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「自分は何者か」にどう答えを出すか

わかるようでわからない、もっとも身近で全てを知っているのにわからない、それが「自分」という存在ではないだろうか。

そもそも観察される対象と観察する対象が同じであるため、他者を観察するように、自分を見れないのは当然かもしれない。それでもなお、我々は、「自分は何者か」を知りたい。

先日、仕事を一緒にしている人たちと会食した。そこで言われたのは「最初は怖い人だと思った」という第一印象と、「いまだに掴みどころがない」という現在の印象だった。これらのコメントに対し、当の本人としては何か彼らの理解を助けるようなコメントをしないといけない。だけど、自分自身、自分のことがよくわからないので、そう言われても、手掛かりになりような気の利いたことが言えないのだ。

これが契機となって、この「怖さ」や「掴みどころのなさ」の正体を自分でも解き明かしてみたくなった。その場にいた人には2つの性格診断のサイトを教えてもらった。その一つは有料で数千円するものだったが、この際だと思ってやってみた。

2つのサイトの診断結果を見ても、自分の中で変化はなかった。「そんなものかー」というのが正直な感想で、なんとなくそうだと思っていたことには納得し、「そうかな?」という項目には疑問が残るだけで、診断結果に説得されるわけではない。

そこで思った。そもそも、自分は何者かを知る必要はあるのだろうか、と。

他者からの評価は受け入れるだけでいい

よく「あなたの強みはなんですか?」という問いを目にする。就職での面接試験などでも聞かれるのかもしれない。相手が「こいつは何者か」を知りたいのはわかる。しかしなぜ、自分で自分の強みを表明しないといけないのか?しかも、あやふやにしか理解できない自分が表明した「自分」は果たして、聞いてきた人に、正確な情報を提供できるのか?それを聞いて、人はどこまで信じるのだろうか。

逆に「あなたはこういう人ですね」と言われることがある。先の僕の例のような形である。これは、周囲の人が見たその人の評価に過ぎず、本当の自分にどこまで肉薄しているのだろうか。そもそも、人はその場の状況に応じて、自分の一面しか見せないものである。学生時代の友達といる自分と、仕事相手の人といる自分では、演じている役割がそもそも違う、見せているものがそもそも違う。その一面しか見てない人に、もっとも身近で全てを知っているのに全然自分のことを分かっていない自分が「偉そうに言うな」と反発する。どっちもどっちである。

時と場合に応じて、いろんな顔を見せる自分の「本当の自分」はどうなんだろうか。

ここまで考えても、その「本当の自分」を知る意味はどこにあるのか?その疑問の存在は消えない。それを知ってどうする? わからないままでどんな不都合があるのか?

思うに、「自分とは何者か」の答えは、周囲の人の評価で十分なのではないだろうか。せこいやつ、気が短い、人に寛容、こだわりがある、しっかり芯のある人、、、、、これらはどれも自分の一面しか知らない人の評価だとしても、そんな断片の積み重ねが「自分」であると定義しても大きな問題はないと思う。それでも、「まだ人に見せていない自分がいる」と思うかもしれない。しかし、人に見せてない自分は他者には存在していないのと同じであり、社会の中で見せている自分がそういうことで、問題ないのではないだろうか。

先の性格診断も有効だろう。「私の性格は○○のテスト結果によると、戦略的で、着想力があり、自信家です」というので問題ないはずである。少なくとも、自分で考えるて「私は、こういう性格です」と言うより、よほど誠実な答えかもしれない。

社会や人との関わりの中で生きる我々は、他人のことを知りたい欲求はあるが、その根本は、「この人はどういう対応をする人か」ということである。それはすでに表出されている行動や言動に現れていて、そこで評価されたものでいいのではないか。それは「本当の自分」ではないと思ったとしても、社会や他者は、「本当のあなた」にはそんなに興味がない。「自分にとっての他者」という意味では、見えている自分がその答えになっているはずである。

他者の評価や診断テストの結果にあなたは違和感があるかもしれない。悪い評価に憤慨するかもしれないし、反論したくなるかもしれない。いい評価には謙遜したくなるかもしれない。しかし、それらは必要ない。納得できなくても、認めるのがいい。受け入れるべきである。社会の中のあなたは、あなたが決めるのではないのだ。それは誤解だと、到底納得できないとしても、認めがたいものだったとしても認める。理不尽なことは世の常である。それより、そう見られていることを「自覚する」ことが大事なのだろう。

「本当の自分」をわかるようになるのか?

これで「本当の自分を知りたい」欲求はおさまるか。そうとも言えないのが人間のややこしいところである。他者には見せたいなくても、見せたくなくても、内部に潜む本当の自分を知りたい。その好奇心は、個人差があれども、放置できないものに違いない。

それを探るには、自分の心の反応をきめ細かく見ていくしかないだろう。気持ちがどんな時に、どう動くか。ちょっとイラッとした瞬間、綺麗だなと思った対象、なんか不快だなと思った空間、気持ちが弾む情景、逃げ出したいと思う瞬間、この人が好きと思える相手、、、。分析してもわからない自分の真実は、このような瞬間に散りばめられていて、その積み重ねでおぼろげながら自分の輪郭が見えてくるのではないか。

しかし、そんな輪郭を超えたかのように、心が反応しる瞬間があるかもしれない。それはまだ知らなかった自分の領域が出てきたのかもしれない。あるいは、自分が変化して、古い自分との差分が出たのかもしれない。動的に自分を捉えると、全ての「本当の自分」はその瞬間にしかなく、絶えず新しい自分、自分の知らない自分が立ち上がることになる。

こうなると、永遠に「本当の自分」はわからないかもしれない。

しかし、本当の自分がわかると、人生つまらなくなるのではないかと思う。自分がわかると、次に自分がする行動が予測できる。「こういう局面ではこういう反応をする」と分かっていると、安心できるのかもしれないが、それは自分への「気づき」がない世界かもしれない。「本当の自分がわからない」ことが、人生の楽しみを増やしていのではないか。

そうだと思っていた自分が違う反応を見せることがある。その連続で、確信していたものが裏切られる。ただし、その裏切りは、落胆するものとは限らず、想像を超えたものかもしれない。「こんな自分が潜んでいたのか!」という驚きが続く人生は、結構楽しいに違いない。

自分が絶えず変化するとすれば、「本当の自分を知りたい」欲求は、永遠に満たされない。答えは絶えず変化する。だから気になるのだが、自分に惑わされ続ける人生も悪くないと思う。少なくても、他者の評価に惑わされる人生よりははるかに健全である。

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