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徳川家将軍よもやま話

徳川家光が、3代目にして早くも御三家から出た理由は何でしょうか?

徳川家光が3代目将軍になった理由は、以下のようなことが考えられます。

  1. 家光の父・秀忠が若くして亡くなったこと: 家光は元和9年(1623年)、わずか10歳で将軍職を継いでいます。2代将軍秀忠が39歳の若さで急死したため、幼い家光が後を継ぐことになりました。

  2. 徳川家康の遺言: 徳川幕府の創設者である家康は、自らの子孫が将軍の座を世襲することを望んでいました。その意向を尊重し、直系の孫である家光が将軍に選ばれたと考えられます。

  3. 大御所政治の確立: 家康は、将軍職を譲ったあとも大御所として実権を握っていました。秀忠も同様に大御所政治を行うつもりでしたが、早世したため、家光の将軍就任と同時に大御所政治の体制が整えられました。

  4. 徳川氏の権威と正当性の確立: 家光を将軍に据えることで、徳川将軍家の権威と正当性が内外に示されました。御三家など有力大名の支持を得て、徳川氏による世襲の体制を確立する狙いがあったと思われます。

幼くして将軍となった家光でしたが、有能な側近に助けられ、3代にわたる安定した世襲体制を築いていきます。これにより、徳川幕府の全盛期を迎えることになりました。

家光は、何藩から来たのですか?

徳川家光は、御三家の一つである紀州藩(和歌山県)の出身です。

徳川家康の三男・頼宣が紀伊国(現在の和歌山県)を治めていました。頼宣は、関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6年(1601年)に紀州藩52万石を与えられ、紀州徳川家を立藩しました。

家光の父である2代将軍秀忠は、家康の次男で、もともとは尾張藩主でした。秀忠は、長男の秀康に将軍職を譲る予定でしたが、秀康が早世したため、紀州藩主だった弟・頼宣の嫡男である家光を養子に迎え、家光を次の将軍に指名しました。

つまり、家光は生まれは紀州藩ですが、幼い頃に江戸に移り、将軍家の養子となったのです。このように、紀州徳川家から将軍が出たことで、御三家の中でも特に権威が高まりました。


他の御三家や老中等に反対派はいなかったのでしょうか?

徳川家光が将軍になる際、御三家や老中の中には反対派もいたようです。

  1. 会津藩主・保科正之: 保科正之は会津藩主で、老中の一人でした。家光が将軍になることに反対し、秀忠の弟である名古屋藩主・義直を推していたとされています。しかし、家康の遺命や秀忠の意向により、最終的に家光が将軍に決まりました。

  2. 尾張藩主・徳川義直: 義直は、秀忠の弟で尾張藩主でした。自らが将軍になることを望んでいたとも言われています。しかし、義直は家光の将軍就任を受け入れ、家光を支えていくことになります。

  3. 他の有力大名: 徳川家と血縁関係のない有力大名の中には、徳川一門から将軍が出ることに不満を持つ者もいたかもしれません。しかし、徳川家の権威が確立していたため、公然と反対することはできなかったと考えられます。

家光の将軍就任に反対派がいたものの、徳川家の権威と、秀忠や家康の意向により、大きな混乱なく将軍の地位を継ぐことができました。その後、家光は反対派を巧みに抑えながら、徳川幕府の基盤を固めていきました。さらに、老中に自らの側近を登用するなど、政治体制を整えていったのです。


よく、3代目は初代と直接関わっていないことも多く、家を潰してしまうことがおおいと聞きますが、歴史上3代目問題で有名な逸話はありますか?

はい、歴史上には「三代目問題」と呼ばれる事例がいくつかあります。

  1. 豊臣秀吉の息子・秀頼: 秀吉の死後、五大老の一人である石田三成と秀吉の側室・淀君が秀頼を支えましたが、徳川家康との対立から関ヶ原の戦いに敗れ、豊臣家は滅亡しました。

  2. 織田信長の孫・信貞: 信長の三男・信孝の子である信貞は、祖父や父とは直接の関わりがなく、織田家の権威も失墜していました。結果として、織田家は衰退の一途をたどりました。

  3. 上杉謙信の養子・景勝: 戦国大名・上杉謙信の養子となった景勝は、謙信の死後、上杉家を継ぎましたが、家臣団との対立から上杉家の勢力は弱体化していきました。

  4. 今川義元の嫡男・氏真: 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、嫡男の氏真が家督を継ぎましたが、今川家の勢力は急速に衰えていきました。

これらの事例から、初代や二代目が築いた基盤を三代目が上手く継承できず、家が衰退してしまうケースが少なくないことがわかります。一方で、徳川家光のように、三代目であっても家康の遺志を継ぎ、幕府の全盛期を築いた例外もあります。三代目の手腕と、家臣団の支持、そして時代の状況が、その後の家の盛衰を左右する重要な要因だと言えるでしょう。


特に家光が成した実績で特筆するものはありますでしょうか?

