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こんなわたしも30歳。

私事ですが、
2023年11月14日で30歳となりました。

ここまで大きな怪我・病気・不幸がなく過ごせた自分の強運と、今日までの自分を形作ってくれた周囲の皆様に深く感謝いたします。

本日はこの機会に、
Ⅰ、10年の振り返り
Ⅱ、20代でやって良かったこと3選
Ⅲ、30代でやりたいこと3選

のテーマで自分の現状の考えや決意を書くことで、数年後の自分が振り返ることができるように、
そしてこれを読んでくれた皆さまのうち誰か一人でも励みになる・前を向けるような内容になれば幸いです。

Ⅰ、10年の振り返り

10年前のちょうど20歳(北海道大学2年生)ごろ。
この頃あたりから漠然と将来について不安感を抱くようになりました。

「おれって将来何をやりたいんだろうか」「おれにしかできないことって何だろうか」と、モラトリアム・厨二病のど真ん中にいた自分はすごく焦りを感じて生きていた気がします。

転機は大学3年生の春。ちょうど1つ上でかつ同じ学部所属で仲の良かった野球部の先輩が病院実習に奔走しており、部活動の集大成である最後の1年間を満足に過ごせていないであろう様子を目の当たりにしていました。

もともとプロや社会人野球のためではなく、高校野球の不完全燃焼を解消するために大学野球を始めた自分にとって、この先輩の通った道を進むことに強く悩みました。

超ハイスペックなその先輩ですら満足に部活に参加できない中で自分なんかが両立はできっこない。つまりは大学野球も不完全燃焼になってしまうのではないか。

そして下した決断は大学1年間の休学でした。(なんと短絡的な思考回路…)

3年前期が終わったタイミングで休学したことで部活にコミットすることができました。とは言え、国立大の部活なので1日中練習している訳ではない。

するとすごくヒマになってしまいました。そんな中、書店で見つけ興味本位で手に取った1冊が気象予報士資格の参考書でした。

そして「自分にしかできない価値」を考えた時に思い浮かんだことが、気象と医療(リハビリ)を組みあわせること であり、調べた結果行きついたのが「生気象学」という学問でした。

さらにその分野に精通した教授が北大にいらっしゃったので、復学・卒業した後は大学院進学を第一選択としました。ここに至ったのが22歳です。

部活は到底満足いく結果は残せませんでしたが、入学前から一度も勝てていなかった星槎道都大に完投勝利ができたことなど、自分のできることは全てやり切れたと胸を張って引退することができ、野球からは身を引いた上で復学して作業療法士と気象予報士の勉強をしていました。

しかしながら、強くお誘い頂いたウイン北広島という社会人野球のクラブチームのお誘いを断り切れずに入団。
病院実習・気象予報士勉強・大学院試験の勉強・野球の四刀流となり、このときは最も起きている時間が長かった気がします。

そんな四刀流で駆け抜けていた大学5年目4年生の夏。上述した生気象学の教授が急遽の栄転によりゼミを受け持てないことを伝えられ、将来プランが一気に破綻。
休学中から考えていたことが白紙になってしまって困っていた矢先、クラブチームの先輩が独立リーグのトライアウトに参加すると教えてもらいました。

このときは独立リーグの知識はほぼなかったものの、大学卒業に合わせてクラブチームを退団して野球を辞めるつもりだったので「最後の諦めの場」として自分の野球に区切りをつける意味も込めて挑戦をすることにしました。

受験だけで記事になるくらい、当時北海道から独立リーグに進む人は少なかったです。


そうした肩の力が抜けたスタイルでの受験だったためか、過去最高のパフォーマンスを発揮することができ、独立リーグへの扉が開けてしまいました。

まさか受かるとは思っていなかったので、このときは勉強時間への比重が大きく、死ぬ気で取り組んだ気象予報士には2度目の受験で奇跡的に合格し、生気象学から急遽切り替えた北大の地球環境系の大学院(極地の氷河を調べる研究室)への進学も決まっていました。これが23歳。

経済的にも厳しくNPBへの可能性も限りなく低い独立リーグへの挑戦か、気象の知識を生かした大学院への研究の道か。周囲はみな後者を押す声でしたが、両親だけは前者の選択肢を押してくれました。
そして自分自身も「死ぬときに後悔しないのはどちらの選択か」「今この若さでしかチャレンジできないのはどちらか」という軸のもと、独立リーグへのチャレンジを決断しました。

