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ATAMI ART GRANT 2023の非常に断片的なレポート、あるいは現代アートの(イン)アクセシビリティについて

※以下、作品名は《》で示し、()内の数字とアルファベットはパンフレットで掲載されている会場番号を示す。写真は特に明記しないかぎり、すべて筆者によって撮影されたもの。

12月17日まで開催されているATAMI ART GRANT 2023(以下、「AAG」)は、静岡県熱海市内の計5つのエリアで開催されている現代アートのイベントだ。今年で3年目の開催となるAAGは、静岡県内で最大規模を誇るアートイベントとして、昨年は15万人以上もの来場者数を記録した。このレポートでは、熱海駅前エリア、サテライト会場のACAO FOREST、そしてメイン会場であるATAMI ART VILLAGEの3つのエリアに絞って、AAGというイベント/プロジェクトに迫っていきたい。このレポートはAAGを網羅したものではない、あくまで「非常に断片的な」レポートであることには留意していただきたい。AAGの全貌が把握しづらいことはこの文章の要旨にもつながっている。


1. 熱海駅前エリア

公式ウェブサイトがおすすめする通りに、筆者は熱海駅から熱海駅前インフォメーションに向かった。駅から歩いて3分、緑色の壁が目印の熱海第二ビルの1階に位置するインフォメーションに着いた。ここでスマートフォンのチケットを提示し、作品鑑賞パスポートを受け取る。このパスポートをもって、さまざまな会場を巡るわけだ。インフォメーションには画家の榎倉冴香による作品《"You taken by you" in ATAMI》(9) が展示されていた。熱海での滞在制作中、「普段の生活では関わることのない方たちにセルフポートレイトを撮ってもらいそれを元に」制作された油絵たちには、少ない色の種類が用いられながらも豊かな地元の人たちの表情が映し出される。

榎倉冴香、《"You taken by you" in ATAMI》

同じインフォメーション会場では、トモトシ&TOMO都市美術館による作品群「シティ・オブ・ペット」(9) も展示されていた。渋谷駅前に犬の着ぐるみを着たトモトシを撮影するカメラが通りすがりの人によって元の位置に戻される様子を移した映像作品《スタビライザーズ》など、展示されている3つの映像作品すべてでトモトシが犬の格好をしている。

ペットと人との関係をテーマにした、トモトシの映像作品

興味深いのは、榎倉の作品は熱海に住む人たちをフィーチャーする一方で、トモトシは一貫して都市におけるペットと人の関係を探求した作品を出展していることだ。自身が館長を務める私設美術館「TOMO都市美術館」との共同名義で出展していることからも、トモトシの展示は都市性(東京という土地)が強調されたものとなっている。来場客を最初に歓迎するインフォメーションで、熱海のローカル性を前景化した作品と、都市にスポットライトを当てた作品が展示されていることから、熱海を田舎と都市のあいだにある土地として捉えてほしいというメッセージを読み取ることができなくもない。たしかに首都圏からの利便性が高く、かつ都市にはない豊かな自然があるという立地は、熱海を観光地にしている条件の一つだ。そして、熱海という土地のアクセシビリティ(アクセスのしやすさ)はAAGにとっても来場客が増えるという意味で重要なポイントである。

2. ACAO FOREST

熱海駅前にある他の会場を回った後、インフォメーションのスタッフに薦められ、ここからもっとも遠いACAO FORESTに向かうことにした。駅からバスで20分ほどでACAO FOREST前に着いた。ACAO FORESTはACAO SPA & RESORTが経営するテーマガーデンで、季節の花々が広がる鮮やかな庭園を、背景の海と山とともに一望できる。丘陵地にあるACAO FORESTの奥に進むには急な斜面を上らなければならない。この坂を歩くのは、普段運動しない筆者にとってきつかったものの、FORESTの手前側にある中村岳の《遡及空間》(2c) と渡邉顕人の《共振する渓巣》(2d) という、自然の中におかれた巨大な二つの作品には疲れを忘れるくらいに圧倒された。