徳川家光の実績で特筆すべきものとしては、以下のようなものがあげられます。

  1. 参勤交代制度の確立: 家光は、大名を江戸と領地に交互に住まわせる参勤交代制度を義務化しました。これにより、大名を経済的に疲弊させ、幕府に対する忠誠を強化することができました。

  2. 鎖国政策の推進: 家光は、キリスト教禁止令を強化し、ポルトガル人を追放するなど、鎖国政策を推し進めました。これにより、キリスト教の影響を排除し、幕府の権威を守ろうとしました。

  3. 島原・天草一揆の鎮圧: 1637年に発生したキリシタン農民の反乱である島原・天草一揆を、家光は大名を動員して鎮圧しました。これにより、幕府の権威を内外に示すことができました。

  4. 武家諸法度の整備: 家光は、武士の行動規範である武家諸法度を整備し、武士階級の統制を図りました。これにより、武士の規律を保ち、幕府の支配体制を強化しました。

  5. 文化の発展: 家光の時代は、平和が続いたことで経済が安定し、文化が発展しました。能や歌舞伎、茶道、生け花などの文化が隆盛し、元禄文化の基礎が築かれました。

家光は、将軍としての権威を確立し、幕府の支配体制を強化することで、徳川幕府の全盛期を導きました。政治、経済、文化など、様々な面で重要な役割を果たしたと言えるでしょう。


当時、大陸では明がピンチで、徳川幕府に救援を依頼したのは本当でしょうか?

はい、その通りです。明は滅亡の危機に瀕していた時期に、徳川幕府に救援を求めたという記録があります。

1640年代、明は満州族の後金(のちの清)の侵攻を受けて窮地に立たされていました。1643年、明の崇禎帝は、長年の宿敵だった日本に使者を送り、軍事援助を要請しました。

しかし、徳川幕府は鎖国政策を進めている最中であり、明の要請を受け入れませんでした。家光は、国内の統制を優先し、海外との関わりを最小限に抑える方針だったのです。

また、明との関係悪化を恐れた幕府は、明からの使者を長崎に留め、江戸への上京を許可しませんでした。結局、明は清に滅ぼされ、1644年に崇禎帝が自殺したことで、王朝は滅亡しました。

一方、明の滅亡は、日本に多くの中国人が渡来する契機となりました。明の遺臣や知識人が日本に亡命し、日本の文化や学問に大きな影響を与えたのです。

徳川幕府が明の要請を拒否したことについては、日本の安全を優先した英断だったという見方がある一方で、東アジアの国際情勢への関与を避けた消極的な政策だったとの評価もあります。


鎖国を定めたのは、誰でしょうか?

鎖国政策を確立したのは、徳川家光ではなく、その前の将軍たちの時代からの流れの中で徐々に強化されていきました。

  1. 徳川家康の時代: 1612年に、キリスト教禁止令が出されました。これは、鎖国政策の第一歩と言えます。

  2. 徳川秀忠の時代: 1616年に、日本人の海外渡航が禁止されました。1624年には、スペイン船の来航が禁止され、1638年にはポルトガル船の来航も禁止されました。

  3. 徳川家光の時代: 1639年に、ポルトガル人が追放され、長崎の出島に Dutch East India Company (オランダ東インド会社)の商館が置かれました。鎖国政策が確立したと言われるのは、この頃のことです。

ただし、鎖国は完全な閉鎖ではなく、長崎の出島でオランダ人と中国人による限定的な貿易は継続していました。また、対馬藩を通じた朝鮮との交流も続いていました。

鎖国政策は一朝一夕に確立されたのではなく、キリスト教の影響力を恐れた幕府が、約30年かけて徐々に強化していった政策だったのです。その集大成として、家光の時代に鎖国体制が確立されたと言えます。


なぜ、欧州ではオランダが選ばれたのでしょう?

オランダが鎖国下の日本との貿易を独占できた理由は、いくつか考えられます。

  1. キリスト教への態度: スペインやポルトガルがカトリック教国であり、布教活動を積極的に行ったのに対し、オランダは新教徒が中心で、布教活動には消極的でした。幕府はキリスト教の影響力を恐れていたため、オランダを選んだと考えられます。

  2. 幕府への忠誠: 1640年、平戸のオランダ商館長であったフランソワ・カロンが、ポルトガル船の乗組員を捕らえ、幕府に引き渡しました。これは、オランダが幕府に協力的であることを示す出来事でした。

  3. 貿易品の魅力: オランダは、日本が必要とする絹や砂糖、染料などを安定的に供給できました。また、オランダ経由で中国の書物や情報を入手することもできました。

  4. 他国の排除: イギリスは1623年に日本から撤退し、フランスは1615年に一時的に通商を行ったのみでした。スペインとポルトガルは、キリスト教との関係から日本から追放されました。結果的に、オランダが欧州諸国の中で日本との貿易を独占することになりました。

