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『センスの哲学』読んだよ

千葉雅也『センスの哲学』読みました。

以前読んだ同氏の『勉強の哲学』や『現代思想入門』も好きだったので、入門的哲学書三部作の最終作と位置づけられる本書も手に取ってみたのでした。

著者は、小説でも注目活躍されてる哲学者の千葉雅也氏。日本で最も有名な哲学者の一人なんではないかと思います。そんな著者の最新作、既に広く話題となってるようです。


で、普通の書評ならここで内容の解説めいたことを始めると思うのですが、さすが哲学書だけあって、江草が説明するには正直手に余ります。

もちろん、入門書としてかなりわかりやすく親切に書いてくださってるのですが、それでも本書が扱っているテーマはなかなかに濃厚で深遠なところまでたどりついてるので、これをサクっと単純な要約的意味としてまとめてしまうことは難しい。

というより、そうしたサクっとした要約的な意味付けで本書を片づけないでいいように、あえて入門書としてわかりやすく親切に書いてくださってるのだと思います。本書の「サスペンス」に読者が耐えられなくなることがなく、議論を一連のリニアなシーケンスとして味わってもらうためにこそ、できる限り分かりやすく説明されている。そういう風に感じます。

なので、今回は概要の説明抜きにして、本書を読んでない人が置いてけぼりになるのを覚悟の上で、江草が本書を読んで感じたことを衝動のおもむくままにガリガリと描いてみようと思います。

もしかすると、逆にこの方が本書の魅力も伝わるかもしれませんし。


さて、本書で重要なキーワードとして出てくる「リズム」。物事の凹凸の配列。

この「リズム」の話を読んで、江草個人的には宇宙のイメージが想起されました。

話によると、宇宙は無のゆらぎからビッグバンを通して生成されたとのこと。ゆらぎということはムラでもあって、すなわち「うねり」に近いイメージがあります。

百聞は一見にしかず。これは宇宙の原初のゆらぎを反映しているとされる宇宙マイクロ波背景放射の観測画像です。


NASA / WMAP Science Team, Public domain, via Wikimedia Commons

視覚的な着色はもちろん人工的な便宜上のものではあるのですが、何かしらの濃淡疎密があることには違いはありません。そこそこバラバラで乱雑ではありつつも、この辺が空いてるな、このへんが密だな、ということが分かる。つまり凸なところと凹なところがあって、その「うねり」や「ビート」が感じられます。宇宙そのものが根源的に抱えてる「リズム」の存在がここにある。

星々についてもそうでしょう。宇宙というのは恐ろしいほどに大半が「無」で占められてる空間です(ダークマターがあるっぽいから必ずしも「無」じゃないぞとか言い出すとややこしいのでそこは置いときましょう)。しかし、極めて稀ながら物質が凝縮された存在として星々が存在しているわけです。
無限とも思えるほどの暗黒の無の空間の「反復」の中で、突如現れる希少な「差異」的存在としての「星」。これはあまりに究極的な「0→1」の「ビート」です。宇宙の「反復」を破るこの星々の「差異」にはどうしても「崇高」な感覚を覚えてしまいます。

この「崇高さ」は、逆にこうした「リズム」がない宇宙をイメージしてみるとより分かりやすいかもしれません。
全てが均一に凸も凹もなく配置された宇宙。それはすなわちエントロピーが極大化した宇宙ということになります。この状態では、全てが均一で変化がないので、空間も時間も消滅してしまいます。これは「宇宙の熱的死」と呼ばれる状態で、我々の宇宙もゆくゆくはこの状態に至るという説もあります。

「リズム」がない宇宙は死んでいるのと同然。

つまり、「リズム」があること、「うねり」や「ビート」が存在していること、これ自体が宇宙の生命的な「崇高さ」の本質であると言えるわけです(ちょっとスピリチュアルな言い回しにはなってしまいますが)。

