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生活する音楽家:耳がウマい

一年ほど前、生まれてはじめて「耳がウマい」体験をした。

当時住んでいたマンションで年に一度の排水管清掃が行われた際、上階の排水管内の汚れが僕の部屋のキッチン近くで詰まりシンクから汚水が噴き出した。リビングは汚水で浸水し、ソファーなどの家具は汚損、臭いもひどく壊滅状態になってしまった。当然そのマンションからは引っ越すこととなり、埒が開かず弁護士を立てたりして最終的には賠償金を取ることができたのであるが、引っ越しまで実に2ヶ月弱キッチンとリビングが使えない状況になった。今となってはもうあまり思い出したくない。街でそのマンション名の接頭辞 *1を見かけるたびに悪夢を見るほどである。

僕は数年前まではかなりの美食偏執症であり、そしてフランス料理至上主義であった。Googleマップでピンを立てて、週に一度は中価格帯の店に、月に一度は高価格帯の店に行く *2。そして食べた味を記憶し、可能な限り自宅で再現するわけである。それこそが文化的だと信じて止まなかった。そういった姿勢で毎食食事を作っていたので、事故でキッチンが物理的に使えないことにはかなり堪(こた)えた。しかもキッチン、いやリビングに近づくたびに幻覚かもしれないが汚水の臭いで鼻の粘膜が充満し、食欲は消え失せていくのである。そうは言っても、生きている以上何か食事は取らなければならない。幸い在宅勤務でほとんど外に出ずほとんどエネルギーは消費しなかったが、口寂しさにさえ何かを口にする頻度が少なくなったことで、仕事や創作のパフォーマンスにまで影響が出始めた。そこで臨時ではあるが、毎食セブンイレブンで「7プレミアム サラダチキン スモーク」と「お豆腐とひじきの煮物」と「ザバスプロテインミルク(ヨーグルト味)」を食べることに決めた。これは当時夜に自動車教習所に通っていて妻と食事のタイミングが合わないため帰りに何か買って帰ることから習慣化したもので、タンパク質と中心としたギリギリ健康に影響が出ないレベル食事である(と信じている)。ちなみにその一方、妻が何を食べていたのかはなぜか思い出すことができない。

そんな生活が1ヶ月ほど続いたある時、何気なく音楽を聴くと信じられないくらいの感動を憶えた。音楽が素晴らしい。音楽が良い。音が良い。音がウマい。まるで高級アイスクリームの一口一口を味蕾で徹底的に味い尽くすような耳の感覚。なぜだろう。何かいつもと違う音響機器を使ったわけではない。そのとき強いて言えば「さいきん『美食』の習慣をやめている」ことに気がついたのである。人間いずれかの感覚が鈍くなるといずれかの感覚が冴えてくるのはどうやら本当なのかもしれない。スティービー・ワンダーが盲目状態でどうやってBird Of Beautyの歌詞を描いたのか、そのときそれがわかったような感覚だった。

美食は実は音楽によくないのかもしれない。あくまで仮説ではあるが、そう考えるようになった。ということは「良い音楽と美味しい食事」なんて言うものは幻想なのだろうか。あるいは「良い音楽」というのはあくまでの環境の一因子であって主なるものは「美味しい食事」ということなのだろうか。どっちにしても「美味しい食事」を取りながら流れているBGMについて聞き入り洞察するなんて状況はそうないので後者がどうも正しそうである。そして二つの要素は互いに独立であると言える。美食の対義語は悪食(あくじき)*3 だろうが、かといって逆にそれが音楽によいとも思えない。なぜなら先の論理を展開するなれば「雰囲気は良いがメシがまずい」という状況に何度も遭遇したことがあるからである。

なんとかもう一度あの「耳がウマい」という体験をしたい。そう考えていたが、引越し後生活を立て直そうという機運があり、なかなか同じ条件を再現することはできなかった。そう、普通に生活するわけであるから毎日コンビニでご飯というわけにはいかない。一方でかつてのような美食への徹底的なこだわりはなぜかなくなっていた。そうすると必然的にいままで食に向かっていたエネルギーが音楽へ向かってきた。今まで突然音楽に興味がなくなったり創作がうまくいかなかったりすることが多々あったが、そういう時には食事をうまくコントロールすることで打破することができると知った。

そして自分の中では一つの結論に至った。やはり飽食 *4が至高である。それも和食中心。柳田國男的にいえばいわゆるケの食事。これが音楽を聴くのも、作るのも、どちらにとっても一番良いのだ。空腹状態では何もできないが、美食で満たされていてもきっと腑抜けのさまである。人間すべてのものは同時に手に入らない、何かを得るためには何かを諦めなければならない。

しかし、業の肯定ではないが、それでもたまには少し美味しいものも食べたいと思う *5。

イラスト: にとろむ

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*1  イニシャルをLMというD社が管理しているマンション。どうもある一定以上の年代の人からすると「良いマンション」の評判があるらしいが決してそんなことはない。設備が古い。僕の住んでいた物件は共用部のオートロックは壊れていたし、エレベータで閉じ込め事故も多発していた。D社の対応は本当にひどく、管理責任があるにもかかわらず飽くまでも排水管清掃を実施した清掃会社に全責任を押し付けていた。最終的にもD社が何かを補償したりしてくれることはなく、清掃会社が全額補償した。

*2 多くの場合低価格帯の店は無視されるか、昼食のみ。しかしGoogleマップにピンを立てる習慣は今も変わらない。

*3 ちなみに文人は悪食であると言われている(嵐山光三郎「文人悪食」)が、彼らは悪食というより暴飲暴食に近いと思う。現代では「適当な食事」もクオリティが上がり、悪食を試みる方がむしろ難しくなっている。

*4 外食でも同じ理屈で飽食を試みたが、外食でのそれはコストパフォーマンスの観点から極めて難易度が高い。そこで気づいたのは飲みである。飲みの良いところはアルコールと味付けの濃い食事で瞬間的に満腹中枢が麻痺する。しかも価格が安く、瓶ビールで腹を満たそうものなら帰宅する頃には少し空腹を感じて良い感じになっている。専ら立ち飲み。妻はそこまで酒を飲むわけではないが、好きなジャンクなメニューを食べられるからという理由で付き合ってくれている。しかし娯楽として酒を飲むことも勿論ある。

*5 何度も繰り返し言っている幅の理論。何事にも幅が大切である。

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