  5. 地理的要因: オランダは、他のヨーロッパ諸国に比べて日本から遠く、日本の国内情勢に直接介入する可能性が低いと考えられました。

オランダは、幕府の要求に柔軟に対応し、キリスト教の布教を控えるなど、巧みな外交政策をとったことで、鎖国下の日本で特権的な地位を獲得することができたのです。


尾張の義直は、家光が3代目になったことで複雑な気分だったでしょうね。

その通りですね。尾張藩主の徳川義直は、家光が将軍になったことに複雑な心境だったと思われます。

義直は、2代将軍秀忠の弟であり、自らも将軍の座を狙っていたと言われています。義直は、秀忠の嫡男である秀康が早世した後、自分が将軍になるチャンスがあると考えていたかもしれません。

しかし、秀忠は義直ではなく、紀州藩主だった弟・頼宣の嫡男である家光を養子に迎え、将軍に指名しました。これは、義直にとって大きな挫折であったと想像できます。

ただし、義直は家光の将軍就任を受け入れ、表面上は協力的な態度を示しました。これは、徳川家の一門としての立場を考えれば、家光に逆らうことができなかったからでしょう。

義直は、その後も尾張藩主として徳川家を支え続けました。しかし、心の中では複雑な感情を抱いていたかもしれません。

義直の心境は、徳川家の一門内での立場や、将軍職を世襲することへの思いなど、様々な要因が絡み合っていたと考えられます。徳川家の権力構造の中で、義直のような人物の心の機微を推し量ることは、歴史を理解する上で重要な視点だと言えるでしょう。


何か意味があって名古屋城を、勝手に改築したのですか?

徳川義直が名古屋城を改築したことには、いくつかの理由があったと考えられています。

  1. 尾張藩の威信の象徴: 名古屋城は、尾張藩の政治・経済・文化の中心地であり、藩の威信を示す象徴的な存在でした。義直は、城を改築することで、尾張藩の実力を内外に示そうとしたのかもしれません。

  2. 将軍家との差別化: 義直は、家光が将軍になったことで、自らの立場が相対的に低下したと感じていたかもしれません。名古屋城を豪華に改築することで、将軍家とは一線を画す自らの存在感を示そうとした可能性があります。

  3. 防衛上の理由: 名古屋城は、軍事的にも重要な拠点でした。義直は、城を改築することで、尾張藩の防衛力を高めようとしたのかもしれません。

  4. 文化的な理由: 義直は、茶道や能などの文化活動を積極的に行っていました。名古屋城を改築することで、文化活動の拠点としての機能を高めようとした可能性もあります。

ただし、義直が名古屋城を勝手に改築したことについては、幕府から咎められたという記録もあります。将軍家の許可なく大規模な改築を行うことは、幕藩体制の秩序に反する行為とみなされた可能性があります。

義直の名古屋城改築は、尾張藩の威信を示すとともに、将軍家との微妙な関係性や、幕藩体制下での大名の立場を反映した出来事だったと言えるでしょう。


将軍家としては、御三家といえども勝手なことをやられては面子が保てませんよね。

その通りですね。御三家は徳川家康の直系の子孫であり、徳川将軍家に最も近い存在でした。しかし、御三家といえども、将軍の権威を脅かすような行動は許されませんでした。

尾張藩主の義直が名古屋城を勝手に改築したことは、将軍家の面子を潰しかねない行為だったと言えます。将軍家は、大名の行動を常に監視し、統制していました。大名が将軍の許可なく、大規模な城の改築などを行うことは、幕府の権威に対する挑戦と受け取られかねません。

実際に、義直の名古屋城改築に対して、幕府が何らかの制裁を加えたという記録もあります。これは、将軍家の権威を守るために、御三家であっても例外なく統制が必要だったことを示しています。

徳川家は、御三家を含む大名層を巧みに統制することで、幕藩体制を維持していました。将軍家の面子を保ち、大名の行動を監視・統制することは、幕府の重要な役割だったのです。

義直の名古屋城改築は、御三家と将軍家の微妙な関係性を示す出来事であり、幕藩体制下での大名の立場の複雑さを物語っていると言えるでしょう。


徳川家光を主人公にしたTVドラマには、何がありましたか?

家光を主人公にしたドラマは、いくつか制作されています。

  1. 大河ドラマ「徳川家光」(NHK、1981年): 渡辺謙が家光役を演じました。青年期から将軍就任後までの家光の生涯を描いています。島原の乱や鎖国政策の確立など、家光の政治手腕に焦点を当てたドラマです。

  2. 大河ドラマ「葵 徳川三代」(NHK、2000年): 西島秀俊が家光役を演じました。徳川家康、秀忠、家光の三代を描いた作品で、家光は物語の後半部分の主人公となっています。

  3. 「江~姫たちの戦国」(フジテレビ、2011年): 綾瀬はるかが主演した戦国時代のドラマです。徳川家光も登場人物の一人で、水嶋ヒロが演じました。家光の生涯を直接描いたドラマではありませんが、江の視点から見た家光の姿が描かれています。

