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古川ロッパ

知る人ぞ知る、エノケンと一時代を築いた喜劇役者の生涯について、解説いたします


古川ロッパ、本名・古川郁郎は明治36年、東京の麹町で生まれました。男爵家の六男で、裕福な名家で育ちました。

幼い時分より文章力に長け、ほんの10歳にも満たない頃から何かしら書いていたといいます。恵まれた境遇のおかげで多くの文化・娯楽に触れながら育った彼は、殊に映画を好むようになり、その文才を評論文という形で開花させました。

若き中学2年で映画同人誌を発行し、“古川緑波”のペンネームで「キネマ旬報」の記者として活動し始めました。

早稲田大学1年の時には作家・菊池寛の文芸春秋社から声がかかり、雑誌「映画時代」の起ち上げに参加することになりました。その活動にのめり込むあまり、大学の勉強はおろそかになり、2年で中退しました。

その後は編集者の道を邁進し、「映画時代」を譲り受けるまでとなりましたが、独立経営に失敗し、父からの多額の出資も、全て消えてしまいました。

しかし、皮肉にもこの大失敗が、喜劇役者・古川ロッパ誕生のきっかけとなったのです。

古川郁郎は、すでに三十路に手の届く年齢となっていました。

師の菊池寛に今後の身の振り方について相談を持ちかけたところ、返ってきた答えは、あまりにも意外なものだったのです。

「君、役者になってはどうだい?」
「は?」


菊池寛は、何の理由もなく突拍子もない提案をした訳ではありません。古川郁郎は、宴会での余興が抜群に上手く、趣味の延長上ではあるものの「ナヤマシ会」というアマチュア演芸グループを作って活動していたのです。

その芸には、きらりと光る独自のセンスが感じられました。裕福な家庭出身ゆえの豊かな教養や知識に加え、生まれながらの頭の良さ、感性など、様々な資質に恵まれた彼の中に、菊池寛は、役者としての可能性を見出したのだと思います。

菊池寛と縁のあった小林一三(宝塚歌劇団・東宝の創業者)の支援で、話はとんとん拍子に進み、昭和7年、宝塚中劇場の正月公演において歌や声帯模写芸で初舞台を踏みました。

この時、古川ロッパは31歳で、だいぶ遅い役者人生のスタートでしたが、その後の快進撃は、まさに飛ぶ鳥も落とす勢いでした。一足先にスター街道を走っていたエノケンの対抗馬となり、瞬く間に売れっ子コメディアンへと成長してゆきました。

身軽な体で舞台狭しと飛び回り、味のあるダミ声で歌う庶民的なエノケンと、でっぷり体形にして貴族風情、知的なユーモアと美声が持ち味のロッパ芸風も支持層も、ものの見事に好対照をなす二人は互いに競い合い、浅草軽演劇の黄金時代を築くこととなりました。

舞台に映画に歌にと、大活躍したロッパの輝かしいキャリアは昭和10年代前半に絶頂期を迎えました。ただ、第二次世界大戦を境に、状況が一変してしまいました。

戦後は往年のライバル・エノケンとの舞台共演を実現させたり、創成期のテレビ界にも貢献したものの、残念ながらその後は徐々に先細りとなり、昭和35年、舞台出演中に体調を崩し、翌年帰らぬ人となりました。

不運でしたが、古川ロッパは戦前に大活躍した、喜劇役者、コメディアンであったことは、しっかりと歴史に刻まれています。


以上

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