変わらず暗黙知である件

          起承転結と物語

          起承転結は漢詩からきていて根拠がないのに作文で指導されたりするという。根拠薄弱なので意味がないという。しかし同じような構成は神話の類型などでもいわれることがあり、それも類型を集めただけでなぜそうなのかは根拠がないから意味がないことになる。だから神話や物語などといってもその構成の抽出に客観性があるわけではなく、単にお話とか言説といってもかまわず、言葉の束としか規定のしようがないことになる。起承転結に意味があるという共同幻想の強制が自分の身の回りのことを記述して起承転結に構成する

          起承転結と物語

          無限の組入れ

          わかることとわからないこと、あるいはわかると思っていることとわからないと思っていること、見えないものと見えないもの、知っていることと知らないこと、これら無限と有限のバリエーションについて吉本隆明の含意には無限遠点の設定による無限のくりこみがある。それは非知の視点とほぼパラレルである。有限でしかありえない人間の決定など、無限の視点からは非知に相対化される。それは知識人と大衆の循環ゲームであるかのようにあらわれるが、そこでは無限は知/非知、意志/非意志、生死までもが有限の外部、無

          無限の組入れ

          性差は問題か

          上野千鶴子のレトリックが判明になるにつれてそもそも性差は問題なのかという疑念が湧いてくる。学者世界を離れて欲望の問題になるのかもしれないが、結局実際の事象の評価は恣意的にしかならず、語るとか論とかいうことの意味がない世界にみえ、一方でただ事象の記述が無意味に積み重ねられてゆく。本を読むこと自体が悪いことだという風潮があるらしいが、知識人の誘いは単なる本を手に取ったことの虚しさや失望をもたらす。知識に対する批判はニーチェを待たずとも久しい。ブルデューがマルクス主義に回帰したのは

          性差は問題か

          「家父長制と資本制・マルクス主義フェミニズムの地平」読書メモ

          資本制に性別役割は規定され資本制によって創出されまた破棄されるとすると、いかような形であろうと資本制は存続し逆に生物学的実体かに見えた性差が相対的なものに見えてくる。とするとマルクス主義という言葉自体は宙に浮いてしまう。もともとマルクスは資本制の瓦解を言っただけでそれが実現していないだけなのだが、そうなるとあらゆる分析や施策はただ資本制の柔軟性を示すだけのものとなる。これはあらかじめわかっていたことでありよって当時この書がさしてインパクトなく私に感じられたのであろう。ここでい

          「家父長制と資本制・マルクス主義フェミニズムの地平」読書メモ

          コロナの意味

          コロナの意味について増えすぎた生物を減らすためという意見を聞いたが、そもそも生命に意味はない(人間にはわからないのでとりあえず保存/保持している)ので増え過ぎも絶滅も基準はないのでそのような地球の生態系に特化した平衡化が因果関係として存するとは思えない(証明されない)。人類において真理はすべて先送りされている。宗教的道徳がないと人類は生きられないとカントはしたがそれが真実だと言っているわけではない。ここで無限に開かれた真理と(無限とはそもそも何か)有限な操作可能性の実体化した

          コロナの意味

          プロティスタンティズムと資本主義の精神

          ウェーバーを流し読みして社会学的視点に関心をもってブルデューの評判の悪い訳文にとりついたが(25年前だからしようがないといえばそうだろうが)主著がこれなのでしょうがない。 ウエーバーのプロティスタンティズムと資本主義の精神は確かに「面白かった」しかし内容は複雑怪奇で、これが「精神」といえるようなものはない。だから社会学の権利を眺めようと地上最強の悪訳の「実践感覚」を覽た訳だが、人類学、社会学、経済学の仕分けをして客観性のポジションを保持しようとしてはいるものの社会現象学=主

          プロティスタンティズムと資本主義の精神

          繰り返す西欧の終わり

          常に気になるのは反省のための語彙である近代化、植民地化、西洋化という言葉が「西洋」のものだということだ。同じループの中にとらえられて永遠の格差の中にいる。世界は何で構成されているか?言葉の連なりの寄せ集めか?その集合が迷路、ピラミッド、その他の型を構成してそのかたちを世界と呼ぶのか?十全な世界は現実を反映する余地があり、言語内で完結する世界を幻想と呼ぶのか。西欧の言語、非西欧の言語、日本の言語。民族国家語は産業経済の成立と同時で科学は西欧の理念でいつまでも追いつけない何かなの

          繰り返す西欧の終わり

          場所の慣性

          慣性は惰性ではない。重力だけでは何も動かない。慣性は宇宙全体を要請するがそれは部分全体を意味するのではない。つまり全体主義と言われるような誇大妄想を意味するのではない。要するに私は重力の領域にではなく慣性に普遍性が有ると言いたいのだ。慣性質量を巡る議論は曖昧である。比喩として使われて実体として定着するに至っていない。観測や物理法則、時空、物質などの規定の概念の穴を問うシニフィアンとして使うならばそのような位置づけは当然なのだが、

          ミシェル・フーコー

          転回点としての戦争権力論 2010年3月30日 これまで五年にわたって精神鑑定に関する一連の研究、ディシプリン権力について考察を加えてきたフーコーが、この時点から戦争と権力、主権の理論、人種闘争から歴史主義を経由してバイオパワーの問題提起に至る。著作的には『監視と処罰ー監獄の誕生』から『性の歴史1巻知の意志』の間の時期にあたり、規律権力から生政治への過渡期としてこの講義はある。 新しい権力論をつくる、と冒頭で語られる。主権と抑圧の権力論からクラウゼッツを逆転させた『政治と

          ミシェル・フーコー

          ポール・ド・マン

          テクスト批評と現実 2016年6月26日 リルケ、プルースト、ニーチェ、が第一部、ルソーが第二部で、半分以上をルソー論が占めている。ド・マンは晩年イデオロギーの問題から政治を取り扱おうとしていて、ルソーを通じてそのための道具を手に入れたようにいっているから、盲目と洞察のデリダのルソー論批判とこのルソー論がその蝶番であるとみなせるだろうか。ド・マンは修辞性(隠喩)と字義性(換喩)という二つの軸をたてている。「われわれは読むことによってテクストの内部に入り込み理解するが、こうし

          ポール・ド・マン