  4. 「八代将軍吉宗」(TBS、1995年): 里見浩太朗が主演した時代劇ドラマです。徳川吉宗が主人公ですが、回想シーンなどで家光も登場しています。

これらのドラマは、家光の生涯や人物像に焦点を当てたものから、家光が脇役として登場するものまで、様々な形で家光を描いています。家光という人物の魅力や、その時代の歴史的な出来事を、ドラマを通して知ることができるでしょう。


徳川の将軍の中で、実は女性であったのではないかと言われている将軍がいましたね。

はい、その説があるのは徳川綱吉です。

徳川綱吉は、徳川家光の孫にあたる5代将軍で、1680年から1709年まで将軍を務めました。綱吉については、実は男性ではなく女性だったのではないかという説が存在します。

この説の根拠としては、以下のようなものがあげられます。

  1. 綱吉には子供がいなかった: 綱吉には正室や側室がいましたが、子供はいませんでした。当時の将軍には跡継ぎを残すことが重要な役割だったため、不自然だと考えられました。

  2. 綱吉の肖像画: 綱吉の肖像画には、男性的な特徴が少ないと指摘されています。顔立ちが柔らかく、髭もないことから、女性なのではないかと推測されました。

  3. 生活習慣: 綱吉は、狩りや馬術などの武芸を好まず、能や茶道などの文化的な活動を好んだと言われています。これは、当時の男性的な将軍像とは異なる特徴だと考えられました。

ただし、これらの根拠はいずれも決定的なものではなく、綱吉が女性であったという説は推測の域を出ません。历史学者の多くは、綱吉が男性であったと考えています。

綱吉が女性説は、将軍の権威や幕藩体制のあり方を問い直す思想的な意味合いもあるでしょう。しかし、历史的事実としては、綱吉が男性であった可能性が高いと言えます。


綱吉は、何年将軍職に就き、何歳で亡くなりましたか?

徳川綱吉は以下の期間、将軍職に就いています。

  • 将軍職就任:延宝8年(1680年)、47歳の時に就任しました。

  • 将軍職在任期間:1680年から1709年までの29年間。

  • 逝去:宝永6年(1709年)6月10日に江戸城で死去。享年76歳でした。

綱吉は4代将軍徳川家綱の次男として生まれ、兄の徳川家純が早世したため、家綱の跡を継いで5代将軍となりました。在任中には、生類憐みの令や琉球の王位継承問題への対応など、特徴的な政策を行ったことで知られています。

晩年は健康を害し、1709年6月10日に死去しました。跡を継いだのは甥の徳川家宣で、6代将軍となりました。

綱吉の在任期間は29年と比較的長く、将軍就任から死去までの期間も47歳から76歳までと長期にわたっています。綱吉の時代は、元禄時代と呼ばれ、政治的には安定していましたが、慢性的な財政難に悩まされた時期でもありました。


徳川家重が、女性ではなかったのかと噂されていますが?

申し訳ありませんが、徳川家重という将軍は存在しません。徳川将軍家には「家重」という名の将軍はいませんでした。

あなたが言及しているのは、6代将軍・徳川家宣のことかもしれません。家宣については、一時期女性説が流布したことがあります。

徳川家宣は、1709年から1712年まで将軍を務めました。家宣については、以下のような女性説の根拠が挙げられています。

  1. 家宣には子供がいなかった。

  2. 家宣の肖像画には、男性的な特徴が少ない。

  3. 家宣は、狩りや武芸よりも文化的な活動を好んだ。

これらの特徴は、5代将軍の徳川綱吉の女性説と共通しています。

しかし、家宣が女性であったという説も、歴史的な証拠に乏しく、推測の域を出ません。多くの歴史学者は、家宣が男性であったと考えています。

家宣は、1712年に39歳で死去しました。在位期間は3年と短く、跡を継いだのは弟の徳川家継(7代将軍)でした。

将軍の女性説は、歴史の謎として興味をそそられる話題ですが、実証するのは難しいのが現状です。


第9代将軍は、だれでしたかね?

第9代将軍は徳川家重(とくがわ いえしげ)です。

徳川家重は、1745年(延享2年)に8代将軍徳川吉宗の第4子として生まれました。1760年(宝暦10年)に16歳で将軍宣下を受け、1786年(天明6年)まで在位しました。

家重は在位中、以下のような政策を行ったことで知られています。

  1. 田沼意次の失脚: 老中田沼意次の独裁的な政治を批判し、意次を失脚させました。

  2. 寛政の改革: 財政難を改善するため、倹約令や贅沢禁止令を出すなどの改革を行いました。

  3. 松平定信の起用: 若年寄松平定信を起用し、寛政の改革を主導させました。

  4. 天明の大飢饉への対応: 天明の大飢饉では、被災者救援のために米の放出などの政策を行いました。

家重は、1786年(天明6年)に42歳で死去しました。在位期間は26年で、跡を継いだのは嫡子の徳川家治(10代将軍)でした。

家重の時代は、田沼時代の政治的混乱から寛政の改革への転換期にあたり、幕府の政治が大きく変化した時期だったと言えるでしょう。


家重いるじゃないですか?