人生初の140キロはトライアウトで計測。
いきなり最速を7キロ更新。何事。
Yahoo!トップにも掲載いただいたミラクル


以上、思ったよりここまでが長すぎたのでここからはボリュームを落とします…。

年齢的にも経済的にも2年勝負と決めて独立リーグへ。
最初に在籍した香川球団での1年目は多くのチャンスをいただけましたが、2年目はスタートから怪我もあり出場機会は激減。
ラストイヤーをやり切るため、移籍先はまったく決まっていませんでしたが自分の意志で香川をリリースしてもらい、そこで拾ってくれたのが徳島でした。

徳島で過ごしたのは結果的に半シーズンのわずか3ヶ月と非常に短い期間でしたが、ここで成長実感を得られたことで「もう1年だけ!」と思うことができました。

そして次に拾ってくれたのが新潟球団でした。
26歳になる3シーズン目が結果的には私の現役ラストイヤーとなりました。

野球を始めた幼少期はみんなが思い描いていた「プロ野球(NPB)選手になる!」という遠すぎる夢。しかし、中学・高校と上がるにつれて、自分の可能性に蓋をしてそんなことは口にしなくなる。
私もそんな一人でしたが、そこからもう一度全力でこの夢を追いかけられた3年間は本当に大きな財産となりました。独立リーグという環境があったことに強く感謝しています。

そして「いつかは独立リーグ・野球界へ恩返しを」と考えていた引退表明直後、すぐにそのチャンスが来ました。

村山代表に頼み込み、次のキャリアが決まるまでBCリーグのインターンをやらせてもらっていた頃に福井球団破綻のニュースが舞い込み、結果的にはこの再建に携わることになりました。

新生福井球団、ワイルドラプターズの第1号社員として広報業務をスタートし、球団公式SNSを開設した日がちょうど26歳の誕生日でした。

福井ワイルドラプターズ スタッフ時代

ここで1シーズンを過ごし、数々の事業経験をさせていただきました。
しかしながら当時の自分ができること・貢献できることに限界を感じてしまい、独立リーグ界ひいては野球界から一旦離れて、三木田という人間の評価がまったくの0の状態での環境で修業したいという思いが湧きました。

スポーツビジネス。0→1経験。
この2つは生かしつつの異なる環境で最もマッチしたのが、プロバスケットボールとして生まれたての長崎ヴェルカでした。27歳。

長崎ヴェルカでも、これまでとは違った刺激を毎日受けることができ、ビジネスマンとしても人間としても少しだけ成長できたと思います。
直接ファンの方に感動を届ける仕事のやりがいの大きさはとてつもないものでした。優秀な方々に囲まれて日々勉強の日々でした。

長崎ヴェルカ スタッフ時代

しかし、周囲が優秀すぎるがゆえに自信は無くなり、自分の意志で物事を決めて推進する力が弱く、言われたことを必死にこなすような無価値の人間になってしまっていることも事実で、苦しい日々も多かったです。

そしてバスケ界に身を置いての最大の気づきが野球への渇望でした。
これは野球界を離れるまで気づきませんでしたし、離れた時にどんな思いになるのかを試したかった部分でもあったので新鮮な発見でした。
「あ、おれってやっぱり野球がめちゃめちゃ好きなんだな」と。29歳。

ここで話は大変さかのぼって申し訳ありませんが、高校時代はしばしば友人に勉強を教える機会がありました。このときに人に何かを教える楽しさは感じており、先生という仕事・指導者という仕事には昔から憧れはありました。

そして、上に述べた野球への渇望はプレーヤーとしてではなく、フロントスタッフでもなく、指導者としての渇望だということにも気づけました。

ここからは (いつか詳しく書くかもしれませんが今回は割愛…) 色々ありまして現職の常磐大学野球部監督というオファーをいただくことになりました。

指導経験が無い中でいきなりの監督、しかも学生野球では最もレベルの高い大学生ということに並々ならぬ不安もありましたが、
学生時代は野球エリートではなく、独立リーグを経験し、そこから民間企業就業経験もある自分だからこそ伝えられることもあると自分を言い聞かせ、就任させていただく運びとなりました。

