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無駄はなくそうとすると増える

「無駄をなくそう」というスローガンは人気で、そこかしこで耳にします。

「無駄」という言葉自体に「なくした方がいい」につながるネガティブニュアンスが含まれてるので、何かを言ってるようで言ってないスローガンではあるのですが、そのことは今日は置いておきまして。(昔どこかで書いた気もしますし)

世の中で「無駄をなくそう」という圧力はとても強いけれども、実は無駄はなくそうとすると増えるんじゃないか、ということを思いついたので、その話を今日は語ってみたいなと思います。


さて、「無駄」の反対語は「必要」ですね。「必須」でもいいかもしれない。

「無駄をなくそう」と言ったならば、それが究極的に想定している社会は「必要なものだけで構成されてる社会」ということになるでしょう。

一見すると良いことのように思われますが、果たしてそうでしょうか。

だって、世の中見渡せばすでに生存に必須でない無駄なものばかりでしょう。

今、江草がこの文章を書くのに使ってるパソコンやキーボードも、別に生存に必須かと言えばそうではありません。無くても生きていくことはできます。

音楽、ゲーム、映画、絵画。うん。もちろん生存に必須ではないですね。

エアコンや自転車もあれば快適ですが、絶対必要かと言われると、そうでもない。

衣服も必要かと言えば、防寒などには必要でしょうけれど、究極的には裸でも生きていけてしまいそうです。少なくとも、こんなに多種多様なデザインの衣服を多数所有している必要はないでしょう。

食べ物はどうでしょう。食べ物は生きていくのに必須じゃないか。いやいや、ただ生きていくのに必要なだけなら、こんなに多種多様に趣向をこらした料理やお菓子は不要です。たとえば、パンなら、極論、食パン1種類だけでもいいはずです。

「生命さえも無駄だ」と言う人も世の中には居るとは思いますが、まあそこまで過激に至らずとも、「生存に必須」という要件で整理するだけでも、私たちの社会には「不要なもの」、言ってしまえば「無駄なもの」であふれてることが分かります。

もちろん、こう言うと「人はパンのみに生きるのにあらず」と反発を覚える方は多いでしょう(なおこの名言をこの意味で引用するのは誤用らしいですが便利なので許して)。

そう、その通り。人は「最低限生存に必須なもの」だけでは満足できません。「もっともっと色んなものがないといけない」言い換えれば「生存に必須でないものも必要だ」と感じるのです。

極論、大変に大好きな推しのアイドルが居る人にとってすれば、その「推し」はもはや「生存に必須な存在」に感じられるでしょう。物騒な話ですが、そのアイドルが自殺してしまった場合に、後追いする人だって出かねません。

ここまでいかずとも、私たちの多くは世の中に色んな料理があるのは必要だと思うし、色んな衣服があるのは必要だと思うし、エアコンや自転車も必要だと思うし、iPhoneもMacもキーボードも必要だと思うし、娯楽や芸術の存在も必要と思うものです。

このように「生存に必須なもの」以上のものを人々は必要として欲するわけです。

ところが、ここでややこしいのはこうした「生存」みたいな万人に共通する要件でない意味での「必要性」というのは人によって多様になってしまうことです。

だって、誰かの推しのアイドルはその人にとっては生存に必須かもしれないけれど、ファンでもないあなたにとっては全く必要には見えませんよね。

人によって何を必要と思うか、また、どれぐらい多くのものを必要と思うか、が異なる。
このことが「無駄をなくそう」とする時に厄介な効果をもたらします。

先ほど述べたように、言ってしまえばもはや世の中は(生存要件という厳しいレギュレーションで見れば)無駄ばかりです。それゆえに「無駄をなくすぞー」という圧力がかかった時に、自分にとって必要なものがほっておいたら「無駄」判定されて消されてしまうかもしれません。

これは嫌ですよね。

だから、「これはかくかくしかじかで必要なんです!」と、自分にとって必要なものがいかに無駄なものではないかをアピールする必要に迫られます。

これは当然のことながら「無駄をなくそう」という圧力が強まれば強まるほど、より強く抵抗する必要が出てくることになります。

「無駄をなくそうキャンペーン」が高じて、何かしら「無駄」をなくすことが決定事項となっているならば、それはまさに各自の「必要なもの」にとってのデスゲームです。誰かの「必要なもの」が犠牲にならないと自分の「必要なもの」が犠牲になるかもしれない。「必要なもの」同士の生存競争としての「これは必要です」アピール合戦がここに開幕します。

もしかすると、「無駄をなくそう」と言ったって、「誰にとっても無駄なもの」をまずなくすのが目的であって、「誰かにとって必要なもの」をなくそうとしてるわけじゃないんだと思われるかもしれません。

それは確かに理想的な話です。

ところが、先ほども言ったように究極的にはどれも無駄である以上、黙っていたら「自分にとって必要なもの」が「誰にとっても無駄なもの」判定が下されてしまうかもしれないので、結局は「必要です」アピールが不可欠であることには変わりありません。

また、本当に「誰にとっても無駄なもの」を削った段階でピタリと「無駄をなくそう」キャンペーンが止まる保証もありません。そもそも「誰にとっても無駄なもの」がクリアーに見分けがつかないからこそ厄介なので、怒濤のごとく「無駄をなくそう軍」がこちらに向かって突っ込んでくるならば、誤って撃たれないように自衛のために「自分にとっての必要なもの」を強力にアピールすることになるのは自然でしょう。

そんなわけで、互いに「自分にとって必要なもの」を守るために、必死に競争的に「必要アピール」をし続けることになります。これは「無駄をなくそう」圧力が高まれば高まるほどエスカレートします。

しかし、この「必要アピール」って必要でしょうか。

いや、「無駄をなくそう」キャンペーンに潰されないためという意味では必要なんですけれど、そもそも的な意味で必要なものでしたっけ。

この「必要アピール」って「無駄をなくそう」のせいで新たに仕方なく生まれたものに過ぎず、もともと「誰かにとっての必要なもの」であったわけでもありません。しゃあねえからやってるだけの活動です。誰かにとっての「推し」のように「好き過ぎて必要」というポジティブな必要性ではなく、「面倒でやりたかないけど無駄判定されないために仕方なく必要」というネガティブな必要性です。

やってる本人にとっても楽しくもなんともない。言ってしまえば「無駄」な活動です。

この「無駄な必要アピール」というものは、そもそも「無駄をなくそう」圧力のせいで登場している経緯でした。

ということは、「無駄をなくそう」とすればするほど「これは無駄じゃないんですよ!」と各自が強力にアピールするという「無駄」が各所に生じる。このように言えるわけです。

すなわち「無駄はなくそうとすると増える」というパラドックスがここにあるんですね。


で、こう言うとめちゃくちゃ矛盾した話になるんですが、結局のところ人類は無駄が大好きで、無駄が必要なんですよ。

しかし、どうせ無駄が必要なら、好きな無駄で埋め尽くされる方がいい。わざわざ「本気で要らん無駄」を増やす必要はないでしょう。

もっとも、こうした「本気で要らん無駄」も「自分にとっては必要だ」と思ってる人がいる可能性がありますから、これを積極的になくそうとすると、これまた増えるのかもしれません。

だから、これこそ逆説的ですが「無駄っていいよね」という態度にした方が、かえって「無駄が減る」。そんな気がしています。

まあ、江草のただの直観なんですけどね。

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