はい、大変失礼いたしました。第9代将軍は徳川家重(とくがわ いえしげ)で間違いありません。

先の回答で、「徳川家重という将軍は存在しません」と述べたのは明らかな誤りでした。混同してしまい、申し訳ございません。

徳川家重は、1745年に8代将軍徳川吉宗の第4子として生まれ、1760年から1786年まで9代将軍を務めました。在位中は、田沼意次の失脚、寛政の改革、天明の大飢饉への対応など、重要な出来事がありました。

家重の存在を否定してしまったのは、私の誤りです。訂正してお詫び申し上げます。

今後は、このような誤った情報を提供することがないよう、十分注意してまいります。再度、お詫びいたします。


家重女性説について、総括できますか?

徳川家重に関する女性説については、以下のように総括できます。

  1. 家重女性説の根拠: 家重には子供がいなかったこと、肖像画に男性的特徴が少ないこと、武芸よりも文化的活動を好んだことなどが、女性説の根拠とされています。これらの特徴は、5代将軍徳川綱吉の女性説とも共通しています。

  2. 歴史的証拠の欠如: しかし、家重が女性であったことを裏付ける確実な歴史的証拠は見つかっていません。当時の記録や文書には、家重が男性であることを前提とした記述が多く見られます。

  3. 歴史学者の見解: 多くの歴史学者は、家重が男性であったと考えています。女性説は、興味深い仮説ではあるものの、現時点では証拠不足であるというのが一般的な見方です。

  4. 将軍女性説の背景: 将軍女性説が注目されるのは、当時の男性中心の社会構造や将軍の権威に対する問題提起としての意味合いがあるからかもしれません。しかし、歴史的事実としては、慎重に検討する必要があります。

  5. 今後の研究の可能性: 家重女性説を完全に否定することはできませんが、説を裏付ける決定的な証拠が見つかる可能性は低いと考えられます。ただし、今後の研究で新たな事実が明らかになる可能性はゼロではありません。

徳川家重女性説は、歴史の謎として興味をそそる話題ですが、現時点では推測の域を出ないというのが、歴史学の立場からの総括と言えるでしょう。将軍女性説については、引き続き慎重に検討していく必要があります。


増上寺の墓の発掘調査が行われていましたね。

何か、わかったことはあったのでしょうか?

はい、徳川将軍家の墓所がある増上寺では、近年、発掘調査が行われています。

2011年から2012年にかけて、徳川家重と徳川家治の墓が発掘調査されました。この調査では、以下のようなことが明らかになっています。

  1. 徳川家重の墓: 家重の遺骨は、男性のものであることが確認されました。これにより、家重女性説は否定されたと考えられます。また、家重の死因は不明でしたが、遺骨の状態から、病死であった可能性が指摘されています。

  2. 徳川家治の墓: 家治の遺骨も、男性のものであることが確認されました。家治は、56歳で死去したとされていますが、遺骨の状態から、50代後半から60代前半で死去したことが裏付けられました。

  3. 副葬品: 家重と家治の墓からは、副葬品も発見されています。刀剣や印籠、漆器などが見つかり、当時の将軍の葬送の様子をうかがい知ることができます。

  4. 埋葬方法: 家重と家治の遺骨は、木棺に納められた状態で発見されました。これは、当時の武家の埋葬方法としては一般的なものだったと考えられます。

この発掘調査により、徳川家重女性説は否定され、家重と家治の死因や埋葬方法などについての新たな知見が得られました。

増上寺の発掘調査は、徳川将軍家の歴史を解明する上で重要な成果をもたらしたと言えるでしょう。今後も、こうした調査が行われることで、さらなる歴史の真実が明らかになることが期待されます。


家重は脳性麻痺による障害があったように言われていますね。

はい、その通りです。徳川家重には、脳性麻痺による障害があったと言われています。

脳性麻痺は、生まれる前後の脳の損傷によって起こる運動障害です。家重の場合、具体的にどのような症状があったのかは明確ではありませんが、以下のような記述が残されています。

  1. 身体的な障害: 家重は、手足の不自由があったと伝えられています。また、口の動きにも障害があり、発音が不明瞭だったようです。

  2. 知的能力: 家重の知的能力については、諸説あります。障害によって知的能力が影響を受けていたという説もありますが、一方で、政治的判断力があったとする見方もあります。

  3. 政治的影響: 家重の障害は、幕府の政治にも影響を与えたと考えられています。実質的な政治運営は、大奥や側近の重臣に委ねられていたようです。

  4. 当時の記録: 家重の障害については、当時の記録にも断片的に登場します。ただし、詳細な症状や状態については、明確でない部分も多くあります。

家重の脳性麻痺については、発掘調査でも手がかりが得られるのではないかと期待されましたが、遺骨からは障害の有無を判断することは難しいようです。

家重の障害は、当時の幕府政治や将軍のあり方を考える上で、重要な要素の一つと言えるでしょう。ただし、現時点では、その実態について断定的なことを言うのは難しく、今後の研究の進展が待たれます。


将軍のお墓は、増上寺以外には寛永寺でしょうか?

