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「言葉を扱う」とは身体的な行為ではないか――『言語の本質』を読んで

オンラインセミナーをする際、冒頭で参加者の緊張を和らげるために、「今の気持ちを一言、紙に書いて出してください」とやる。すると「ドキドキ」「ワクワク」が圧倒的に多い。なので、今では「今の気持ちを「ドキドキ」「ワクワク」以外のオノマトペで描いてください」と言うようにしている。これがとても面白く、「ワサワサ」「オソオソ」など、その人らしいユニークな表現が出てくるのだ。

このオノマトペ。実に人の気持ちのあやを映し出す表現ではないか。それ以来、僕は、自分や他人がどういう時にどんなオノマトペを使うかを楽しむようになった。

そこでこの本が面白くないわけがない。『言語の本質』は、このオノマトペを起点に、そもそも言語とは何かに迫ろうとするものである。著者がまたユニークで、認知科学者であり『学びとは何か』などの著書がある今井むつみさん、それに言語学者で『オノマトペの認知科学』などの著書がある秋田喜美さんによる共著である。

通常「共著」というと、章ごとに執筆を分担することが多いが、本書は全ての章を文字通り、お二人で書いたと言う。これは相当面倒なことだろうが、同時に、異なる分野の方が思考のキャッチボールをしながら、全ての章を一緒に書かれたとは画期的なことだと思う。

オノマトペの定義を本書では「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式をもち、新たに作り出せる語」と紹介している。ちなみに「ワクワク」「ヒヤヒヤ」などの重複形だけではなく、「べちょ」「ピョン」「ヌルッ」などもオノマトペである。これは僕も今回、新たに確認できた。

ここで注目すべきは「感覚イメージを写し取る」という部分である。その感覚とは、まさに質感であり、それを感じるのは視覚のみならず聴覚や触覚など、全ての感覚器官を用いるものに当てはまる。感覚イメージ、それは「自分が感じた微妙なニュアンス」であり、しかもその感覚は従来の語彙では見当たらず、なんとか言葉で表現してみようとして出てくる言葉であり、だからこそ、「新たに作り出す語」という定義につながのだろう。

このオノマトペの面白さを本書では、「記号接地」という概念を持ち出して膨らませる。記号接地とは、もともと人工知能の問題として考えられていた。それは、言葉の意味(記号)を覚えただけで、その言葉を知ったことになるかという問題である。メロンという言葉を知ったとしても、あの甘さ、独特の香りと口の中で溶けている感覚を体験したことなく、「メロン」という言葉の概念を知ったことになるか。つまり、その言葉と接地した経験なくして、言葉を理解したことになるのかという課題である。これは機械が言葉を使うようになっても、記号として使っているのであり、その言葉を身体的に理解する次元とは別なのではないかという問いを生み出す。

このように、本書はオノマトペから言葉の問題に移り、そこに身体性が自然とつながる面白さがある。頭で言葉を操るのは脳の機能から明らかだが、それを操る我々は、極めて身体的な体験に依存している事実に気づく。こう考えると、僕らの知性というものも、脳内の活動ではなく、自らの身体的な体験を伴った活動ではないかと思えてくる。

ちなみに、本書では、どの概念分野にオノマトペが多いかの研究結果が紹介されている。概念分野を4つに分類し、レベル1は「音」や「声」、レベル2は「動き」「形」「手触り」、レベル3が「身体感覚」「感情」などであり、そしてレベル4は論理的関係である。そして、どの言語においても、レベル4である論理的関係を表現する分野ではオノマトペは見つかっていないという。このことからも、オノマトペがいかに身体性を帯びているかが理解できよう。

本書の後半は言語の習得に話は移る。ここでのキーワードの一つは、アブダクション推論である。アブダクション推論は、別名「仮説形成推論」とも呼ばれ、いくつかの事例や規則をもとに「そうであれば、こうであるに違いない」という推論の仕方である。なので、アブダクションで導かれた結論は仮説に過ぎず、当然、誤りであることもありうる。そこには論理的に正しくなくても、想像の力によって、新しい知識を生み出す原動力が宿る。著者らは、このアブダクションが人間の思考スタイルとして独自のものであり、言語の習得と進展に大きな役割を果たしてきたのではないかと言う。

本書には次のように書かれている。

知覚経験から知識を創造し、作った知識を使ってさらに知識を急速に成長させていく学習力が子どもたちにはある。

(p.253)

僕が感じた本書の面白さは、幼稚と見做され、語彙足らずの言葉とも思われるオノマトペが、人の学習プロセスや認知構造を解き明かす起点となっていることだ。
この原始的な言葉には論理的な意味ではなく、身体性をもった言葉の使用から、我々はさらに言語を発展させ、目に見えない意味の世界を言葉で記述できるようになったのだ。それでも、問われるのは「接地問題」であり、意味理解における身体性である。さらに言うと、これだけ語彙が作られ世界を記述する言葉が増えた今なお、人はオノマトペを使うし、また新しいものが生み出されている、この意味合いだ。

言語という最も脳内活動と思われる問題から、人が思考するという行為がきわめて身体的な活動ではないかと考えさせる本書は、人の認知行為や身体性、そして思考スタイルを考える上でとても興味深い事実を提示してくれる本である。


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