見出し画像

ライバルの存在を活かすには

仲間の活躍を喜べない

同期の仲間、趣味の仲間、あるいは同じ仕事相手に、あなたはライバルと言える存在はいないだろうか。そして、「ライバルの存在が自分を高めてくれた」ときれいに言うことができればいいのだが、その存在が自分のネガティブな感情を引き出す、そんな経験はないだろうか。僕にも苦い経験がある。

学生時代にサッカー部に所属していた。今から思えば三流のチームだったが、とうの本人たちはそれなりに真剣に取り組んでいた。チームの勝利も重要だが、それ以前に試合に出られるかどうかは大きな関心ごとである。そして同級生にライバルがいた。そして「どちらが試合に出るか」をおおいに気にしていた。彼が試合に出て自分が控えだと、負ければいいのにとさえ思ったことがある。また、彼が怪我をしていると自分にチャンスが回ってきたとも思った。練習での紅白戦で対戦した際には、他の選手によりも闘志が湧き、ラフなプレーでボールを奪いに行った。

同じようにサッカーが好きで高みを目指そう同士であり、チームの仲間であり、そして同級生だったにも関わらず、彼に対する僕の感情は複雑だった。なんで、奴が試合に出ると悔しいのか?なんでその活躍を喜べないのか、おまけに相手の怪我さえチャンスと捉えてしまう。自分はどこまで性格が悪いのかと思ったものだ。

こんな経験があるからこそ「ライバルの存在が自分を高めてくれた」と言う一流アスリートのコメントを聞くと、眩しく思ったものだ。

なぜライバルの存在が負のエネルギーを生み出すのか

ライバルとは、自分に近い存在に感じるものである。見知らぬ相手にその気持ちは湧きにくく、また自分よりはるかにレベルの高い相手にライバル心は生まれない。似たような環境で、似たような力量で、顔を合わす機会も多い。そんな相手と自分とが、どっちが上かが気になる。これは、他者の存在を勝手に自分のストレスに変えているようなものだ。そのマイナスのエネルギーを自分の力にするためにはどうすればいいいのか。

社会人になって就職し同期の仲間ができた。研修で仲良くなりそれぞれが配属されてバラバラになる。そしてたまに会うと、お互いの仕事のことを話す。マイナーな部署に配属された自分は、花形部署に配属された同期の話にかっこいいなと思った。海外出張を経験した同期にもいいなと思った。しかし、僕は「いいなあ」と思っても嫉妬ややっかみが生まれなかった。なぜなら僕は、その時配属された部署の仕事を楽しんでいたからである。まだ未熟でも、やりがいがあり、そして仕事ができるようになりたいと思い、自主的な課題解決もしていた。

この時思ったのは、学生時代のサッカーでライバルの存在を疎ましかったのは、自分に手応えがなかったからだ、と。自分のやっていることに迷いがないとき、どれだけ近い存在が輝いていても気にならないものだ。直接、比較される機会がないことも幸運だったが、当時は、自分のやるべきことに集中していた。翻って思い返すと、学生時代の自分は、どうすればサッカーが上手くなれるか分からずに彷徨っていたのだ。

この傾向は今もある。自分の現状に手応えがある時期は、他者の存在が気にならない。以前いた会社で、隣の席の編集者が大ベストセラーを生み出したが、「すげー」と思ったが、やっかむことはなく、素直に祝福する気持ちになれた。一方で、自分が編集者として彷徨っていた頃は、周りで増刷を連発する編集者の存在が疎ましかった。その活躍具合が聞こえないように避けていたほどである。

そう、ライバル心や他者へのやっかみや嫉妬を消す方法は、それらの人を上回る評価を得るではない。むしろ、自分の現状を充実させることだ。手応えのある行動を続けている自分。その存在こそ、自分を支えるのではないだろうか。

ライバルの存在を自分に活かすには

それでも、他者の存在は気になるものである。周りの評価に直結するパフォーマンスの出来不出来に鈍感になれる人ばかりではない。人はどうしても他人と比較してしまうものである。では、そんな時、どうするか。

芽生えたライバル心や嫉妬心は消すことができないのではないか。そもそも自分の悪感情をコントロールできるのであれば、こんな苦労はしない。そして「そんなの気にしていない」と振る舞ったところで、その存在がなくなるわけではない。他者に気にしていないように見せることができたとしても、自分を騙すことはできない。無視して遠ざけるのが精一杯で、それでも、意識している自分からは逃れられない。

そんな時、ライバルを避けるのではなく、近づいてみるのが有効なことがある。ライバルに勝つために見えないところで努力するのではなく、彼を誘って一緒に練習してみる。どちらが上かを意識するより、仲間であることを意識できるような行動を始めてみるのだ。

また、大きな仕事を成し遂げたライバルに「お前、すごいなー」と声をかける。悔しい気持ちがあろうと、「すごいな」をあえて口に出して相手に伝えるのだ。心のうちでは、「いつか、あいつにもすごいな、と言わせたい」と思っていてもいい。口に出して祝福してみると、自分が清い人間になれたような爽快感が味わえる。

この爽快感は何度も味わった方がいい。うまく行っている人を片っ端から「すごいねー」と言いまくる。「すごいねー」と言い続けていると、自然と相手の立場で考えられるようになり、これがライバルと自分という対立構造から、「同じ仲間」と言う意識が生まれる。

そして同時に、この爽快感が味わうことで、自分のうみのようなものが剥がれていく。つまらないことで、僻んでいた自分が小さく見えてリセットできる。嫌なことを口にするとスッキリすると言うが、思ってもいない「いいこと」を口にしても、気分がすっきりするものだ。そして、リセットできた自分は、自らの取り組みに集中できるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?