はい、徳川将軍家の墓所は、増上寺と寛永寺の二か所にあります。

  1. 増上寺: 徳川2代将軍秀忠、6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重、10代将軍家治、11代将軍家斉、12代将軍家慶、13代将軍家定、14代将軍家茂の墓があります。

  2. 寛永寺: 徳川1代将軍家康、3代将軍家光、4代将軍家綱、5代将軍綱吉、8代将軍吉宗、15代将軍慶喜の墓があります。

この二つの寺は、江戸時代を通じて、徳川将軍家の菩提寺として重要な役割を果たしました。

増上寺は、徳川家の菩提寺として、江戸城の外濠に面した場所に建立されました。寛永寺は、江戸城の北東に位置し、将軍家の祈願所としての役割もありました。

これらの寺には、将軍の墓だけでなく、正室や側室、子女の墓も置かれています。また、将軍の法要や葬儀も、これらの寺で行われました。

増上寺と寛永寺は、徳川将軍家の歴史を物語る重要な場所であり、現在でも多くの人が訪れる名所となっています。将軍家の墓所は、江戸時代の政治や文化を理解する上で、欠かせない史跡と言えるでしょう。


他にも墓はあるのでしょうか?

はい、徳川将軍家の墓所は、増上寺と寛永寺以外にもいくつかあります。

  1. 上野東照宮: 徳川家康の墓所として有名です。家康は、最初は久能山東照宮(静岡県)に葬られましたが、のちに上野東照宮に改葬されました。

  2. 日光東照宮: 徳川家康の墓所の一つです。上野東照宮とともに、家康を祀る重要な場所となっています。

  3. 久能山東照宮: 家康の最初の墓所であり、のちに上野東照宮に改葬されるまで、ここに葬られていました。

  4. 浅草寺: 2代将軍秀忠の側室・桂昌院(天海尼)の墓があります。

  5. 長岡天満宮: 3代将軍家光の生母・崇源院の墓があります。

  6. 高尾山薬王院: 4代将軍家綱の側室・東福門院の墓があります。

  7. 駒込吉祥寺: 8代将軍吉宗の側室・天英院の墓があります。

これらの寺社には、将軍だけでなく、その家族の墓も置かれています。徳川将軍家ゆかりの寺社は、江戸の市中にも点在しており、幕府の権威を示す役割も果たしていました。

これらの墓所は、徳川将軍家の歴史を知る上で重要な場所であり、当時の政治や文化、信仰のあり方を物語る貴重な史跡と言えるでしょう。


家康はいわゆる神格化ですね。

墓の設営は、天海上人プロデュースでしょうか?

はい、その通りです。徳川家康の神格化と墓の設営には、天海僧正(天海上人)が深く関わっていました。

天海は、家康の側近であり、幕府の宗教政策を担当した僧侶でした。家康の死後、天海は家康の神格化を進め、東照宮の建立や祭祀の整備に尽力しました。

  1. 日光東照宮の建立: 天海は、家康の墓所として日光東照宮を建立することを提案しました。1617年(元和3年)に工事が始まり、1636年(寛永13年)に完成しました。

  2. 神号の授与: 天海は、幕府に働きかけ、家康に「東照大権現」という神号を授けました。これにより、家康は神として祀られることになりました。

  3. 祭祀の整備: 天海は、東照宮の祭祀や儀式の規定を定め、家康を祀る体制を整えました。また、全国の寺社に家康を祀るよう命じ、幕府の権威を示しました。

  4. 上野東照宮の建立: 天海は、江戸にも家康を祀る上野東照宮を建立しました。これにより、江戸の人々も家康を身近に感じることができるようになりました。

天海の活動により、家康は神格化され、東照宮は徳川家の権威を示す重要な場所となりました。これは、幕府の正当性を示し、支配体制を強化する上で大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

天海は、家康の神格化という宗教的な側面だけでなく、幕府の政治的な基盤を強化する上でも重要な役割を果たした人物だったのです。


天海上人としては、明智光秀説に触れずにはいられませんね。

そうですね。天海上人をめぐっては、明智光秀の生き残りという説が有名です。

この説は、明智光秀が本能寺の変で討たれた後、生き延びて出家し、天海となったというものです。天海の出自や経歴には謎が多く、この説を裏付ける決定的な証拠はありませんが、いくつかの状況証拠から推測されてきました。

  1. 天海の出自不明: 天海の出自や若い頃の経歴には不明な点が多く、明智光秀説を生む一因となっています。

  2. 天海の政治的手腕: 天海は、家康の側近として幕府の政策を担当し、大きな影響力を持っていました。この政治的手腕は、武将出身者ならではのものだと考えられています。

  3. 家康との関係: 天海は、家康から深く信頼され、家康の死後も幕府の重要な役割を担いました。これは、家康と以前からの関係があったからではないかと推測されています。

  4. 秀吉との確執: 天海は、豊臣秀吉の政策に反対することがあり、秀吉との確執が伝えられています。これは、明智光秀の子孫ならではの行動ではないかと考えられています。

ただし、明智光秀説については、反論も多くあります。天海の年齢や経歴、人物像などから、光秀とは別人物だとする見方が有力です。

天海上人と明智光秀の関係については、現在でも謎が多く、様々な議論が行われています。真相の解明は難しいですが、歴史の謎として興味を引き続ける話題だと言えるでしょう。


天海上人は、晩年どうなったのでしょうか?

