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生成AIという道具は人類をどう変えるかーー『ChatGPTと語る未来』を読む

ChatGPTが登場して半年余りだが、今年の話題の主役と言っても過言ではない。ネットはもちろんのこと、テレビや雑誌で取り上げられたり、早くも書籍売り場でもこのテーマのものが続々と増えてきた。そんな中で選んだのが、本書『ChatGPTと語る未来』である。

選んだ理由は著者にある。リード・ホフマンは、いわゆる「ペイパル・マフィア」の一員でありリンクトインの共同創業者。現在は投資家としても活動されているが、過去の著作『ALLIANCE』『ブリッツスケーリング』などはどれも、その先見性で卓越している。今やデジタル化される社会の動向を語る第一人者であろう。そんなホフマンはChatGPTなど生成A Iの可能性をどう考えているのか。

この期待に応えるかのように、まず本書の著者はホフマン氏と「GPT-4」なのである。つまり、生成A Iにホフマンが問いを投げかけ、「ふたり」でChatGPTの未来を語っているのだ。このスタイル自身が、生成A Iの可能性を伝える仕掛けとして頷かない人はいないだろう。

本書は、この相棒ととももに、生成A Iの未来について、とりわけ議論を及びそうな10の領域を取り上げる。それらは、教育、ジャーナリズム、司法、仕事、クリエイティビティなど多岐にわたる。どの項目でも、現在進行しつつある動きが明示され、そこからホフマンはGTP-4に問いかけるのだ。これがあたかもインタビュー記事かのように会話が成立している。ホフマンが、「これについて、さらに詳しく教えてほしい」とプロンプトに書き込めば、即座にGTP-4が返し議論が深まっていく。ChatGPTが登場したこの時点で、このスタイルの書籍を出したことに、まずは感服する。実際の使用例が、「未来を語る」上でのコンテンツとなっているのだ。

もちろんいくつかのアラは見える。ホフマン自身の文章と比べると、GTP-4の文章は、文章としてはなんら違和感はないが、読む面白さはかける。よく言えば冷静沈着だが、無機質な文章を読んでいる印象は拭えない。それでも、対話が続く面白さがあるのは、一重にホフマンの問題意識と問いかけの賜物だろう。生成A Iを教育にどう活用するかを尋ねたり、歴史家のブローデルにAIが歴史にどのような影響を与えるかを聞いたりする。このような問いかけを繰り返し、ホフマンは現在の生成AIの可能性と限界を伝えると同時に、懐疑論やネガティブな見解の深層も描こうとする。

もっとも著者の基本的なスタンスは、生成A Iに対してポジティブである。本書の中でも生成A Iの欠点を露呈しその限界があらわになろうとも、その可能性を信じる姿は揺るがない。なんせ、ホフマンはオープンAI社の最初の投資家でもあるのだ。もっというと、基本的にテクノロジーが導く世界の可能性を信じる人である。ただし懐疑論やネガティブな反応を切り捨てるのではなく、それらの見解に理解を示し、あらゆるネガティブな可能性の根源に迫ろうとするし、人類の歴史に遡り、道具が果たしてきた文明への影響にまで言及する。

このホフマンの姿勢にすっかり影響された訳ではないのだが、僕自身、本書の主張に多いに賛同できる。本書でも人間と機械は「共進化」してきたことが書かれている。火を料理に使うことを覚えた人類は、皆で集まって一緒に食事をするようになったと言う。社交の始まりである。同時に咀嚼と消化の時間を大幅に短縮することができた。それ以降、人類の顎は急速に小さくなり、変わって肥大化したのは頭である。咀嚼と消化に費やすエネルギーを節約できた人間は、「考える」ことにそのエネルギーを費やし始めたのだ。(『火の賜物』リチャード・ランガム著を参考)

同様に、人類は様々な道具を生み出してきたことで肉体的活動を軽減させてきた。それによって、人間の筋肉や骨格は弱まり肉体的な力は弱まる方向で進化してきたのかもしれない。肉体労働の抜きん出た価値があったその時代、筋肉を退化させる道具の登場に対し、懐疑論や否定的見解があふれていたとしても不思議ではないだろう。その意味で、現在の生成A Iに対する懐疑論や警戒感は当然のものでもある。

それでも人類は、それらの肉体的弱体化と同時に異なる力を身につけてきたのではないのか。新しいパワフルな道具の登場にリスクを感じ慎重な見方を常に持ちながらも、人類は次の世界へと自らの特徴を変えてきたのではないか。

本書での「ふたり」の会話では、人間の特性として、好奇心、創造性、社会的交流の3つがざっくりと上がられている。これらが生成A Iの登場でどうなるのか。これが一つの焦点でもある。だが、ひょっとしたら生成A Iの登場により、仮にこれらの人間固有の力を脅かすことになったとしても、人間は新たな力を見つけ、それを身につけていく方向に学習するのではないか。その「新しい力が何か」はもちろんわからない。それは火を用いる以前の人類が、人間の特性として「社会的交流」など概念として持ち得なかっただろうし、思いつかなかっただろうことと同じではないか。

2023年の7月上旬の今、学校の夏休みを控え、夏休みの宿題に生成A Iを使うか使わないのかが議論されている。これは直近の課題であることは間違いない。ただし、この夏が終わったら別の喫緊の課題も現れるだろう。そして、1年後、5年後、あるいは10年後と、このA Iをめぐる議論は異なる形で続いていくだろう。そうして、議論にも上らなくなったころ、人類は他のテクノロジーを使っているか、それとも生成AIを当たり前のように使っているのではないか。

書名の「未来」は来月のことでもあり、来年のことでもあり、そして100年後、1000年後の世界でもある。


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