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黒谷さんの思い出


 京都市左京区に金戒光明寺という寺院がある。もっとも地元ではそのように呼ぶことはなく、もっぱら「黒谷さん」と呼ばれている。幼稚園もあるし、地元民には昔から親しまれた場所であり、広大な墓所がある関係でお彼岸の頃には墓参の人でにぎわう、そんな場所である。


 その黒谷さんは、幕末の頃は幕府側の重要な拠点であった。京都守護職であった松平容保がここを拠点としたからである。眺めもよく、山科に抜ける粟田口を抑えることもできるし戦略的に重要な場所であったことは間違いない。

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 新選組に興味がある方にとって、壬生寺と金戒光明寺は聖地のようなものだろう。そんな場所なのに大学生の頃のオレはかなり失礼な使い方をしていたのである。


 京都大学のサイクリング部では夕方にトレーニングの時間があって、私のいた頃はトレーニングに出てこない幽霊部員のことが問題とされ、最低でも週に2回の出席が義務付けられた。私は2回生の頃、同期のKくんという部員と一緒にトレーニングマネージャーという係をしていて、どんなトレーニングをして、どこに行くかということを考える役目だった。


 トレーニングの基本は軽いランニングである。京都大学の西武構内にあったBOXから、北は上賀茂神社や宝ヶ池、西は京都御所、東は大文字山登山、南は永観堂や黒谷まで走るというのがお決まりのパターンだった。

京大

 宝ヶ池まで往復すると10キロ以上走ることになる。かなりハードだったと思うが、自転車で峠を越えたり長距離を走るための基礎体力作りにはやはり走ることが一番役に立った。


 そうしたトレーニングの一つが、黒谷さんで行われた「石段ダッシュ」である。これは本当にきつい。二人一組で競争するようにこの石段を上るのである。何本かダッシュするともうヘロヘロになる。ちなみにこんな石段を上るのである。

その石段の写真がこれである。ちなみにまわりはお墓である。お墓のど真ん中にある石段を、罰当たりなことにサイクリング部のトレーニングの場所に使っていたのである。

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 その石段の傍らにはこんな面白いものがある。アフロ地蔵と言えばいいのだろうか。なんだかユーモラスで面白い。この存在に気が付いたのは卒業後のことである。トレーニングでヘトヘトになっていると、周りのものなど全く目に入らなかった。

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 この石段に来るといつも思い出してしまうのだ。その時のことを。何本も何本も石段ダッシュをして、そしてヘトヘトになって倒れそうになって、それでもなおダッシュを繰り返した。なんのためにそんなハードなトレーニングを繰り返したのだろうか。でも、その結果として、自分はノンストップで下関から京都までの約600キロをロードレーサーで約23時間で走れたほどの体力を身に着けたわけである。諏訪から京都までの330キロをサイドバッグに荷物を満載したランドナーで一日で帰ってきたこともある。



 自分が京都大学3回生の時にサイクリング部内では耐久レースという行事が始まったが、その第一回の優勝者は私である。長距離を速く走るというロードレースのような能力が求められたわけだが、今でもあの行事は続いてるのだろうか。

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ちなみにこの石段の途中には会津墓地への案内表示がある。京で亡くなった会津藩士たちの墓所がここにあるのだ。NHKの大河ドラマ「八重の桜」を覚えてるだろうか。

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 石段の上からの洛中の眺めはなかなか見事である。ここが戦略的要地であったことがよくわかる。

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 京都に来ると、学生時代のいろんなことをこうしていつも思い出す。京都大学在学中の4年間というのは自分の人生の中の宝物のような素敵な時間であったことは間違いない。そこには青春のさまざまな幸福も、悔いも、悲しみも、恋の思い出も、すべてがつまっている。


 もしも人生を任意のタイミングからやり直せるなら、京都大学入学の時からやり直したい。人生最悪の時間だった「受験勉強」というものから解放されて、晴れて京都での一人暮らしをスタートした時から。自分の人生がすべて「希望」というもので満たされていたあの瞬間から。


 そんな大切なことに、もう人生の終わりが見えるようになってから気づいても遅すぎるのだが。


 やりなおせるなら、私は文学なんて世界を学ぶのではなく、法学部か経済学部に転部して、このひどい世の中を変えるために働きたかった。多くの国民が貧困に突き落とされ、未来になんの希望も持てなくなっているこのひどい国を救うために全力で戦いたかった。世の中をよりよく変えるために自分の人生を使うべきだった。

 オレはそのことに気づいてこんなメッセージを数年前に書いた。

「いま受験生である君たちへ」


 教員としての自分の時間はもうそれほどは残されていない。何も伝えられず、何も変えられず、自分は日本という国家の滅びの姿を眺めながら静かに人生を退場していくのである。



 

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。