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難信易行としてのベーシックインカム

先日コメント欄でベーシックインカムと保険の違いについてのディスカッションをさせていただいて、それでふと思い出したネタを書いて見ようかなと思います。今回の話のアイディア自体は昔思いついたもので、いつか機会があったら書こうと思ってたもの。

といっても、特段すごい斬新な話というわけでもない軽い小話レベルの内容なのですが、ベーシックインカムのことを考える上ではちょっと面白い話かなと思いまして。


さて、突然ですがまずは仏教の話から。

浄土真宗系の解説でよくいわれる言葉に「難信易行」というものがあります。

浄土真宗は、めちゃくちゃシンプルに言うと、要するに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、それで浄土に往生できるよという教えです。

念仏を唱えるだけ。そんな簡単なことで浄土に往生できる。
なんてこった!こりゃすげえありがてえ!

という教えなのですが、でも皆さんもやっぱりこう思うんじゃないでしょうか。

「いやー、そんな都合のいい旨い話ってあるかねえ」と。

求められる行為としては極めて簡単かつシンプルです。しかし、それがゆえに信じることは難しい。だから「難信易行」の道と浄土真宗はよく称されるんですね。


※もっとも、江草は勝手に耳学問してるだけのド素人で、ちゃんとした仏教的説明はできてないと思うので、一応参考に他の人たちの解説も載せておきましょう。

ところが「すべてのはからいを捨てて、信じる」ことによる飛躍(よこさま)は、そんなに簡単なことではない。すごくシンプルは話だが、そうはいかない。なぜなら「人間ははからってしまう」のである。このことを道元が『弁道話』で「(もともと無上の悟りを具えていながら)みだりに知見をおこすことをならひとして(やたらとはからいを起こしてしまう習性がある)」と喝破している。「はからい」なく、如来に「おまかせ」することは、できそうでできない。親鸞は「難中の難、これに過ぎたるは無し」(『教行証文類』「行巻」)と表現している。南無阿弥陀仏と称えるだけの「易行」、しかしそれはこれ以上ないというくらいの「難信」と表裏一体なのである。

釈 徹宗. 構築された仏教思想 親鸞 救済原理としての絶対他力 (p.76). 佼成出版社. Kindle 版.


この『仏説阿弥陀経』の最後に、このような言葉がある。

「為一切世間 説此難信之法 是為甚難 仏説此経已」

大まかに意訳すると(これはあくまでも“私訳”)

「私は、このような素晴らしい国があることを、一切の衆生に説いたが
 私がどんなに説いても、世間一般の人々には、なかなか信じ難いことで
 これをみんなが自分の身に当てはめて、信じて受け止めようとすることは
 本当に難しいだろうと思う。きっと、こんなに難しいことはないであろう」


で、逆に浄土真宗系の派閥でないものは、すなわち「易信難行」と評されることになります。その程度には差はあれど、多くの場合、いろいろ自ら修業したり努力したり、あるいは善行を積んだりして、それで救われようとする要素を含んでるんですね。「他力本願」をモットーとする浄土真宗と異なり、他宗は「自力救済」を軸として持っているんです。

これは確かに行うのは大変です。自分が救われるに値するだけの行為をちゃんと実践しないといけない。難しい。だから「難行」です。

でも、ここが面白いことに、救われるに必要とされる要件が難しければ難しいほど、「これだけ難しいことの達成を成し遂げたんだから当然救われるに違いない」と、自分が救われることを確信しやすくなるんですね。「達成が難しいからこそ救われる」だと人は意外とすんなり納得する。だから「易信」。

それで、合わせて「易信難行」となるわけです。

つまり、必要とされる行為があまりに簡単すぎると人は信じないし(難信易行)、必要とされる行為が難しいと人はすんなり納得する(易信難行)という対照がここにあるんですね。


