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自己紹介~日本語力0で来日してから起業するまで~

はじめまして。株式会社クロスアジア代表の篠原晋寧(しんねい)です。
今回は私の自己紹介をしてみます。


はじめに

今から10年前。
育休から復帰後、仕事と育児の両立が思うようにできず、不完全燃焼だった日々。復帰半年後には退職を決め、独立の道を歩みました。


育休時代にマンション内で作ったママのコミュニティ(詳しくはこちらの記事でお話ししています)にヒントを得て、独立後はTX沿線に特化した育児情報検索サイト「ままてぃ」を構築、そこに登録してくれたママたちとママコミュニティを立ち上げ、コミュニティマーケティング(詳しくはこちらの記事でお話ししています)やイベント事業を行っています。


一昨年からは新しく、花茶を中心に、小売事業も新たに始めました。

それでは、こんな私がどんな人生を歩んできたのか、少しお話しさせてください。

国語教師の両親の元に生まれる

中国の遼寧省瀋陽市に生まれました。
父は中国の遼寧省出身、母は山西省(略称は「晋」)出身だったため、二人の出身地から1文字ずつとって「晋寧」と名付けられました。

さー、どれが私でしょう(笑)

両親は二人とも国語教師で、学校の宿舎(日本でいう社員寮のようなもの)に住んでいたため、周りも先生だらけという環境で育ちました。両親の口癖は「他の先生も見ているからね」でした。

姉と比べられ、勉強嫌いだった幼少期

私の上には6つ違いの姉がおり、姉はかなり勉強ができるタイプでした。中国でトップ10の大学に入り、所謂エリートコースを歩む。

そんなこともあり、私は小さい頃から姉と比べられ、親も先生も「お姉さんはできたから」と言い続けてました。
その反動もあってか、私は勉強が大嫌いに。

自習中はこっそり教室を抜け出し、男の子たちと一緒に塀を乗り越え校外に遊びにいくなど、かなりやんちゃしていました

しょっちゅう親が呼び出され担任や学年主任の先生に怒られ、親としてはよく知っているしかも年下の先生から怒られるのは本当に気苦労がすごかったことだと思います。

親戚や近所の人からも「おたくの妹は本当に大変な子だね」と同情されるほどでした。

ビリヤードはできないのに、友達とビリヤード場でたむろするのが楽しかった。

一方で、私自身は勉強はしないものの、友達はたくさんいました。毎日友達と暗くなるまで遊び尽くしました。
私は両親が教師で帰りが遅かったため、放課後は一番最初に外に出て、暗くなって最後の友達一人が家に帰るまで遊び尽くしました。
そのため、友達の中でもリーダー的ポジションに自然になっていました。

中学校になったとき、ちょうど中国ではビリヤードの全盛期。自習時間に男の子と一緒に学校から脱出して、ビリヤード場でたむろしてました。ビリヤードは全くできなかったですが、勉強から逃れ、好きな友達と一緒にいる時間は楽しかったです。

「発音がとても綺麗」その褒め言葉で猛勉強がスタート

そんな遊び三昧の日々に、転機が訪れたのは中学の英語の時間でした。英語の先生に「発音がとても綺麗だね」と褒められたのです。

勉強で初めて人に褒められた私は、発音だけは一番うまくなろうと、家で何度も何度も英語のテープを聞き、真似て発音することを繰り返しました。

するとまた次の授業でも先生が褒めてくれ、また次も綺麗に発音したいとやる気が出て、結果的に英語の発音はすごく得意になったのです。
当時の英語の先生は「将来英語ニュースのアナウンサーになれるよ」というようなことも言ってくれ、私にとっては自信になりました。

高校生になってからは、校外でネイティブの方がやっている教室にも毎週通い、次第に綺麗な英語を話すイギリスへの憧れが生まれ、卒業したらイギリスに留学することを目標にしていました。

得意の英語を伸ばしたいのはもちろん、家を出て他の国へ行けば、自分の行動に親もうるさく言わないだろうという気持ちもあったのです。

英語でイギリス。その夢は「ビザ」の問題で断ち切られた。

高校卒業して大学受験しないで、すぐにイギリス留学を申請しました。しかし、当時は、中国から他国へ留学するのは、厳し制約がいっぱいありました。語学レベルはもちろん、多額な保証金が必要で、親の収入と家庭の預金額に一定以上の基準を設けられてました。両親とも教師の我が家は収入も預金額もクリアできず、結局ビザは下りませんでした。

それでもめげずに、少し期間をおいて再チャレンジしたいと思っていました。しかし、親にとっては、周りの目もあるから高卒の子が何もしないで家にいるのは許せないことでした。勉強して翌年に大学受験を受けてほしいと言われました。

当時の中国は予備校はなく、受験勉強と言えば、高校3年生のクラスに入って勉強するしかなかったです。私は、高校に入って後輩と同じクラスで勉強するのは嫌だし、イギリス行きの夢も諦めたくないし、親と折り合いがつかず、喧嘩する日々が続きました。
そんな時に親の知り合いが見つけてくれたのが日本への留学という選択肢でした。

