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「三方よし」から「四次元よし」に

ひとつ目指すべき方向性としてWIN-WIN関係ってよく言うじゃないですか。

これは、WIN-LOSE関係、つまり、一方が勝って(得をして)、もう片方が負ける(損をする)よりも、双方ともに勝てる道(得できる道)が良い方向性だという考え方ですね。確かにそれはその通りだと思います。

ただ、このWIN-WIN関係も盲点が知られています。それが第三者に対する影響です。取引の当事者である二者がWIN-WINでも、その取引に臨席していない第三者がLOSEになることがある。いわゆる負の外部性ですね。

たとえば、消費者は安価に質がいい商品を買えて企業は利益が上がって WIN-WINだと言っていたけど、その実、公害を垂れ流していて工場の周辺住民が困り果ててるとか。

あるいは、患者が正直必要性が低いと思われる検査を希望している時に、医者としてもそれを無下に断ると話がややこしくなるし外来も混雑してるからまあいいかと検査をオーダーしちゃう時。そうすると患者は希望の検査を受けられて満足だし、医者も早く話がまとまって良かったと安堵する。これもある種のWIN-WIN関係なわけですが、その検査の対価たる保険料は社会の他の人たちが負担しているので、彼ら彼女らからすると「無駄な検査するな」とLOSE感が出るわけです。

そんなわけで、契約や取引の当事者双方だけでなく、周りの社会全体にいいことをしよう、つまり負の外部性を解消し、できれば正の外部性を達成しよう、というのがWIN-WIN関係の発展形として求められています。いわゆる近江商人の「三方よし」ですね。

近江商人の経営哲学のひとつとして「三方よし」が広く知られている。「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと、社会に貢献できてこそよい商売といえる」という考え方だ。

当事者という狭い関係空間だけ見る視野から、社会全体を見る広い空間的視野で行こうと。

なるほど、これもとても良い考え方だと思いますし、最近ではこうした意識は広がってきてるのかなという感触はあります。


ただ、もしかするとこれでもまだ盲点があるんじゃないかと江草はふと思ったんですね。

「当事者たちだけが満足してるのではなく、社会の他の人たちも満足してる形にしよう。私もあなたも社会もみんな喜んでる。WIN-WIN-WINだ。」

この感覚を先ほどあえて「広い空間的視野」と表現しました。
江草が言いたいことにうすうす気付かれたかと思います。
つまり、もしかするとここには「時間軸的な視野」が欠けてる可能性があるのではないかと。

「私もあなたも社会の人々も喜んでる、満足してる」と言った時、「喜んでる、満足してる」と言える主体の存在を暗黙のうちに前提としています。それはすなわち、今生きている人たちを想定しているのであって、「喜んでる、満足してる」などの感想を言えない存在、「まだ生まれてない未来の子供たち」か「もう死んでる過去の先祖たち」が無意識のうちに死角に入ってしまうおそれがあるのではないか。そのように感じたわけです。

つまり、これは、「空間的な第三者の利害には思いをはせていても、今度は時間軸的な第三者たちが見えていない」、私たちがそういう事態に陥ってる可能性はないか、という問いなのです。

実際、取引の当事者たちも周りの人たちも喜んでたら、その意義に疑問を抱くのは難しいと思います。でも、厳密に言えばそれだけでは過去や未来の人たちも喜んでくれるかどうかの保証はありません。


たとえば、江草は以前「今の世界的経済成長は実は将来の世界人口を犠牲にしてるだけなのではないか」という主旨の記事を書きました。

(これ自体に議論があるのはここでは置いておいて)世の中で言われてる通り、経済成長によって実際に私たちの社会が豊かになってるとしましょう。公正な市場取引というWIN-WIN関係の積み重ねで、ひいては社会全体の生産性が向上し経済成長を果たしたという、自由資本主義社会の王道的ストーリーです。

この場合、買い物や仕事をする人たちも楽しいし、社会も豊かになってハッピーと、「WIN-WIN関係」をさらに発展させたまさしく「三方よし」と言うべき状況と言えます。

ところがその一方で、急激に世界的に少子化が進んでいる。今現在生きている当の私たち本人は豊かで幸せに暮らしてるけれど、ひっそりと未来の人々が消えていっている。

これは、私たち「今を生きてる人間たち」だけが「WIN-WIN-WINだ」とか「三方よし」だなどと喜んでるだけなのであって、実はひそかに「未来を生きる人間たち」がLOSEしてるだけなんじゃないかというわけです。未来という「外部」を犠牲にすることで今現在の私たちが得をしている。言わば、時間軸における「負の外部性」です。

