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あまり知られていない/ かっぱ橋道具街のルーツ



〈目次〉
1.はじめに
2.歴史


1.はじめに

浅草周辺には、蔵前、浅草橋、馬喰町など、問屋街が多く存在します。

かっぱ橋道具街は、調理器具の問屋街です。

場所は、浅草と上野の中間にあり、南北約800mほどのエリアです。


2.歴史
大正の初期、 江戸時代に作られた新堀川の両岸に古道具を商う商人たちがお店を出したのがきっかけとされています。

大正12年 新堀川は 関東大震災の後に埋め立てられました。

かつての新堀川は、現在の入谷付近からかっぱ橋道具街、新堀通を通りを経由して蔵前橋通まで東に折れて隅田川に注いでいました。

この新堀川は、かっぱ橋道具街のど真ん中を流れていたのです。

新堀川があった時、浅草と上野を行き来するためには、必ず新堀川を橋や船で渡らなければなりませんでした。

新堀川には、 合羽橋と菊屋橋という橋が架かっていて、今も交差点の名前として残っています。



※参考:  歴史小説家の池波正太郎の「金貸し幸右衛門」に新堀川が登場します。なお、池田正太郎は、大正12年(1923)旧東京市浅草区に生まれ育ちました。


※参考:  昭和44年まで 新堀川が埋め立てられた場所を「都電」が走っていました。

都電


関東大震災後、復興の一環として、合羽橋周辺に食に関連のある商店が集まり始めました。

なお、合羽橋の名の由来とて、2つの説があるます。

1つは「雨合羽」説です。
昔、この辺りに、伊予新谷城主の下屋敷がありました。天気の良い日には、近くの橋に、侍や足軽が内職で作った、たくさんの「雨合羽」を干していたことから、この橋を合羽橋と名づけられたというものです。

もう1つは、「河童」説です。合羽橋道具街の近くに、曹源寺、通称かっぱ寺があります。かっぱ寺には、「かっぱの墓所」と「かっぱの手のミイラ」と伝えらているものが存在します。

江戸時代の文化年間の時代に、 雨合羽の大店を経営していた合羽川太郎(本名合羽屋喜八)と近隣住民たちは、この土地の水はけが悪さと、少量の雨でもすぐに洪水になってしまうことに、頭を悩ませていました。

そこで 合羽川太郎が私財を投げうって、洪水を防ぐ工事を始めました。しかし工事は思ったようにうまく進みませんでした。

その様子を見ていた隅田川にいた河童たちは、川太郎の善い行いを見て、夜な夜な工事の手伝ったと言われています。このことから、近くにあった新堀川を合羽橋と名づけられたというものです。

なぜか手伝う河童を見た人々は、運が開けて、商売繁盛したと伝えられています。

曹源寺(かっぱ寺)


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合羽橋道具街にある、飲食店関係の問屋ではほぼ全店で小売もしていて、一般の方々も購入することが可能です。



以上

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