見出し画像

しごとより、LIFE.

たまたまポスターで見かけたのですが、厚生労働省によると今月は「過労死等防止啓発月間」なんだそうです。


https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/karoushizero/index.html
厚生労働省


この「しごとより、いのち。」というスローガンが江草の価値観にも近いので、つい目を引かれてしまったのでした。

最近でも我らが医療界では甲南医療センターの専攻医が過労死自殺をした件が話題となってましたし、仕事のために命を落とすことの虚しさ、悲しさをもっと訴えていく必要があるでしょう。


ただ、この厚生労働省による「しごとより、いのち。」というスローガン。だいぶ好きではあるものの、もう一歩物足りなさも感じています。

物足りないのは「いのち」という用語の部分です。というのも、「いのち」という表現だとどうしても「生きてるか死んでるか」という二項対立での捉え方にしかなりにくいんですよね。

もっとも、今回のこのスローガンはあくまで過労死防止のキャンペーンのためのものなので、とりあえず「死なないこと」を最優先課題にするのは当然ではあるのですが、やっぱり「生きてるか死んでるか」では解像度が粗めの捉え方であることは否めないと思うのです。

極論「いのち」という表現だと「なんでも良いからとりあえず一秒でも長く生きてればいい」という生存期間主義、延命主義になりかねません。それはそれで大事とはいえ、皆さんもそれだけではなんか足りないと思いませんか。何か大事な要素を落としてしまっているような感覚がないでしょうか。

これはやっぱり「いのち」という言葉のせいだと思うんですよ。実のとこ厚生労働省のキャンペーンでも「すべての人が健康で、毎日イキイキと」というフレーズが登場していますが、そのニュアンスが「いのち」では捉えられていないのです。この「健康でイキイキとしている感じ」これが取りこぼされてます。

だから、江草個人的には「いのち」よりもここは「LIFE」という言葉を推したいです。ここnoteでフォローしていただいてる方々はお気づきの通り、江草は前々から「LIFE」を頻用しています。つまりはお気に入りの言葉なのです。

なぜ「LIFE」がいいかというと、「LIFE」には「命」だけでなく「生活」とか「人生」というニュアンスも含まれるからです。「LIFEが大事」と言う時、それは「ただ命があればいい」ということになりません。たとえ状態として生きていたとしても、生活や人生が豊かで充実していないと「LIFE」は完成しないのですから。

ゲームでもダメージを受けた時に「LIFEが減った」などと言われます。別にまだ死んだわけではないけれど、確実にプレイヤーの十全でヘルシーな状態が損なわれたことを「LIFE」は見事に表現しているのです。

なので、「すべての人が健康で、毎日イキイキと」というニュアンスを出したいなら「いのち」よりは「LIFE」の方がふさわしいはずです。ここは「しごとより、LIFE.」であるべきです。

もっとも、スローガンとして分かりにくいしゴロが悪い気はするので、単純にキャンペーンのスローガンとしてはやっぱり「しごとより、いのち。」の方が座りは良さそうですけれど。


ついでにもう一つ厚労省のキャンペーンに物申すとすれば、このスローガンを提示している厚労省自身がまだまだ「しごとより」を本質的な意味で肯定できてないんじゃないかと感じられます。

口ではそう言ってるものの、まだ「しごとより」を本心から思ってない印象があるのです。端的に言って、仕事を絶対視せずに相対化することがまだまだできていません。

というのも、先述の「毎日イキイキと」のフレーズに続く言葉が、結局は「働き続けられる社会へ。」だからです。

キャンペーンで提示されてる文をそのままちゃんと書くと

すべての人が健康で、毎日イキイキと働き続けられる社会へ。

です。(冒頭掲載の画像で確認できます)

つまり、厚生労働省はスローガンとして「しごとより」と言っておきながら結論が「働き続けよう」なわけです。もっと言うと「すべての人が……働き続けられる」です。例外なく全員に対して言っています。(「すべての人」という主語が「健康で」だけに係るという解釈も一応考えましたがちょっと無理な気がします)

これ、あんまり「しごとより」って本気で思ってなさそうですよね。結局は「働くことは全員に絶対的に必要で重要である」という感覚を基盤としているのですから。

いやらしい見方をすれば「命の危険がないなら全員働け」とか、もっと言えば「死んだら働き続けられなくなるから仕事様のためにも死んだらダメだぞ」と言ってるようにも見えます。確かに「イキイキと」と書いてはいるものの、先ほども述べたように「いのち」と言う表現ではそのニュアンスが消えてしまうので。

実際、このキャンペーンで提示されてるさまざまな取り組みは「長時間労働の解消」や「ハラスメントの防止」といったものばかりです。確かにこれらは非常に重要な取り組みです。もちろん江草も賛同しています。

ただ、仕事内容の質的な問題については触れられてないんですよね。それは「イキイキと働けるかどうか」という点において非常に重要であるはずなのに。

つまり、どうも厚労省的には「長時間労働」や「ハラスメント」といった分かりやすい悪者がいなくなれば、それだけで人々がイキイキと働けるかのように思ってる節があるのです。

でも、果たしてそうでしょうか?