ひいては、この延長線上に、人類の存在の「崇高さ」を感じることもできると言えます。人類が存在し生きて自分の意思で何かの活動を営めること、これは宇宙レベルの視点においてあまりに壮大なイレギュラー的な「差異」であり、宇宙の「無」の反復に対する驚異的な現象なのです。無が支配する宇宙なればこその「そうなるはず(生物なんているはず)はなさそう」という予測に反して、なぜか結果として人類が今ここにこうして息づいているというこの圧倒的「偶然性」への驚き、ここに「崇高さ」を感じないのは難しいでしょう。


で、本書内では、人は何かのモデルを真似をしようとして制作をするところがあるという話がありました。同時にそうしたモデルに合わせようとしすぎるところから離脱することの大切さも説かれていますが、ともかくも人には何かを真似しようとする、再現しようとするという本能的性格があることは誰もが認めるところでしょう。子どもなんてすぐに「ごっこ遊び」を始めますしね。

ここで、江草の大胆な仮説を述べてしまうと、いわゆる「アート」というのは、本能的に宇宙を真似しようとしている人類の「ごっこ遊び」ではないかと思ったんです。

宇宙が結局は「リズム」そのものであるがゆえに、人もその「リズム」が秘める「崇高さ」に惹かれ、つい自分たちの手でもそれを再現したくなってしまっているのではないか、と。そしてそれは同時に、自分自身も宇宙の一部の「リズム」である人類が、自らの「崇高さ」を確認する営みとなっているのではないか。

これはもちろん「宇宙からのエネルギーを受けとろう」的な怪しげなスピリチュアルな意味ではありません(多分)。
「宇宙が何かくれる」とかそういう話ではなく、ただ宇宙がここにあって、そして、その一部として自分が偶然にもここにあってしまっていることに対する感嘆や畏怖あるいはその愉快さや困惑を表現したもの。それがアートであるのではないかということです。

たとえば、自然の中を散策していて、パッとどこかの風景が目に止まった時に、その美しさに対する驚嘆、いわゆる「センス・オブ・ワンダー」を抱き、それを絵に描きたいと思う。写真に残したいと思う。詩を詠みたいと思う。これは見ようによっては宇宙に対する人間の「ごっこ遊び」でしょう。

宇宙の「リズム」を人の手による「リズム」で何とか模写しようとする。この試みを人が本能的に衝動的に否応無しにしてしまうというのが、アートやセンスの本質につながっている気がするのです。

なお、「ごっこ遊び」と言うと、「幼稚」とバカにしてるかのような印象を与えてしまうかもしれませんが、ここではそうしたネガティブな意図はなく、「人が幼少期でさえ本能的にやってしまうこと」の象徴としてこの表現としています。

考えてみれば、(広い意味での)宇宙の中で生存するために合理的に進化した「センス」という人間の機能が、「宇宙」≡「リズム」を感じ取るためのものとなっているのはさほど不思議ではないのでしょう。それゆえにそれを写し取って自分のものにしようとしてる性質を自然と伴ってる。

ここで面白いのが、おそらくはこの写し取る作業の中で、宇宙の「リズム」が含んでいる「崇高さ」をも、人類の「アート」は自分のものにしようとしていることです。

(先ほど江草が勝手に評した言葉ですが)「合理的に進化した機能」と言うと無味乾燥でつまらないものを想像するかもしれません。
しかし、そもそも宇宙(あるいは地球、人類)が大変な偶然のもとに存在している、果てしない無の「反復」の中に浮き上がった大変に「崇高な差異」であったことを考えると、「センス」はそれをこそとらえようとするのではないでしょうか。すなわち、「センス」が宇宙を感じ取ろうと合理的に機能しているからこそ、その際立った特徴たる「崇高な差異」に対し鋭敏に研ぎ澄まされてる可能性がある。ひいては、そうした通常の合理的思考では予測不可能な「崇高な差異」でありたいという欲を「アート」が宇宙というモデルに対して抱いている可能性はありえるでしょう。

