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小学生以来、木に登った話

 最近新たに打ち立てられつつある文化を知った。一つがビオトープであり、もう一つが木登りである。2つとも日本文化となる可能性を秘めている。
 一つ目のビオトープは様々な生き物が住める生息域や空間のことを言い、最近では小さな鉢などでベランダや庭に人工的に生態系をつくることを指したりする。生態好きのツイートを見る限り、まだ生態系、種、遺伝子の豊かさ、そして環境問題にしか言及していない場合が多い。しかし日本文化と繋がれば、徒然草の「わざとならぬ庭の草も心あるように」のような景情一致の文化的な豊かさに目覚めるだろう。
 もう一つが「木登り」である。何より手軽だ。さっそく登ってきた。小学生ぶり、多分15年ぶりくらいだろう(26歳)。やってみて思う、体が重く、高所が怖い。理性が感性を邪魔していることがわかる。身体を調律するイメージは水泳に近い。フィールドにあるように体を動かすということだ。
 そしてもう一つ気づいたことがある。実体と中空への感覚だ。都市は西洋由来の岩の文化だ。空間とは岩壁の洞穴であり、煉瓦の壁を穿った孔である。コンクリートが、在来木造工法がいくら柱梁構造をとろうとも、図面上に開口を穿つ有孔体である。しかし木登りはそのような空間の読解を改めさせる。実体である一本の木にしがみつき、中空に身を置くと目の前に広がる幹と枝葉の真の柱梁構造に出会う。
 本来日本、朝鮮半島、南洋諸島の建築は「木割」のように立面と平面が、実体と非実体が、連続して構成されていたのではないだろうか。木登りもまた、実体と中空を同時に見て登る。身を置くところと掴むところ。自分の身体スケールと自身にかかる重力と親しみながら、自然、無造作に立つ木を重力に逆らい上へ上へと登る。この両義的行動、その極致は茶室と同じ「終にかね(寸法)をはなれ、わざを忘れ、心味の無味に帰する」(南方録)へと接近するだろう。
 これら2つの文化の萌芽は現代の数寄者になり得るだろう。今後に期待である。

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