たとえば、最近ではホワイトな職場で「成長が感じられない」とか「仕事内容が退屈すぎる」といった理由で退職する若手が増えているんだとか。

この一例を見ても、ただ単純に長時間労働やハラスメントがなくなっただけでは、人がイキイキと働けるための十分条件でないことは明らかでしょう。

あるいは、日本の社員のエンゲージメント指数(仕事に対するモチベーション)は極めて低いことが知られています。

エーオンヒューイットによる「2014年アジア太平洋地域の社員エンゲージメントの動向」では、日本でエンゲージメントレベルが非常に高い社員は8%(22%)、ある程度高い社員は26%(39%)、低い社員は32%(23%)、非常に低い社員は34%(16%)となっています。ちなみにカッコ内は世界平均で、日本の会社はエンゲージメントレベルの高い社員がものすごく少なく、低い社員がものすごく多いことがわかります

橘 玲. 不条理な会社人生から自由になる方法 働き方2.0vs4.0 (PHP文庫) (p.13). 株式会社PHP研究所. Kindle 版.


もっと言えば、モチベーションが低いのは日本に限りません。世界の側だって十分とは言えないレベルにとどまっています。

先ほどの引用の()内が世界の水準なのですが、それでさえ「イキイキと働いている」と呼べるレベルの社員は22%と言うのですから。

さらにこちらのギャロップ社の調査によると、仕事に前向きに取り組んでいる人は13%という驚きの低さです。


さすがに、世界中でここまで多くの人の仕事へのモチベーションが低いことを、すべて長時間労働とハラスメントだけで説明がつくとするのはかなり乱暴な解釈ではないでしょうか。何かもっと根本的な問題があるのではと疑うべきところでしょう。

人類学者のデイヴィッド・グレーバーが著書『ブルシットジョブ』で提示した「本人にとってさえ意義が感じられないクソどうでもいい仕事が世の中に多数存在している」という主張が世界的に多くの賛同者を得ていることも合わせて考えれば、そもそも「仕事」自体の方にも相当に問題があると考えるのが自然です。

つまり、仕事内容の質的な問題を無視したままで「すべての人がイキイキと働く社会」を目指すのは流石に雑すぎるのです。


実際、「仕事内容の質」という観点に思いを馳せれば、この問題の解像度が格段に上がります。

考えてみれば当たり前のことですが仕事の内容は千差万別であり、その中にはやっぱりイキイキと働くのが難しいタイプの仕事もあるわけです。

これは必ずしもその仕事でイキイキと働くのが誰にとっても不可能であると言ってるわけではないのですが、そういうイキイキと働くのが非常に難しい仕事(典型例が「クソどうでもいい仕事ブルシット・ジョブ」)が世の中に多いならば、万人が「仕事でイキイキとすること」つまり「イキイキと働くこと」には限界があるのだとは言えるでしょう。

そして、先ほど見たデータからしても、現状大多数の人は仕事に前向きに取り組めていません。これを「長時間労働」や「ハラスメント」だけで説明するのは難しいと思われますから、おそらく「イキイキ働くのが難しい仕事」が多数存在しているであろうと推測されます。であれば、現状では「すべての人が仕事でイキイキすること」は極めて難しい情勢と言えます。

まず、話はこのことを認めるところからです。

もちろん「難しいからこそそれを目指すのだ」という考えもあるでしょう。それはそれで一意見です。でも、江草が問いたいのは「そこまでして仕事にこだわらないといけないのか」という点です。

そこで提案なのですが、「すべての人がイキイキと働き続けられる社会」を目指すのではなく「すべての人がイキイキと生き続けられる社会」を目指すことにしてはいかがでしょうか。言い換えれば「仕事の充実」ではなく「人生の充実」を目指すのです。

「生きること」には「働くこと」が自然と含まれますから、より大きな集合です。これならば、仕事でイキイキとすることができない人が他の活動を基盤にしてイキイキとすることも許されます。仕事でイキイキすることを否定する発想でもないので、イキイキと働ける人はもちろんそれはそれでいいことになります。より可能性が広がるのですから、目指しやすい現実的な目標と言えます。

どうしても目指したいと言うならば最終目標に「すべての人がイキイキと働き続けられる社会」を置いてもらっても構いません。ただ、そうだとしてもその中間過程として、先に「すべての人がイキイキと生き続けられる社会」を目指すのが自然ではないでしょうか。

ここで、「いや、そんなのはダメだ、絶対に全員が働かなきゃいけない」と頑なに「仕事」にこだわるなら、それこそスローガンの「しごとより」の文言は一体何だったのかという話にならないでしょうか。やっぱりただ「命だけ守れたらとにかく働け」という意味なのですか?


ここが非常に重要な分水嶺だと思うんですよ。

「イキイキと生きること」と「仕事をすること」のどちらを取るのか。すなわち江草が言うところの「LIFE」と「しごと」のどちらを取るのか。厚生労働省目線で言えば「厚生」と「労働」のどちらを最終的には優先するつもりなのか。

ここでは、厚生労働省、ひいては私たち社会全員の本心が問われているんです。

一体私たちが目指しているのはどっちなんだと。


「しごとより、いのち。」のスローガンでは、あるいは「長時間労働」や「ハラスメント」のような目立つ分かりやすい問題に注目しているだけでは、この問いが炙り出されてきません。

だから、江草は厚生労働省に代わってちゃんと表明したいと思います。

「しごとより、LIFE.」であると。

仕事はすべからく私たちの人生や生活に従属するものでなくてはいけません。決してその逆ではないのです。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。