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【マインド】バッジをつけたら何でも許されると思うなよ。

先生たちは3月が一番忙しい。
とにかく死にそうなくらいの山積した仕事の山。
こう言っちゃ何だけど、ここだけの話、人によって仕事の量が違うように見えてしまうのは、なぜ?
本来はこういう思考に陥らないように気をつけているんだけど、時季的なものなのか、なんかダメ。

お気楽に有給取って同僚とランチ、早めに退勤して家族サービス。
うん、悪くないよ。
でも、そんなことしたら別の日にしわ寄せが来て自分の首が締まる…と、他所を横目に目の前のことを「処理」していっている感じが、どうにもこうにも自己嫌悪。
ま、量とかつべこべ言う前に、そもそも仕事をうまく捌けない自分が悪いのだけど。

絶賛やさぐれ中。



それに便乗して。
やさぐれついでに思っていたことを吐露する。
眠りが浅くて早く起きちゃったから、吐き出してみる。

「SDGsのバッジ」について。

SDGsと言ったら今でこそメディアでバンバン流していることだから、子どもだって知ってること。
私が最初にSDGsを知ったのは本当に初期の頃で、某大手教育プラットフォームのとあるセミナー資料で見かけたことがきっかけである。
自分なりに勉強して、まだ校内で誰もやってなかった時期に、SDGsをテーマにした授業をやってみたのは遠い思い出。

ところで私は校外との関わりが割とあるポジションのため、学校関係者じゃない方や行政の方との接点が割と多い私。
お会いする人の中で、たまに見かける胸元のSDGsのバッジ。

その頃の私は、SDGsのバッジが胸元についているのを見ると、その人が神格化して見えた。
それをつけているなんて、それを認められた人なんだと、羨望の眼差しをつい向けてしまって。
ちょっと違うけど、初登院する新人国会議員がバッジをつけるシーンとかをテレビで見たことがあって、そういう感覚だった。
あとは、弁護士さんのそれとかね。

でも、徐々に違和感を覚えるようになって。

こんな記事を読んだ。↓

そうか、私は勘違いをしていたのか。
このバッジは認められた人の称号ではなく、自己啓発やら社会浸透のためだったのか!
つまり、誰でもバッジがつけられるってこと。

数年前にあれだけ崇めていたバッジの存在が急に庶民的な位置付けになったと同時に、勘違いしてる人がバッジをつけてはいないかとモヤモヤし始めた。

「意識を高めるため」という目的のためであれば、もちろん誰がつけても問題はない。
ただ、つける・つけないの判断は当然本人(または企業や団体の方針)なわけで、そこに明確な基準はない。
記事にもあったけど、
大切なのは、バッジをつけた後の「行動」。

バッジをつけたからオールオッケーではない。
つけたからには、ちゃんと自己啓発してもらいたい。
周囲にSDGsを浸透させるアンバサダーの役割を担っていただきたい。
つけた者が、SDGsのエバンジャリストであるのだ、という使命感がそこに宿っていて欲しい。

と思っちゃうのは、私だけ?
私はそれに相応しいレベルではないので、このバッジはつけられないな、とも思っていて。
(と言うか、単純にバッジをつけるには服に穴が開いちゃうとかそういうのを考えちゃうレベル)

なぜこれを思うのかなんだけど、
バッジとかタグとか、もっと言えば肩書きとか役職名とかが決して「免罪符にはなりませんよ」っていうのを今すっごく感じているから。
話の骨を折ってしまうかもしれないけれど、SDGsのバッジはこの思考に苛まれた所以の単なるトリガーで、本当の本当には、SDGsのバッジをつけている方に免罪符云々の腹黒マインドをお持ちの方はいないと信じている。

例えばさ、
私の仕事である教師について。
一昔前は、(地域柄かもしれないけれど)教職に就いたってだけで周りからチヤホヤされて、家族親戚からは御祝をもらって、生徒保護者からは「先生は絶対」っていう信頼をされていた。
今考えると謎すぎる風潮だけど、ローカルな風土では今でも根強く残る雰囲気。

それに胡座をかいて、自己研鑽しない者。
変わろうとしない者。
変わろうとする者を制しする者。
社会のせいにする者。
しないことを正当化するための言い訳がうまい者。

いや、
それ教師だからって許されないから。

はたまた、大学病院の待合室で見かけた高齢男性。なかなか名前が呼ばれず、苛立ちを隠せないご様子。
ついに受付担当スタッフに噛み付いた。
いつまで待たせんだ!
ふざけんじゃねー!
俺は〇〇の仕事してんだ!
待たせられる立場じゃねぇぞ!
どこ見て仕事してんだ!

どうやら、その地域では有名な企業の役付きの方のようで。

いや、関係ないだろ。
診察の順番待ちに、肩書きだの考慮しないから。強いて挙げるなら、緊急対応とかトリアージとかの病状によっての順番前後でしょ。

うちの学校にも、生徒が身につける襟章や校章のバッジはある。
そこの生徒であることを証明するのはもちろん、生徒自身がその学校で学習し、誇りを持って学校生活を送っていく意識を後押しする役割もあると私は思っている。

「バッジをつける」とはそういうこと。
「肩書きを持つ」とはそういうこと。
相応しい言動が伴っていることが最適解。
免罪符にはならない。
バッジや肩書きをなめるな、と言いたい。

「管理職を降りたら、ただのおじさん」
こんな揶揄を時々耳にする。
その人の本質が見えるのは、バッジを外したり、役職を退いたりした後なのだと思う。
本人が肩書きにしがみついて、それに頼っているうちは、中身のなさが露呈しちゃう。

と、自戒の意味も込めて、アウトプットしてみた。
今日も明日も明後日も、年度末の先生は大忙し。
ヤクルト1000を飲んで頑張ってます。

息切れせずに、いきましょう。
では、また!

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