医学の歴史/ 『蘭学』と『蘭方医学』について
蘭学の担い手の中心は、職業柄オランダ語に強い長崎の通詞※をのぞけば、医者たちであった。
※通詞(つうじ): 江戸幕府の世襲役人で公式の通訳者のこと。
〈目次〉
1.蘭学とは
2.蘭方医学
1.蘭学とは
江戸幕府の鎖国政策の結果、西洋諸国のなかでもオランダだけが通商を幕府より許された。
そのため、西洋学術は、オランダ人またはオランダ語を介して受け入れられることとなった。
当時オランダは和蘭、または阿蘭陀と書かれたため、蘭学と呼ばれるようになった。
蘭学はオランダ人やオランダ語を通じて学ばれた西洋の学問、すなわち洋学とよばれるにふさわしい性格をもっていた。
蘭学の研究対象は広汎多岐にわたるが、およそ次の4分野に大別される。
・オランダ語の習得や研究である語学
・医学、天文学、物理学、化学などの自然科学
・測量術、砲術、製鉄などの諸技術
・西洋史、世界地理、外国事情などの人文科学
である。なかでも医学を主とする自然科学がその中心であった。
学問としての蘭学が始まったのは、『蘭学事始』に描写されているように、杉田玄白、前野良沢らによる『解体新書』の翻訳、出版からである。
これを境に本格的なオランダ語の書物の翻訳が始まった。
蘭学の担い手の中心は、職業柄オランダ語に強い長崎の通詞をのぞけば、医者であった。
1840年頃を境に蘭学の性格が変化した。アヘン戦争(1839年~42年)で清国が敗戦すると、為政者(政治を行うもの)たちが軍備改革の必要性を感じはじめ、蘭学も、それまでの医学から軍事科学にその中心が移った。
2.蘭方医学(らんぽういがく)とは
江戸時代、オランダ人を通じて伝えられた西洋医学のことで、その内容は主として外科に関するものであった。
鎖国令の公布(1639年)以前には、南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)が日本へ渡来して南蛮医学を伝えたが、これも内容的にはオランダ医学と同じである。
オランダ医学を日本に伝えた主役は、長崎出島のオランダ商館(※)の医師たちであった。
※ オランダ商館: オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。
1641(寛永18)年にオランダ商館が平戸から長崎に移転して以降、約200年間、ほぼ毎年1、2人の医師が来任した。
その人数は約60人に達したが、初期のライネ、ケンペル、中期のツンベルグ、後期のシーボルト、モーニケらは、特によく知られている。
商館の医師の本来の職務は、商館員の健康管理にあり、館外に出て一般の日本人を診療したり、交遊することは禁じられていた。
それでもときには公に許可を得て日本人を診療したり、日本人医師たちの質問に答えたりしていた。
これが特に目立つのは、オランダ商館長の一行が毎年1回(のちには5年に1回)江戸参府を行ったときである。
江戸への道中、あるいは江戸滞在中の旅館で、商館長らの一行と問答を交わした日本人学者は少なくない。
このことが蘭学者たちの蘭学に対する関心をいっそう募らせ、ついには新しい知識、なかでも西洋医学の知識を得るために、長崎へ行き、商館の医師に教えを請う者がしだいに増えていった。
日本最初の西洋医学書の翻訳書『解体新書』の出版(1774年)を契機に、オランダ語医書の日本語翻訳は相次いで行われ、これが西洋医学の知識の普及に大きな力を示した。
なお、明治維新以後、明治政府が医学教育についてドイツ医学を範とすることを定めたため、オランダ医学はその地位をドイツ医学に譲ることになった。
参照元: 「奥州市立 高野長英記念館」ホームページ
以上
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