そして間もなく1シーズンが終了。試行錯誤で頭を抱える毎日ですが大きなやりがいを感じながら再びグラウンドに立たせてもらっています。30歳。


ここまでお付き合いくださった皆さま、これが3つある目次のやっと1つ目が終わったということですがお時間は大丈夫でしょうか?
ごめんなさい。ここからはマジで短めに書きます。

Ⅱ、20代でやって良かったこと3選

①多くの決断を経験できた

 大学休学、独立リーグ入団、プレーヤーとしての引退、そこからの2社の就業、そして現職への就任と、リスクが高く、後には退けないような決断をこの10年で自らの意志で続けてこれたことで多くの経験を得るものができました。
 一つ一つの経験に後悔はありませんし、後悔しないような取り組みを続けてこれた自分をこの機会に褒めちぎりたいと思います。ナイス。

②多くの場所・人と出会うことができた

 この10年で住み家は、北海道→香川→徳島→新潟→福井→長崎→茨城と変化し、引っ越しの手際が大変向上しました。住む場所の変化に伴って、近隣地域の旅行も楽しませてもらい、今は北関東ライフ( )を満喫しています。

 場所・環境を変えること、移動することで出会う人たちも大きく変わります。特に独立リーグでは、バックグラウンドの異なる野球狂人たちとたくさん出会うことができて、進学校でしか野球をやってきていなかった自分の野球の価値観を良い意味で大きくぶっ壊されました。感謝。

③自分の得手不得手、やりたいことを理解できた

 ここに関しては完全ではありませんが、自分の仕事上や人間関係での強みや弱みを認識することができてきました。
 その上で苦手なことを求められる環境でもがくことよりも、得意なことを求めてくれる環境に身を置くことで毎日がものすごく楽しくなることを理解できました。

 そしてそんな毎日を過ごす中で、自分が人生(と言ったら大げさなので、今の環境)で何を成したいか、どんな価値を提供したいかということの輪郭も見えてきました。
「自分は何者か」という思考に本気で悩み続けてきた20代でしたが、最終章でそこの光が見えたことがこの10年での成長です。よくやった。

Ⅲ、30代でやりたいこと3選

前項で述べてきた20代を踏まえた上で、こんな30代にしたい。ということを「30代でやりたいこと3選」として締めさせて頂きます。

①自分の付加価値を見つけ、尖らせる

指導者としての自分の価値は何か。ここをいち早く確立させて言語化させることが30代最初のミッションとします。

 世の中にはたくさんの野球チームがあり、チーム(部活動)の数だけ指導者がいます。その中で「自分にしか」というオリジナルを見つけることはそう簡単ではありませんが、ここが示せることで選ばれる部活・選ばれる指導者になり、今いる学生たちにも価値を提供できると思います。

 そうして見つけた武器を徹底的に尖らせる努力も怠らない。守破離の原則に従い、基礎基本を大切にしながらも唯一無二の価値も発揮できる指導者を目指します。

②コンフォートゾーンの外から情報を仕入れる

 仕事柄、日頃関わる人たちは部活の学生もしくは野球の指導者に限定されがちです。もちろんその方々から得られるものも無限にありますが、どうしても偏りが生まれます。価値観が揃う人と膝を突き合わせることももちろんしつつ、自分がこれまでかかわったことない人・環境に飛び込むことも積極的にしていきたいです。

 恥ずかしながら、これだけ日本中を転居しながらもまだ海外は未経験なので海外チャレンジも近いうちにやります。バモス。

③教員免許取得

 最後だけすごく具体な話になってしまいますが、かねてからの夢の一つでもある教員としても働けるよう免許取得を通信制大学で目指します。

 学問における「教育とは」の部分を突き詰めることは、今の指導にも必ず生きるはずなのでこれは来春からすぐに取り掛かるつもりです。

おわりに

大変長い文章となってしまいましたが、ここまで読んでくださった皆様ありがとうございました。

最後になりますが、この10年間はSNS等で自分の言葉を発信するという行為で多くの道が切り開けましたし、たくさんの応援してくれる方々とも出会うことができました。
ということで30代になっても積極的に続けていく所存ですので、引き続きよろしくお願いいたします! fin.

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