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【マインド】人は何から「卒業」するの?

高尚なテーマ設定になってしまった。
季節柄、あちらこちらで卒業を彷彿させるトリガーが散りばめられていて、いちいち涙腺をくすぐってくる。

卒業シーズンの直前には、例に漏れず「受験」の2文字が私の心に居座っており、大塚製薬カロリーメイトのCMがこれまた涙を誘うのだ。

さて、春めく季節は感情的になりやすい。
仕事柄、卒業という概念から逃れられないため、毎年生徒が巣立っていく(当該学年でなくても)のを見るのは、なかなか感慨深いものがある。

卒業式。
卒業生の退場を見守っていると、割と「学校反発系」生徒の層が泣いていることに気づいた。
校則はできるだけ守りたくない。
先生に楯突く。
授業サボって保健室。
そんなイメージがこびりついた生徒たち。
そんなに学校が嫌なら、「学生」という立場を辞めれば良いのに、と思ったりもしちゃう光景を何度見たか。

世代ではないけれど、
この歌を思い出した。

うんざりしながら それでも過ごした
ひとつだけ解っていたこと
この支配からの卒業

尾崎豊「卒業」

歌詞を解読するのはあまり好きではない。
聴き手の受け取り方は千差万別。
でも、時代を超えて愛されるこの歌は、卒業を迎える若者たちや、過去を回顧しながら物思いに耽る元若者たちにとって、学生時代のシンボリックな記憶を甦らせる媒体として鎮座するだけのパワーワードが散りばめられた歌詞であることくらい私にも分かる。

残念ながら、
私はこの歌詞にシンパシーを感じられるほどの反発心は学校になかった。
寧ろ学校大好き人間で、職員室にもよく出入りしていた。
先生にもまぁまぁ気に入られてたと自覚しているし、勉強してる(ふりが上手)からか、質問にも熱心に対応していただいていた。

だから、「支配されている」って感覚は当時の私にはよく分からないであろうし、そんなこと言って斜に構える奴は放っておいていたと思う。
世の中いろいろな人がいるもんね、くらいで。

それが、自分が教職従事者になって。
なんとなく「支配」の意味を解きかけているなんて。

「被支配者」は生徒だけではない。
「支配者側」に教師がいるわけでもない。
学校そのものが支配下の舞台でもない。

キーワードは「社会」では、と。

その世代特有の憂いとか、
大人たちに向けた諦めとか、
ルールがんじがらめの世の中への抵抗とか、
モラトリアムが生み出す負の感情。

ジュブナイル期を抜け出した後、青年期としての葛藤は相当なものだと思う。
大学に行かないといけないという学歴社会のプレッシャーや、周りと比較することが普通の競争社会において、自分のアイデンティティを探し求めながら解を見つけようともがき続けなければならないジレンマ。
時間は待ってくれない、どうせ大人になるんだ。
分かってはいるけれど。

「支配から卒業する」って言ってはみたものの、
結局卒業はできないことに人は気づく。

ライフステージが変わっても、また次の段階で、何かからの被支配者になる。
見えない何か。
みんなそれと無言で対峙しながら、どうにかこうにか答えを見出す旅をし続ける。

鼓舞なんだよね、
「卒業」って口に出していないと、自分が保てない。

私は今も「何か」から卒業できていない。
ほんとつまらないことで躓いているし、直さないといけないそういう自分の考え方がバカバカしいのも分かってる。

学生じゃなくなっても
仕事始めても
妻になっても
母になっても

ずっとずっと卒業できない。
社会に身を置く以上は。
つまり、生きている限りは。

結論
学校に反抗できる子の方が、伸び代あるかも説。

3月はセンチメンタル。
では、また。

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