つまり「未来の人口を燃料にして現在の私たちの豊かさを達成してるだけ」という可能性を見落としてるのではないか。なんなら、これは未来の人たちからしたら、今の私たちは将来に備えず遊んでばかりのキリギリスにしか見えないのではないか。そう江草は考えているのです。

(もちろん、ここで当然に「生まれること自体が不幸なのだ」という反出生主義や、「未来の子孫たちの意見など分かりようがないのに無理に代弁しようとする方が傲慢だ」という不可知論の議論が発生するわけですが、ここではもっと前段階の、そういった視野に到達することさえ怠っているのではという話をしています)


他方、「過去の人たち」についてはどうか。喜ぶも何ももう死んでしまってるんだから、気にしてもどうにもならないじゃないかと思われるかもしれません。

でも、もしかすると、その感覚自体が「現在主義」であって、時間軸の外部性を無視したものかもしれないのです。

たとえば、過去の人たちの「声無き声」を尊重する立場として、「死者の民主主義」という概念が提唱されているそうです。

曰く、「伝統とは祖先による投票であるのだ」と。

この言葉は20世紀初めのイギリスの作家チェスタトンの『正統とは何か』が元ネタらしいです。

「死者の民主主義」についてはそのものズバリの本がありますね。

「そうです」とか「らしいです」などと言う歯切れの悪い文末ですが、江草自身はこの本も未読で、あんまり知らないくせに伝聞だけで書いてるのもあって、あいまいな物言いとなっています。

江草自身はどちらかというと未来志向の立場であることもあり、保守に流れやすそうな過去尊重の姿勢にはちょっと警戒心を抱いてしまう気持ちがないわけではありません。

ただ、このように今の社会は「現在の生者」の視点に閉じられすぎており、もっと過去の人たちの意見も尊重しないといけないのではないかとする批判が存在していることの例示としてはこれは十分成り立つでしょう。

(なお、「先祖崇拝」テーマについて言えば江草的にはまた別視点からの論考ネタがあるので機会があったらまた)


だから、総合して考えるに、ただの「三方よし」では、未来や過去の視点が実は抜けていて、「今現在の私とあなたと私たち」の視点でしかないのではないか。本当は時間軸的な外部性にも目を向けて過去や未来の人々の尊重をも果たす、言ってみれば「四次元よし」が究極的には求めるべき方向性なのではないか、江草はそういう風に思い至ったわけです。(空間だけでなく時間軸も含めるので「四次元」です)


もっとも、これが「言うが易し行うが難し」の典型例であることは、皆様もお気付きの通りです。

なにせ一方的な搾取にならない「WIN-WIN関係」を成立させるのでさえともすれば難しい。そこでなんとか「三方よし」まで手を伸ばそうと精いっぱい身じろぎしてるところに、さらに「四次元よし」とまで言われても「無理無理無理!」となるのは自然な反応でしょう。

実際、過去の先祖を大事にしようとしたり、未来の子孫を大事にしようとした時に、今度は現在の誰かが犠牲になる(少なくとも本人はそうLOSE感を覚える)という展開になることも少なくありません。
というより、そうしたこと(過去未来を優先して現在を犠牲にすること)が歴史上幾度となく繰り返されてきたからこそ、それを忌避して「あえて現在に閉じこもっている」ところが現代社会にはあります。

だから、やっぱり真の意味で古今東西の誰もが満足する解を見つけ出すのは難しい。

いわゆる「三体問題」が課題自体は極めてシンプルにも関わらず計算対象の物体が2つから3つになるだけで急に連立方程式が解けなくなるのと同じように、「WIN-WIN」「三方よし」の流れも考慮の対象が増えた途端に急激に複雑化してしまうのでしょう。いわんや「四次元よし」をや。

あちらを立てればこちらが立たず。いつものごとく困ったジレンマです。

とはいえ、解決が難しいからといって、それを知らなくていい、見なくていい、考えなくていいということにもならないでしょう。

もとより、「WIN-WIN」だって、「三方よし」だって、完全に実現することは難しいけれど、それでも目指すべき理想の目標として掲げているものでした。

なら、いっそのこと「四次元よし」だって目標として掲げてもいいのではないか。

江草はそう思っちゃうタイプなのです。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。