中村岳、《遡及空間》
渡邉顕人、《共振する渓巣》

FORESTの奥に進むと、《未来SUSHI》といった作品で知られる市原えつこの《ディストピアの秘境・熱海支部》(2k)や、NOT A GALLERYでも作品を展示している松田将英の《#powerspot》といった、べつの世界を提示する作品が展示されていた。市原の作品における「異世界」や松田の作品における「パワースポット」に存在する宗教的で霊的な雰囲気は、そのさきにある曽我浅間神社とも重なり合う。写真でもわかるように、どちらの作品も鳥居のようなものを取り入れていることは偶然ではないだろう。

市原えつこ、《ディストピアの秘境・熱海支部》
松田将英、《#powerspot》

曽我浅間神社の境内には、ネオンイエローのプラスチックチェーンが大量に垂れ下がっていて、それらは鑑賞者の通路を「じゃま」する。土井健史の作品《じゃまな境界》(2b) は物理的な障壁ではないものの、それはシンボリカルな境界線として鑑賞者の目の前に現れる。

土井健史、《じゃまな境界 ACAO FOREST》

FORESTの一番奥には、市川平の《バオバブ プランテーション》(2l) が展示されている。この作品で鑑賞者は480mの山道を歩くことが促される。道の入口に登山用の杖が設置されていることから、その山道が歩きにくいことが示唆される。実際に山道を歩いてみると、石がたくさん転がっていて滑りやすく、道を踏み外せば崖に転落する。15時には閉まるこの山道の行き止まりにはオブジェクトが設置されているものの、鑑賞者は10分の行程のなかでどれが作品なのかわからないという状況に陥る。それはアーティストの狙い通りだ。市川自身、作品の説明で「この作品は固定したモニュメントではありません。常に自分の居場所を探し彷徨うコンセプトで旅を続けています。」と書くように、この作品の作品性は鑑賞者に委ねられる。だからこそ、この作品からはAAGのテーマ「Voyageー巡 ATAMI」にも共通する、土地を巡りながら、どれが作品なのかを定めようと逡巡する鑑賞者の姿が浮かび上がる。

自然のなかにおかれた作品から、異世界を構築する作品、そして物理的に遠く設置されている作品まで、ACAO FORESTの奥へと進むにつれ、よりアクセシブルが低い=インアクセシブルな作品が展示されている。ACAO FORESTにおけるインアクセシビリティは、熱海駅前で提示されていたアクセシビリティというメッセージとどう関連づければよいのだろう。筆者はそのようなことを考えながら、ACAO FORESTよりもさらにインアクセシブルに感じられたメイン会場・ATAMI ART VILLAGEに向かった。

3. ATAMI ART VILLAGE

今回のAAGではじめて一般に公開された、AAGのメイン会場であるATAMI ART VILLAGEは、ACAO FORESTよりも利便性が低い場所に位置しており、最寄りのバス停から8分ほど急な坂道を歩く必要がある。パンフレットには、このメイン会場は「約5000坪の土地」にある建物を改装してつくられたと謳われているものの、約5000坪の土地のほとんどに鑑賞者は立ち入ることはできず、作品は大きな一軒家を改装した施設と屋外に展示されていた。

受付の左手には、坂井存+TIARの《重い荷物》(1c, 1e) が展示されていた。坂井自身が熱海を含めたいろいろな場所で、ゴムチューブでつくられた巨大彫刻「重い荷物」を運ぶ様子が収められた写真や動画が公開され、それはアーティストの作品集のようにも思えた(実際の作品集も展示会場においてあった)。急な坂を上って息切れしていた筆者は坂井の作品をみて、自分の息切れが坂井にとってはなんのこともないことだと、自分に落胆してしまった。

坂井存+TIAR、《重い荷物》
坂井存+TIAR、《重い荷物》展示写真

ATAMI ART VILLAGEではは他にもノイズミュージシャンとしても活躍するアーティスト・∈Y∋による、キャンバスに絵の具や割れたレコード、ビニール袋などの素材が彼のノイズのようにおかれた平面作品群《UNATAMITLE》(1d)、宍倉志信によるマルチプレイゲーム作品《子どもたちの庭》(1a)、ミニマリズムが徹底された、展示部屋を埋めつくす立体作品《Models (Pair, 6 sets, 12 rings)》(1b)など、多様なメディアや手法が用いられている作品が展示されていて、見応えが十分にあった。

