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人類はアンコトローラブルと対峙できるか

先日感想を書いた『人生のレールを外れる衝動のみつけ方』

と、昨日感想を書いた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』。

あくまで別々のテーマを扱ってる書籍なのですが、その両者に通底するポイントが潜んでるように思われます。

今日はその点について書いてみましょう。

(こうやってしつこく手を変え品を変え本をしゃぶり尽くすのが読書の出汁を味わえる楽しい営みなのです)


で、結論から言うと、この両者に共通するのは「アンコトローラブルなものとの対峙」を重要視しているところではないかと江草は感じました。

たとえば『人生のレールを外れる衝動のみつけ方』では、見つけるべき「衝動」を幽霊のメタファーを使って「取り憑かれる」と表現しています。これには、巷にあふれる「自分が本当にやりたいことを実現するために合理的に人生設計をしよう」という設計主義と一線を引いている(なんなら批判している)著者の気持ちが表れています。
つまり、そうした自分の意思でコントローラブルなものとして人生を歩むのではなく、アンコトローラブルな存在「衝動」と出会いながら人生を歩むべきなのではないか、そういう提言をされてるわけですね。人生には自分でコントロールできない偶然や不確実性が必要になると言っています。

他方の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』。
こちらは、読書をノイズと出会う営みであると解釈しています。ノイズとは、あくまで自分が積極的に求めていた情報ではない多様な想定外の文脈のこと。インターネット時代においては、自分が欲しい情報だけをピュアに即座に手に入れる合理性・効率性が重視されているけれど、それはあまりに人間的でない。そうした自分が欲しい情報だけではないノイズも摂取すること、すなわち「読書をすること」を人々のうちに取り戻そうというのが著者の主張です。
つまり、アンコトローラブルな存在「ノイズ」と出会う体験を含んだものとして読書を重要視し、それへの回帰を提言されています。

このように、「衝動」あるいは「読書」と、その注目対象は外見的には異なるものの、どちらも「アンコトローラブルなもの」と私たちが対峙することの重要性を訴えている書籍であるわけです。


別方面から同時期に「アンコトローラブルなものとの対峙」を主張する書籍が出ることからして、現代社会では「アンコトローラブルなものとの対峙」が忌避されていること、すなわち「コントローラブルであること」への執着が著しいことが見て取れます。

「アンコトローラブルなもの」とは「不確実性」とも表現できると江草は考えています。現代は著しく不確実性を嫌い、コントロール可能(計算可能)であることを過剰なまでに追い求めてる時代となっているというわけです。

実は、江草もこのテーマを扱った記事を以前書いていて、まさしくこうした「不確実性との対峙」を今後の社会課題として取り上げています。

統計とか保険とか、今の時代みんな大好きじゃないですか。

これはすなわち、「不確実性」を「リスク」という一段コントローラビリティが上がる概念へ変換しようとしている営みです。言ってしまえば、不確実性から逃避しようとしている人類の象徴的な活動です。

ところが、やっぱりどうしても「不確実性」の影からは完全には逃げ切れない。

頼みの統計だって、そもそもからして「αエラー」や「βエラー」のようなエラーを内包しているわけですし、様々な仮定の上で統計解析モデルが成立している以上「仮定がそもそも誤っているかも」という不確実性からは逃れられません。

保険だって、未来の推計という本来どうしても不確実性から逃れられない行為をしています。実際人口バランスの想定が予定から乖離してきた結果、矛盾が隠しきれなくなった年金保険制度をどうしたものかと世の中大わらわになっています。

これらの営みが無意味とか無価値とか言おうとしているわけではありません。人類の英知が生んだ強力なツールとしてとても有用なものであることには違いないと思います。

ただ、これで完全に不確実性から逃げおおせようとして、色々と無理が出てきたというのが現在なんだと思うんですね。不確実性を恐れ嫌うがあまりに、統計や保険などのツールに対して過大な期待、要求が与えられることになってしまった。

たとえば、P値を「帰無仮説がほんとは正しい確率」とする誤解が広くあるのは、問題を「不確実性」から「リスク」に変換したいという人々の願望が反映されているからではないかというのが江草の見立てです。

何とかして「不確実性」を消し去って欲しい。計算で私たちの将来の「リスク」を明らかにしてくれ。自分で自分の思いのままに「想定外」がない人生を設計したい。そうした人々の願望を反映して、世の中では統計や数値目標や設計主義的ノウハウがあふれることになりました。でも、これはこれで、無理が過ぎて、「世の中が窮屈になった」「私たちの社会や人生が人間的でない気がする」という苦悩を人々は覚え始めたんですね。

それで、反動として現れたのが「私たちはあまりにアンコトローラブルなものを忌避し過ぎてしまったのではないか」という今回の潮流なんだと思うんです。アンコトローラブルなものを完全に排除しようというのは、かえって無理が来る。そうした反省のステージに至ったというわけです。

もっとも、「不確実性」というのは、人間にとって大変に根源的な恐怖をもたらすものです。これに対峙するというのは一筋縄では行きません。

おそらくかつては、この恐怖の緩和に宗教が大きな役割を果たしていたのでしょう。信仰を通して、「偉大な存在」に自らの「不確実性」の処遇を手渡すことで、「不確実性」を抱えるという個人にとってはあまりに大変な課題から解放されることができた。まさしく肩の荷が降りたのです。

近代化とともに宗教の影響力が衰退して、代わりに科学的手法(それこそ統計のような)や合理主義(設計主義志向に表れてる)に「不確実性解消」の期待がかかるようになったけれど、このたび、そのやりすぎの弊害や限界が徐々に感じられるようになってきて、それに頼り過ぎるのも厳しいかという段になってきた。

だから、ついに逃げ切れなくなって「アンコトローラブルなものと対峙せよ」という時代になりつつある。けれど、おそらくこれはこれで非常に大変なところがあるんですね。なにせ、もともとずっと人類が逃げ惑ってきた対象なのですから。

どうしたらいいかというのは江草にも分かりません。しかし、ついに人類は「不確実性」からの逃避行が限界にきて追いつめられたのだろうということはひしひしと感じます。

それでももっともっとさらに逃げて逃げて逃げ続けて窮屈な狭い部屋に身を隠し自らを押し込めるのを良しとするか、恐ろしくとも勇敢に「不確実性」というモンスターの前に身をさらけだすのか。あるいは、何か今までにない斬新な方法でモンスターを倒すことができるのか。

いえ、モンスターというと語弊がありましたね。
たとえば冒頭に取り上げた二冊は、「不確実性」はモンスターと評されるべき「敵」ではなく、人生でともに歩んでいくべき「パートナー」であるという描き方なのですから。「不確実性」は私たちにとって敵ではないという認識、これもまた「不確実性」と対峙するため(和解をするため)のひとつの考え方だろうと思います。


ともかくも、そんな感じで、

「人類はアンコトローラブルと対峙できるか」

これが今後の人類社会における大きな課題になると思ってます。

このことを再確認させてもらえた最近の読書体験でした。

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