で、仏教の話はあくまで前ふりに過ぎないので、ここからが本題のベーシックインカムの話です。

江草が思うに、ベーシックインカムは詰まるところ世の中の人々にとって「難信易行」の道として見えているんだろうなと。

たとえば、「何もしないでお金がもらえる?それで社会がうまく回る?それが本当だったらけっこうな話だが、そんなうまい話があるわけないだろ!」という感じで、内容の簡単さシンプルさが仇となって、かえって信じにくい。あまりに単純なアイディアであるがゆえに、そうした「難信易行」の罠に絡まってしまうんですね。

他方、社会ですでに実装されている年金保険制度のことを考えてみましょう。
年金には福祉や再分配の要素が含まれてるがゆえに完全なる自力救済システムというわけではないのですが、それでもあくまで「多くの掛け金を払った者が多くもらえる」という体裁を保っています。つまり、「頑張って仕事をして社会に貢献するという善行を果たした者がより優遇されて報われる」という思想を基盤として残してるんですね。
加えて、形式として、広く世の中に普及している「みんなでリスクを分担するための合理的な仕組み」である「保険」なのだとすることで、より人々に納得してもらいやすくしてるところもあるでしょう。年金運営者が保険制度として成り立つように数値計算をして良い案配に調節してくれているのだろうと信じやすいわけです。

もっとも、そうした年金への信頼もだんだん薄れてきて何かと批判が出てきているのが現状のトレンドではありますが(少子高齢化でアラが目立つようになってきちゃった)、それでも人々が納得しやすい、自力救済的かつ合理的(っぽい)ロジックを用意してるのが年金なんですね。

だから、確かに年金保険料を日々払い続けるのは「難行」ではあるものの、それがゆえに「それなら報われるはずだ」と信じやすい「易信」でもあるのです。

これが広く国民の支持を集めないといけない近代福祉国家において、社会保険制度という形式が広く採られてる隠れた要因なんじゃないかなと江草は思っています。

たとえばベーシックインカムのような制度が、いくら内容としてこの上なくシンプルで簡単であっても、それがゆえに納得してもらえない、何でそんなことが可能なのか信じてもらえない。だから、結局採用されない。

支持者からするとそのシンプルさこそが特長なのですが、非支持者からすると「シンプルであればあるほど余計うさんくさい」わけですね。
実際、世の中、「これだけで簡単に稼げますよ」系の各種詐欺が無数にはびこっていますから、「あまりにうまい話は疑う」のは人として不自然な態度でもありませんし、むしろ賢明とも言えましょう。
でも、だからこそ厄介なんですね。

浄土真宗が歴史上ずっとこの問題に悩まされてるのと同様に、ベーシックインカムもこの「難信易行」のジレンマが、実現のための高いハードルとして君臨してるんじゃないでしょうか。

なので、ベーシックインカムを社会に実装するにしても、あえて年金制度のような既存の社会保険制度を換骨奪胎して、ガワだけは「保険」だけれども、実態は「ベーシックインカム」という構造にするというのも、一案としてはありえるのでしょう。

ただ、それでもその「制度としての言行不一致」を見破る人は少なからず出てくるでしょうし(「保険と言いながら保険じゃないじゃないか」などと)、批判逃れに本質を隠すために仕組みを複雑化すればするほど、ベーシックインカムの「シンプルである」という長所が犠牲になっていくので、なかなかうまくいかない気もします。

困ったものです。


さて、勢いで書き下ろしてるだけなので、話としてまとまってるようなまとまってないような感じですが、ここらで無理やり締めちゃいます。

そんなわけで、各種の冠婚葬祭の行事がまさに典型例であるように、(実際の現実的効果はさておいて)うやうやしく難しげな儀式を行う方が心情的にスっと納得できるという、人類の「愛すべき特徴」(あるいは「困った認知バイアス」)が、「難信易行」たるベーシックインカムに立ちはだかってるんじゃないかという話でした。

何なら現代社会においては「労働」とか「仕事」自体が、お金を得ることを正当化するための「うやうやしい儀式」と化してきてるわけで、そこ(「働かざるもの食うべからず」や「No work, No pay」の発想)に疑義を食らわせるのを大義としているベーシックインカムにとっては、どうしても避けられない宿命の問題なのだと言えましょう。

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