∈Y∋、《UNATAMITLE》より

屋外にも、先ほど紹介した土井の《じゃまな境界》(1f)や、下山健太郎+奥多摩美術研究所による、街灯のように設置された布の作品《街の灯》(1g)、小田佑二&高橋洋平による絵画作品 (1h) が展示されており、屋内外ともにさまざまな作品が一堂に会していた。そういう意味で、ACAO FORESTとは異なり、会場まではインアクセシブルだが、いったん会場に着けばアクセシブルな範囲に作品が展示されていた。

AAGの<ちょうどよいインアクセシビリティ>

熱海駅前で提示された「都市と田舎とのあいだにある熱海」というイメージは、観光地としての熱海の優位性を示すものだった。実際、筆者がAAGに行った週末の熱海駅周辺にはたくさんの人たちがいて、その多くは首都圏からきたと推測できる。だが、AAGのインフォメーション会場が強調していた、熱海という土地のアクセシビリティは、ACAO FORESTとATAMI ART VILLAGEの二会場では体現されていなかった。まずもってインアクセシブルな立地だった(なんといっても、熱海は坂が多い土地として知られている)。だからといって、そのインアクセシビリティは筆者が会場に行くことを阻むものではなかった。もちろん道中でつらいと思ったことはあっても、それはあくまでも「観光」の範疇であり、筆者にとっては熱海のいろいろな場所を巡れるという意味で、ちょうどよいインアクセシビリティだった。

<ちょうどよいインアクセシビリティ>は、熱海が観光地であるための必要条件だといえる。ある土地が観光地であるためには、多くの人が住む都市から近く、なおかつ遠いところになければならない。都市から遠すぎると観光客が来ないし、近すぎると観光客はお金を十分に使わないからだ。都市からの距離があるからこそ、観光客は交通費をはじめ、飲食代や宿泊代、さらには都市にはない自然を楽しむためのレジャー代など、多くのお金を使うことになる。

<ちょうどよいインアクセシビリティ>という一見矛盾した観光経済の論理は、AAGにおける作品展示の方法にも適用されている。熱海駅前というアクセシブルな場所にインフォメーションをおき、よりインアクセブルな場所にメイン会場とサテライト会場を設置することで、来場客がいろんなところでお金を使う可能性が高くなる。実際、筆者もACAO FORESTの展示作品を回ったあと、水分欲しさに入口近くのACAO ROSE GARDEN herb house(ここも展示会場となっている)でレモンスカッシュを購入した。

ACAO ROSE GARDEN herb houseで展示されている、
WHITE CANVAS、《WhiteCanvasスリランカ》の一部作品

注目すべきなのは、(イン)アクセシビリティという概念が物理的な利便性の高低を示すだけでなく、現代アートそのものの性質を表しているという点である。現代アート市場は世界規模で盛況ぶりをみせているにもかかわらず、現代アートの作品そのものは「わからない」という一言であしらわれる。現代アートが資産としてアクセシブルなのは、「わかる人にはわかる」という<ちょうどよいインアクセシビリティ>に基づいた価値をその内容に内包しているからだろう。

まずはアクセシビリティを:そこからお金の話ができる

商業主義に基づいた<ちょうどよいインアクセシビリティ>を構築するため、AAGの作品が離れた場所に展示されているのであれば、アーティストはその状況に対してどのように反応すればよいのか。一つの返答としてありうるのは、ACAO FORESTの一番奥に展示されている市川平の《バオバブ プランテーション》のような、インアクセシビリティの徹底による<ちょうどよいインアクセシビリティ>の破壊だろう。市川の作品を資産として購入することはできない。先述したようにこの作品の作品性は鑑賞者個人によって定められるので、それに客観的な資産価値を与えることは困難だ。

しかし、観光経済からのインアクセシビリティを徹底するまえに、私たちにはしなければならないことがある。<ちょうどよいインアクセシビリティ>の一番の問題点は、商業主義を優先することによって、本来は優先されるべきアクセシビリティが蔑ろにされている点である。AAG(だけでなく、多くのアートイベントや美術館、ギャラリー)は多くのインアクセシブリティを抱えている。すでに足腰の弱い人でも会場にアクセスしにくいのに、たとえば車いすを使う人はもっとアクセスしにくいバリアの存在、ACAO FORESTに入場するためには追加で2000円を払う必要があるので、大人は計5000円払わないといけないという経済的な障壁、作品説明が日英の二ヶ国語しかないという言語的な障壁……。

