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落書き①


住吉大社

 幼い頃を思い出す事は、おもちゃ箱をひっくり返したような記憶の海へ潜るようで、困惑の快感をもたらす。
 自分はよく祖母に連れられ住吉大社(すみよっさん)へ行った。季節は夏、冬、七五三の分別なく今や何度も行ったという重なった体験。当時お気に入りだったココア色のチン電、オレンジと青のラインの入った南海電車が直接家と神社を繋げたため、いつもすみよっさんに行くことは渡るという感覚に近かったと思われる。
 住吉大社駅の灯台を見ながら祖母はよく戦前の水練学校のことを自分に話して聞かせた。今も、自分の幼少期も、何キロにわたってすでに埋め立てられた土地ながら海をイメージして重ねる事ができたのだ。小5くらいに訪れた厳島神社を、海によく映える朱と白を見て、類推したか、太鼓橋がかかる小さな池を広大に感じたのかもしれない。また灯台と太鼓橋までの参道にはおびただしい石灯籠があった。火を灯すその穴に無数の視線を感じ取っていた。

 百科事典のおばけのページに載っていた'おとろし'と'百々目鬼'の目は自分のトラウマである。現在でも視線には敏感で、時々ありもしない悪意を視線を感じ(自意識過剰)、目に執着がある。20世紀少年、写輪眼、フリーメーソン。
 住吉大社の神馬、アオダイショウ、そして石灯籠と目があったのだ。視線は自分に静止の感覚を与える。静止した表現としての住吉の参道は、自分の形態と事実の感性に強い印象を、残している。

 最近、マッコウクジラが大阪湾に迷い込んだニュースを見た。それで思い出したのが住吉大社の海の幻視された景色と、大阪自然史博物館のクジラの骨とである。かつてあった肉体、逆に生きた動物から奥の死骨を透視する。そのようにして街を見たいのである。

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