つまり、宇宙であまねく反復される単純で虚無的な法則からも逸脱したいと欲する、そうした勢いを持った崇高性も追い求めてこそ、宇宙に対する模倣が模倣として成り立つ。こういうイメージです。

この宇宙の反復と差異の「リズム」を、その際立って崇高な「差異」をも伴って自分で再現しようとすること。これはある意味で「再現」という言葉が本来含意するはずの「法則性」および「予測可能性」から逸脱することを含んでの「再現」なので、ある種の矛盾ではあるのですが、だからこそ面白いとも言えます。

これが「センス」に依って立つ「アート」のありようなのではないか。江草はそう思ったわけです。


この上で、勢いで、どんどんもっと大胆なことを言ってしまうと、だから「アート」は宇宙と我々人類が在ることの祝祭のようなものなのかもしれません。宇宙のリズムを模倣し、そしてその退屈で寒々しい予測を裏切ることで、梵我一如の境地を目指し賛美する祝祭です。

もっとも、祝祭というとポジティブなイメージに過ぎるところがあるかもしれません。この宇宙になぜか偶然的に生まれ出てしまったことに戸惑い苦悩しているところも私たち人間にはあります。この場合は、祝祭とは逆に呪いの儀式と言うべきなのでしょう。そういうネガティブな衝動も確かにアートには込められている気もします。

冠婚葬祭という古今東西の人類が本能的に行ってる儀式集が、歓喜や祝いの気持ちだけでなく、畏怖や悲しみの気持ちをも含んでるのが象徴的なように、「アート」は宇宙を模すものではありつつも、その「存在してしまっていること」の快も不快も共に包み込んだ、ある意味でニュートラルな営みな側面があります。

しかし、その一方で快や不快がいずれにしたって「存在している」という点で「現に宇宙や我々は0(無)でなく1(有)となってしまっていること」は「我思うゆえに我あり」的に私たちは否応無しに認めざるをえないのです。だから、このことを「センス」してしまっていることから来る衝動が、その機能の合理性をも超えてあふれ出てしまったものの発現として「アート」が出てくる。

このようにアートと宇宙の関係を解釈してみると、なかなかに面白いし、この形式自体が全体として非常に美しい。そのように江草は感じるのです。


あと、「うねり」と「ビート」の関連で言うと、千葉氏が愛用されてるというアウトライナーツールにも紐付けて色々考えられそうな気がしました。

前々から思ってたんですが、アウトライナーって「波」っぽいですよね。インデント・アウトデント・シェイクには「うねり」感がある。

一方で、ObisidianやScrapboxなどのノートやカード単位の扱いを重視するツールは「アトミックノート」などとよく表現されます。これはすなわち「粒子」です。こっちは「ビート」感がある。

この辺の、アウトライナー的な「うねり」感と、アトミックノート的な「ビート」感も、掘り下げていくと面白そうだなと思うのですが、まあ、すでに宇宙論との紐付けでだいぶ長くなったので、これはこれぐらいのほのめかしで収めておきましょう。


というわけで、以上、読後の勢いで思いついたことを書いちゃいました。

なお、言わずもがなと思いますが、本稿で書いてることは江草が本書を読んで勝手に着想したことに過ぎませんから、本書で千葉氏が主張していることでは全然ありません。宇宙論の話なんて本書では出てこないですからね。その辺、万が一にも誤解無きようにお願いいたします。

あと、「リズム」とか「うねり」とか「ビート」などの、本書内で出てきたキーワードの使い方も千葉氏の定義と違う誤用がふんだんにまざってるかもしれません。これはもう完全に江草の責任ですので申し訳ありません。
ただ、本書を読んでパッと抱いたイメージのまま、勢いで頭に湧いたイメージを書きなぐりたくなってしまったのです。完璧に語彙の定義をトレースするのはとりあえず放り出して、興奮の余り走ってみたくなった。それでできあがったのが本稿だと思っていただければ幸いです。

大変に面白かった、オススメの一冊です。

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