それだけでなく、筆者が調べた限り、ATAMI ART VILLAGEには日本の男性作家の作品しか展示されていないこと、それによって、女性アーティストやクィアアーティスト、日本出身でないアーティスト、抑圧・周縁化されているコミュニティ出身のアーティストが不可視化されていること。より多くの人に来てほしいという観光経済の論理からしても、正当化され優先されるべきアクセシビリティであるにもかかわらず、その整備は達成されていない。さまざまな人が参加できるシステムをつくらないかぎり、現代アートの展示空間はインアクセシブルなものとして、その権威—本来、現代アートは権威を失墜させるためのものだったはずだ—を発揮し続けるだろう。

希望はやはりお金ではなく、アートとアーティストにある

さいごに、アクセシビリティという概念の再考をうながす作品を紹介して筆をおくことにする。熱海駅地下通路に展示されている陶芸家・坂本森海の作品《やわらかな石 : 温泉余土》(11) では、鑑賞者が通路の壁に貼られているQRコードをスマートフォンで読み取り、カメラを通路にむけると、なかったはずの温泉余土という大きな石のかたまりがAR(拡張現実)によって出現する。この温泉余土は「岩石が粘土化する」ことによって形成され、「東海道本線熱海駅と函南駅を結ぶ「丹那トンネル」の掘削工事を難航させた」らしい。温泉余土を仮想的に出現させることが、実際に地下通路を塞ぐことはない。しかし、地下通路と丹那トンネルとを重ねることにより、鑑賞者に温泉余土の存在、そしてその背景にある歴史を想像させることは、インアクセシブルな歴史に少しでもアクセスしようとする坂本のラディカルな試みがみえる。

坂本森海、《やわらかな石 : 温泉余土》

百瀬文の《Melting Point》(13) も、自己と他者の身体のあいだの不可能なアクセシビリティを再現しようとする。バーを模した会場で展示されるこの作品で、鑑賞者はリアルタイムのアーティストの体温と同じ温度の白湯を飲むことができる。アーティストと鑑賞者との物理的距離にかかわらず、鑑賞者がアーティストの身体に間接的にアクセスできるという体験には、身体の境界線を揺るがすゾクゾクとした恐怖と怖いもの見たさが共存する。

百瀬文、《Melting Point》の会場風景(写真はColocalより)

上記の二つの作品をとってみてもわかるように、現代アートはひと目なにを言いたいのかわからない作品がほとんどだ。しかし、まずは現代アートへの間口を広くとることで、アクセシブルなインアクセシビリティをつくるべきだ。そこからはじめて「わからない」の探求を試みることができる。しかし、「アクセシブルなインアクセシビリティ」は観光経済や商業主義との親和性が高い。「わからない」ことによってお金を生み出せてしまう。だから、アーティストがお金にアクセシブルな環境をつくりだすことで、アートで稼ぐという論理とはべつの論理を立ち上げることができるのではないか。AAGのイベントとプロジェクトの二面性にその可能性を見出すことができるのかもしれない。

ATAMI ART "GRANT"と名付けられていることだけあり、このアートイベントの核にはアーティストを金銭的にサポートするGRANTプログラムが存在する。そのとき、アーティストを助成する<プログラムとしてのGRANT>と、アーティストの作品を展示する<イベントとしてのGRANT>のあいだに経済圏ができるのではないか。<イベントとしてのGRANT>が<ちょうどよいインアクセシビリティ>によって金銭を集め、<プログラムとしてのGRANT>によってアーティストに金銭を分配したり、レジデンスプログラムを運営する。

リゾート会社がこのアートプロジェクトを主導していることの(唯一の)希望は、とくに日本の現代アートに浸透していない経済(圏)の考え方を広めることで、アーティストが金銭的にサポートされる環境を整えることができることだ。まずはアートにおける商業主義を適切に批判するために必要な最低条件をつくるところから始めないといけないくらい、まだまだ巡るべき道のり=Voyageは長い。

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