突然決まった日本への留学。日本語力0で初来日。

親の知り合いが地元の専門学校に勤めており、その学校が日本の短大と交換留学を初めようとしていました。初年度なので、希望する生徒数が集まらず、空き枠がありました。
家にいてもらうのは困る両親、どうにか海外に行きたい私。
その折衷案に見えたのが日本への留学でした。

とんとん拍子に日本留学が決まり、出発まて3ヶ月先しかなかったです。そんな短期間で勉強しても無理だと諦め、日本語力は本当に0の状態で、日本へ渡ることになりました。

ですが、日本の短大に入った途端、おしゃべり好き!友達といるのが好きな私は気づきます。
「日本語ができないと、おしゃべりもできない、友達もできないじゃん!」と。

そこで初めて必死になりました。日本語検定の過去問題集を10年分買って、何度もやり直して、3ヶ月で日本語検定の1級に合格しました。でも、全く話せなかったから、洋服屋さんや焼き鳥屋さんでアルバイトして実践的な日本語会話を覚えました。

最初の短大を卒業後、熊本大学に合格し、その後4年間も居酒屋のアルバイト三昧の日々を過ごしました。

今は閉店したようですが、チェーン店の居酒屋で、人情深い店長や、同じ学生アルバイト、わいわいした雰囲気、しゃべり好きで、人といることが好きな私には合っていたのだと思います。すぐにバイトリーダーを任され、シフト調整や店内放送もやったりしてました。

観光のつもりで行った東京。たまたま出した履歴書が通って就職が決まる。

大学3年生の時、1つ上の仲良かった先輩が就職活動を始めました。東京の就職フェアに参加したいのに、一人では不安だから、みんなで応援するつもりで、観光を兼ねて東京に行きました。
せっかく就職フェアがあるので、どんなものか見に行こうと、直前にコンビニで買った履歴書をもって会場へ向かいました。

理系の就職フェアだったこともあり、その会場で文系の募集をしている会社は2社しかなく、とりあえずその2社に履歴書を入れました。(当時はその場での面接の時間がなく、一旦履歴書を受け入れてくれるスタイルでした)

そんな風になんとなく入れた履歴書でしたが、そのうち1社から、一時面接の通知が来ました。
その会社に強い想いはなかったものの、「来たチャンスはとりあえず拾ってみる」がモットーの私はとりあえず挑戦することにしたのです。

緊張感のなさが逆に功を奏したのか、一次面接は難なくクリアし、筆記試験と社長面接に進み、最終的に就職が決まりました。
後々人事から聞いたところによると、筆記試験は0点ですが、九州弁を話す外国人が面白かったから、社長の印象に残りました。

3年働いて帰るつもりが、日本で結婚、出産。そして今。

やはり他国での生活が長くなると母国が恋しくなるもの。私も入社当初は「3年働いたら中国に帰ります!」と宣言していました。そのため、入社時から上司に懇願し、詰め込み式で仕事を教えてもらい、鍛えてもらいました。
頑張った甲斐あって、3年目の時、上海の子会社に駐在員として赴任し、新規事業の立ち上げを任されることになりました。
当時、駐在員は日本人で本社の課長職以上の男性しかいませんでした。中国人で平社員で20代の女性駐在員は初めてでした。キャリア的なに大きなチャンスだし、母国に帰れることだし、喜んでいました。
でも、当時は同期入社でお付き合いしている彼がいました。母国に駐在員として行くのは、戻ってこない可能性が高い。キャリアのチャンスと恋、どっちを取るか悩んでいました。

彼からは、君のキャリアは応援するけど、ずっと遠距離は無理だから、2年行って思いっきり仕事して、それから戻ってきて結婚してほしいと言われました。

それまで、自分のしたいように自分軸だけで生きてきた私でしたが、この時初めて、この人との約束を守ろうと思った瞬間でした。
2年後結婚して、上海子会社から本社の国際部に戻り、見事に恋のために、自分も会社も裏切りましたね(笑)

その後、冒頭に戻りますが、日本で出産を経験し、育休復帰後に独立を決め、今はコミニティーマーケティングと小売業をやっております。(育休復帰後から会社の設立までの経緯はこちらの記事)

おわりに

ここまで読んでいただいた方は、少し私の印象が変わったのではないでしょうか。

「経営者」という肩書きゆえ、どうしても計画性があって、きっちりしていて、強気なイメージを持たれがちなのですが、実はそういうわけでもありません。

おしゃべりが大好きで、飲み会などみんなが集まる場所にいるのが幸せな親しみやすい性格です。

就職の際のエピソードでも分かる通り、その場その場のチャンスを直感を信じて受けてみる、そんな身軽なタイプでもあります。(もちろん経営においてしっかり考えるべきことは考えますが)

留学のエピソードなど、努力したことが叶わず、多くの人が絶望しそうな局面でも「終わったものは仕方ない!未来を考えよう!」と切り替えも早く、終わったことに執着もない、さっぱりした性格です。

そんな私の一面が少しでも伝わっているといいなと思います。


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