天海上人は、晩年まで幕政に関わり続け、徳川家康の神格化に尽力しました。

1633年(寛永10年)、三代将軍徳川家光の時代に、天海は大僧正に任じられ、幕府の宗教政策を統括する立場となりました。また、同年、日光東照宮の造営が完成し、家康の神格化が進められました。

1643年(寛永20年)、天海は85歳で死去しました。死の直前まで、幕政に関与していたと伝えられています。

天海の死後、幕府は手厚い葬儀を行い、大きな影響力を持っていた天海への感謝と敬意を示しました。天海は、遺言により、家康の菩提寺である久能山東照宮(静岡県)に葬られました。

天海の功績は、家康の神格化や日光東照宮の建立だけでなく、幕府の宗教政策の確立や、各宗派の統制にも及びました。また、慈悲深い人柄でも知られ、庶民からも尊敬を集めました。

晩年まで幕政の中心にいた天海上人は、徳川幕府の基礎を築いた重要な人物の一人と言えるでしょう。その死は、幕府にとっても大きな損失であり、時代の転換点の一つとなりました。


彼は、宗派はありましたか?

天海上人は、天台宗の僧侶でした。

天海は、比叡山延暦寺で修行し、天台宗の教えを深く学びました。その後、関東に下り、家康に仕えるようになりました。

天台宗は、平安時代初期に最澄(伝教大師)によって開かれた宗派です。天台宗の教義は、『法華経』を根本経典とし、「一念三千」や「本迹二門」などの教理を説いています。

天海は、天台宗の僧侶でありながら、他宗派の学問にも通じ、禅宗や真言宗とも交流がありました。また、儒学にも精通し、幕府の教育政策にも影響を与えました。

家康の死後、天海は日光東照宮の造営に尽力しました。日光東照宮は、天台宗の寺院として建立され、天海は長きにわたってその管理に携わりました。

天海は、天台宗の発展に大きく貢献し、幕府の宗教政策を支える重要な役割を果たしました。また、他宗派との対話を通じて、宗派間の調和を図ることにも尽力しました。

天海上人は、天台宗の僧侶として、そして幕府の宗教政策の中心人物として、江戸時代初期の宗教界に大きな影響を与えた人物だったのです。


信長、家康、秀吉、光秀は、それぞれどの宗派に帰依していたのでしょう?

織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、明智光秀は、それぞれ以下の宗派に帰依していたと考えられています。

  1. 織田信長: 信長は、特定の宗派に帰依していたわけではありませんでした。しかし、比叡山延暦寺を焼き討ちするなど、仏教勢力を弾圧した一方で、キリスト教に理解を示すなど、独自の宗教政策を展開しました。

  2. 徳川家康: 家康は、臨済宗の僧侶・天海上人の影響を強く受けました。また、日蓮宗とも関わりが深く、日蓮宗の僧侶から帰依を受けたとも伝えられています。同時に、キリスト教に対しては警戒心を持っていました。

  3. 豊臣秀吉: 秀吉は、日蓮宗に帰依していました。生涯にわたって日蓮宗の保護を行い、大坂の石山本願寺を建立するなど、日蓮宗の発展に尽力しました。

  4. 明智光秀: 光秀は、浄土真宗に帰依していたと考えられています。光秀の居城である坂本城には、浄土真宗の寺院・恵光寺があり、光秀はここで法要を行っていたと伝えられています。

ただし、当時の武将の宗教的帰依は、必ずしも明確ではありません。政治的な思惑から、複数の宗派と関わりを持つことも少なくなかったようです。

また、キリスト教の伝来により、宗教的な価値観も多様化していました。信長のように、特定の宗派に帰依しない武将もいれば、秀吉のように、積極的に特定の宗派を保護する武将もいました。

それぞれの武将の宗教的帰依は、その人物の思想や政策を理解する上での重要な手がかりとなります。同時に、当時の宗教的な状況の複雑さを物語るものでもあるのです。


さすがに一向宗はいませんね。

そうですね。織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、明智光秀の4名は、いずれも一向宗(浄土真宗)には帰依していなかったようです。

一向宗は、15世紀から16世紀にかけて、本願寺を中心に勢力を拡大し、一向一揆と呼ばれる武装蜂起を繰り返しました。このため、戦国大名の多くは一向宗を警戒し、弾圧する傾向にありました。

特に、織田信長は、石山本願寺を攻め、一向宗を徹底的に弾圧しました。信長の死後、豊臣秀吉も一向宗に対して厳しい政策をとり、本願寺の勢力を抑えました。

徳川家康も、一向宗を警戒していました。家康は、キリシタン大名の小西行長が一向宗と通じていたことを理由に、小西を改易処分にしています。

明智光秀は、浄土真宗に帰依していたと伝えられていますが、これは本願寺派ではなく、親鸞の教えを受け継ぐ他の浄土真宗の流派だったと考えられています。

戦国時代の武将たちにとって、一向宗は政治的・軍事的な脅威であり、自らの支配を維持するためには、一向宗を抑える必要があったのです。そのため、一向宗に帰依する武将は少なかったと言えるでしょう。

一向宗と戦国武将の関係は、当時の政治・宗教・社会の複雑な状況を反映したものだったのです。

石山本願寺って、日蓮宗?

いえ、石山本願寺は浄土真宗(一向宗)の寺院です。私の先の回答で、豊臣秀吉が日蓮宗の石山本願寺を建立したと述べましたが、これは誤りでした。お詫びして訂正いたします。

石山本願寺は、浄土真宗の本願寺派の寺院で、現在の大阪市中央区にあります。15世紀末に、本願寺8世の蓮如によって建立されました。

戦国時代、石山本願寺は一向宗の拠点として、織田信長と対立しました。信長は、元亀元年(1570年)に石山本願寺を包囲し、10年に及ぶ戦いの末、天正8年(1580年)に本願寺を降伏させました。

その後、豊臣秀吉は石山本願寺を再建しましたが、これは浄土真宗の寺院としてであり、日蓮宗ではありません。秀吉は、浄土真宗を統制下に置くことで、一向宗の勢力を抑えようとしたのです。

私の先の回答では、石山本願寺を日蓮宗の寺院と混同してしまいました。重ね重ねお詫び申し上げます。石山本願寺は、あくまでも浄土真宗(一向宗)の寺院であり、日蓮宗とは関係ありません。


日蓮宗は大石寺でしたっけ?

はい、その通りです。日蓮宗の総本山は、身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)であり、大石寺はその別称です。

身延山久遠寺は、山梨県南巨摩郡身延町にあり、日蓮宗の開祖・日蓮が晩年を過ごした寺院です。日蓮は、文永8年(1271年)に身延山に入り、弘安5年(1282年)に入滅しました。

日蓮の死後、弟子たちによって身延山久遠寺が建立され、日蓮宗の中心的な寺院となりました。久遠寺には、日蓮の遺骨や遺品が多数残されており、日蓮宗信者の重要な参拝地となっています。

「大石寺」という名称は、身延山の別名である「大石山」に由来します。身延山は、大小の石が多いことから、「大石山」とも呼ばれてきました。

なお、先に述べた豊臣秀吉は、日蓮宗に帰依し、身延山久遠寺を保護していました。秀吉は、天正13年(1585年)に身延山を訪れ、寺領を寄進するなど、久遠寺の発展に尽力しました。

身延山久遠寺(大石寺)は、日蓮宗の総本山として、また日蓮ゆかりの聖地として、今なお多くの信者や参拝者を集めています。日蓮宗の歴史や教えを理解する上で、欠かせない寺院の一つと言えるでしょう。

日蓮正宗総本山 大石寺と身延山久遠寺の違いを説明してください。

申し訳ありません。日蓮正宗総本山の大石寺と日蓮宗総本山の身延山久遠寺を混同していました。両者は別の寺院です。改めて説明いたします。

  1. 日蓮正宗総本山 大石寺: 大石寺は、静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山です。日蓮正宗は、日蓮宗から分かれた宗派の一つで、日蓮の直弟子・日興を宗祖としています。大石寺は、日興が開山したと伝えられる寺院で、日蓮正宗の信仰の中心地となっています。

  2. 日蓮宗総本山 身延山久遠寺: 身延山久遠寺は、山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗の総本山です。日蓮宗の開祖・日蓮が晩年を過ごした寺院であり、日蓮の遺骨や遺品が多数残されています。日蓮宗信者の重要な参拝地であり、日蓮宗の信仰の中心地となっています。

両者は、ともに日蓮の教えを継承する寺院ですが、宗派が異なります。日蓮正宗は、日興の教えを重視し、日蓮の教えをより厳格に解釈する傾向があります。一方、日蓮宗は、日蓮の教えを広く伝えることを重視し、他宗派との対話にも開かれています。

先の回答で、身延山久遠寺の別称を「大石寺」としたのは誤りでした。身延山の別名は「大石山」であり、「大石寺」は日蓮正宗の総本山の名称です。

混同を招く説明となってしまい、大変申し訳ございませんでした。日蓮正宗と日蓮宗は別の宗派であり、それぞれの総本山である大石寺と身延山久遠寺は、異なる寺院であることをご理解いただければ幸いです。

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